第2話 それからどれだけ時は過ぎたのか

 僕の(俺の?)房の隣から。

 それは、左か?右からか?

 それも、よくわからなくなって、しばらくの時が過ぎた。


 食事らしきものは、まずくて口に合わない。病院食というのだろうか。親の仇のように、切り干し大根ばかり出てくる。食欲もないし、味もしない。僕は……、僕は自分のことを、僕と言っただろうか。俺、と言っただろうか。そんなことさえも、よくわからない。


 窓も時計もないのだから、なにもわからない。


 僕は毎日、鉄格子の隅に設けられた、食事投入用の穴から突っ込まれる切り干し大根を出されてはろくに食わずに、部屋の床の中央にある穴に突っ込んだ。これはどうやら、便器らしかった。トイレのようなものなんか、ない。便器なんか、ない。ただの、床に空いた穴。

 それがなぜ、便器なのかわかったのかといえば、左や右の旦那たちが、「食事」の時間のあと、叫ぶからだった。

「すいませーん!」「水、お願いします!」「流してくださいー!」

 その願い事が聞き届けられると、ドザーという音とともに、水が流れるのだった。この穴の水は、各房ごとに連動しているようだ。俺は突っ込んだ切り干し大根が詰まりやしないか、ひやひやした。


 ベッドなんか、ない。きっと角に頭をぶつけて、自殺することを防ぐためなのだろう。

 水道なんかない。蛇口なんかあれば、いくらでも自殺ができる。


 これが、精神病院か。


 まじかよ。



 ……思い出す。

 それは一昨日のことだっただろうか。


 それとも……、


 一昨年のことだっただろうか。


 もはや、虚ろな記憶。


「入りなさい!」

 大勢の屈強な男たちに両腕をつかまれて、僕俺は、この部屋の前に立たされていたことをうっすらと覚えている。


 僕俺は、床の「穴」以外なにもない「部屋」の前に立たされて、愕然として呆然として、立ちすくんでしまっていた。


「早く、入りなさい!」


 し……しかし。


「ここは、君を保護するための部屋なのだから、入りなさい!」


 その後自分の意志でこの「部屋」へ足を踏み入れたのか、それともそうでないのかは、わからないし、些末トゥリビアルなことでしかない。


 部屋の中に放り込まれた後、「あなたは保護されてここにいます」「異議申し立てがあれば県知事に不服申し立てをすることが…できる」云々の書面を目にしたことがあった気もするが、それももう遠い過去の話のようだ。記憶に、ない。


「すいませええええええええええええええええええええええええんん」

「すいませええええええええええええええええええええええええんん」

「すいませええええええええええええええええええええええええんん」」



 左、右から、延々と。その声が聞こえる。

 声から、中年かそれ以上と思われるような男の声が聞こえる。

 聞こえ続ける。


「水くださあああああああああああああああああああああああああああああい」

「水くださあああああああああああああああああああああああああああああい」


 まるで、水を求める餓鬼のようだ。


 これを何時間、何日、何か月……?聞き続けてきたのか?


 僕俺は、その叫び声に耐えられず、部屋を出たく抗いたくなる。しかし、それは不可能でしかなかった。

 この部屋には


 ドアが


 ないのだから


 鍵穴もない。だから、ピッキングなど、不可能。


 僕は、俺は、北海道のある有名な脱獄囚の話を読んだことがあった。その脱獄囚は、過酷な環境の中、手にはめられた枷や手錠に、みそ汁を食事のたびに密かに吹き付けた。そして、すこしずつ錆びさせていった。そしてある時ついに錆びて朽ちた手錠をひきちぎり、落ちていたヘアピンや針金を使い、扉の鍵穴を開け、天井を伝い、真冬の北海道の地を、脱出したのだという。

 

 しかしこの部屋には、


 ドアも、ドアノブもない。


 すなわちこういうことだ。


「この部屋は、入れた人間が『外』に出ることを前提として作られていない」


「すいませええええええええええええええええええええええええんん」

「水くださあああああああああああああああああああああああああああああい」



 僕が覚えていることは、

 それはおそらく事実だろうが、

 それが事実だと認識できているうちに、意識に刻んでおかなければいけないことだが、


 僕は、僕の家族を手にかけた。


 それにより、僕俺はここに、今いる。


 そのことは、受け入れなければいけないことであった。



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