最終話 その手で
・暴力的描写があります
病棟内に激しい音が鳴り響いた。
床に散らばったものは、刃物だった。
精神病院の病棟に、存在するはずもないものだった。
「その手があったか……」
誰かが言った。
床には割れたテレビの画面が散乱。
ナースが何事か叫ぶが、知ったことではなかった。
僕は島本さんらしき人を、捕まえる。もはや彼は抵抗することも、眼前で起きていることにも、僕自身にすら気が付くこともないようだった。
いや、なかった。
僕は彼を抱き寄せ、人質を取るように、病室のひとつへ向かった。
「赤井さん。彼を殺すのか」
「はい。安藤さんは、どうしますか?」
僕は4人部屋の一つに入り、扉を締め切った。
扉越しに僕たちは会話をした。看守たちがやってくるのも時間の問題だろう。
「安藤さん、すみません。警備員が来たら、対処してください」
「……わかった」
「安藤さん、どうしますか?」
「入れてくれますか?」
「部屋に?」
「頼みます」
僕は扉を開き、安藤さんと一郎を中に入れた。
廊下ではまだ行列の行進が続いているのが見えた。
「安藤さん、僕は憲法32条に救いを求めます」
何人も、等しく裁判を受ける権利。
「それは、正解です。しかし、正解だとあなたに割り切れるとは思えない」
「安藤さん、議論している暇はありません」
片手に握りしめているガラスの刃が痛い。
安藤さんは、安藤は、僕のその刃をじっと見ている。
「未来は若い人間のためにあるものです」
そう安藤さんは言った。
「だから赤井さん、島本は殺さないでやってほしい」
「島本さんは、もう……」
「赤井さん、あなたに島本さんは、人は、殺せません」
「……何を」
安藤さんは僕から刃を奪い取ると、言った。
「だから、あなたが死んでください」
言うと、安藤さんは僕の右腕の付け根に、
刃を、突き刺した。
「これで、ここから出ることができる……。」
「安藤さん……、ッ……、あんた」
当たり前のように、逮捕され、警察から取り調べを受け、裁判にかけられ、然るべき監獄へ入ることができるのだった。
「言っただろう、殺してやるって」
「まだ……、ずっと……、恨んで?」
痛みはあまりない代わりに、すさまじい勢いで血が噴き出、床に流れ始めた。
呉一郎は部屋の入り口から、僕たちの様子をじっと見ていた。
「わかってるよ……、安藤さん。若い人って、……娘さんのことだろ」
「……」
「わかってる……、わかってるから……」
僕は急激に寒くなって、床に座り込んだ。
「一郎……、一郎は、どうする?」
「僕ですか……」
思い切ったように、一郎は言った。
「トーカさんになら、殺されても構いませんよ」
「なんだと……」
一郎が血にまみれた安藤さんに歩み寄り、刃物を受け取ると、僕に渡した。
「トーカさん、生まれ変わりって、あるんでしょうか」
「死んだこと、ねぇから、わからないよ……」
「そうですよね」
えへへ、と笑った。
「本当は、死ぬわけにはいかないんです。僕がいなくなったら、ここの人たち、きっと淋しくなるから」
……それはきっと、夜のイトナミのことだ。
「お前、なあ…… それは、だめだ、僕が……俺が、許せない」
「……困りましたね」
「テメーら……俺も、連れてけ」
そんな声が、はっきりと、床に座り、頭をうなだれたままの島本さんの口から、聞こえた。
「……島本、さん?」
「目が……頭が覚めちまった……、なんだ、死にそうじゃないか、トーカ」
「また会えるとは……思わなかったです」
「ここを、出るんだろ……」
「僕はもう、……わからなくなりました」
意識こそあるものの、この出血では、どうなるかわからない。
身体がしびれて、寒くて、思考がまとまらない。
「一郎、俺がまた俺じゃなくなってしまう前に、先に貸してくれないか、そのモノを……」
言うと、一郎は素直に刃物を差し出した。
「島本。もう時間がない。出るなら、やるなら、もう今しかない。一緒に行くぞ」
そして、ガラスの刃を受け取ると、立ち上がり、
安藤、さんの首元に刃物を突き立てた。
「嫌なこった」
ガラスの刃はいつの間にか砕けて、使い物にならなくなってしまった。
血の臭いと、
遣る瀬無さで満ちた病室に。
欠片が。
きっと鋭く尖った「彼」の優しさが、欠片となって床に散らばっているようだった。
――。
それからの記憶は曖昧だが、
歩いて、あれだけ堅かった門を出て、救急車に乗るとき、振り返ると、一郎が窓の中にいるのがはっきり、見えてとても悲しかったことを覚えている。
――
僕はもともと住んでいた都内の病院に移ることとなった。ありのままを僕は警察に説明した。3人の供述に矛盾はなく、「その」精神病院を出るための事件であったことは、動機としては異質なものとして見られたが、事件が社会的にタブーとされることなく、新聞やテレビで報道された。
僕はその報道の内容を、治療のために入院していた病院で知ったのだった。
ある日、法律家が僕の病室に面会に訪れた。
それは、もう何年も前に、僕にかかわるある事件を担当してくれた弁護士だった。
「いやー、さがしましたよ」
「先生のような弁護士でも探せないことが、あるんですね」
「赤井さん、突き止めていれば、様子を見に面会に行くつもりでした。あなたのことは気になっていましたから」
「ふつうの弁護士さんは、そこまでしません。先生はどうして僕のような人間を気に留めてくれるのですか?」
「アフターケア、のようなものです。赤井さんももう三十歳になります。社会復帰の役に立つことができれば、私も嬉しいんです」
「しかし、僕に何ができるでしょうか」
そうですね……と考え、彼は言った。
「事件の話を聞いたのですが、加害者……、の方の名前は知らないのですが、被害者の、安藤さんですか。ああ……、デリケートな話になってしまって、申し訳ありません。裁判で裁かれたいから、やった、ということなのですよね」
「……そうですね……」
「興味があるようでしたら、法律でも勉強してみてはどうですか?」
そんなことを、先生は言った。
「今度、障害をお持ちの方が社会に出られるような事業を始めるんです」
そう言うと、先生はポケットの名刺入れから、名刺を一枚取り出して僕に差し出した。
「今、就労移行支援の仕組みが整いつつあるんですよ。怪我が治ったら、連絡をください。喜んでお力にならせていただきますよ」
そこに新しい居場所があるだろうか。あるのかもしれない。
「佐々木先生、ありがとうございます。今後とも、よろしくお願いします」
僕はお辞儀をした。
「いい角度ですね」
「え?」
「お辞儀の角度です。私が企業の面接官なら、ポイント付けます」
「はは……」
海に近いその病院の近くを歩く。
あれから島本さんには、会っていない。
裁判はまだ始まっていないようだ。
彼がいなければ、僕は今こうしていなかっただろう。
きっと海を見ることも、感じることも、なかったかもしれない。
島本さんは僕を救い出してくれた。
けれど、
あの病棟の窓から、一郎が僕をずっと見ていると思う。
そしてきっと、ずっと、
泣いているのだろう。
彼らの泣いている声が、ずっと聞こえる。
みんなみんな、泣いている。
それが聞こえなくなるまできっと、僕は幸せになんてなれないし、
彼らを忘れて幸せになろうとは、思えない。
――傷を負ったその手で迎えに行こう。
そう強く誓いながら、生きている。
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