逃走編

第17話 僕はここを出る

※一部不快な表現がありますが事実です。


 ある日、僕のもとに手紙が届いた。それは唯一の肉親、姉からのものだった。

 厳しい内容だった。「あなたのしたことを許すつもりはない」という意味のことが書かれていた。

 だから僕はひどく精神的に落ち込んでしまっていた。


 僕は鉄格子の中から、窓の外を風景として、ぼうっと眺め続けていた。

「僕は一生ここに居続けなければいけないのだろうか」


 事実、20年、30年出ることができない人たちだらけなのだから、自分がそうなっても何もおかしいことは、ないのだ。いや、むしろ自分が犯した犯罪行為――殺人――を考えれば、そうあるべきなのかもしれないし、それが自然なのだろう。


 それを想うと、何も考えることもできなくなる。――希望が、なくなる。――怖くなる。


 食堂スペースの長机のイスに座って、呆然と外を見ていた。


 妙な音楽のようなものが聞こえるような気がした。


 そちらの方を見ると、もう何年ここにいるのかも知れない、老人がイヤフォンで何かを聞いているのだった。こんな老人は何を聞いているのだろうと、ふと、興味を持った。


 そこで、僕は立ち上がって、何気なく老人の背後に回り込んで、そっと近づいて、彼のイヤフォンに顔を近づけて、誰を聞いているのか、知ろうとした。


 それは聴こえた。


 そして思った。「だめだ、ここは」。やはりここにいては、だめだとはっきりとわかった。


 果たしてこの爺はカセットで何を聞いていたか?



「島本さん」

 僕は病棟の彼に声をかけた。


「ああ」


「やはり俺、ここを出たいです」


「何かあったのか」


「あそこの爺さん、何聞いてると思います?」


「ああ、あれか。っは。あれはもう、だめだな」


「知ってるんですか?」

「知ってる。聴いたのか?」

「はい」


 僕はさっきのことを思い出した。


 その老人が聴いている「もの」を知って、戦慄したのだった。

 それは音楽なんかじゃなかった。


「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏――」



「島本さん。一体何があれば、人は、こうなっちまうんですか?」

「……」

「この爺さんだって、――何年入院してるか、わからないけど――、入院した当初は、その時は、自分がこうなるって、思ってなかったんじゃないですか?」

 外を見ながらお経を聞き続けている爺を見ながら、僕は声を荒げた。


「いやだ……、嫌だ! 俺は、僕は、俺はこんな風になりたくなんかない……。俺はそれは、この手で、人を……、でも、こんなのは、いやだっ! だって、おかしいよ……。なんで病院でお経とか……、なんでだ? 全然、わけわかんねえよ、島本さん!! なんでこんな人が、いるんだ! ……ああ!」


 黙って聞いていた島本が口を開く。

「トーカ。お前のその葛藤は俺も何か月も舐めてきた苦い飴だ。今だって舐めてる。俺がこれまでさんざんやってきたどんなドラッグよりも、トリップしそうだ。こんな老人がいることは絶対におかしい。近づいちゃいけない。お前のその混乱は、俺のものでもある」


「ああ……」


「心配、して、良いのだ。心配で堪らない。それが、」


 それが。


「正常だと思うし、」


 思うし、


「トーカ、お前の存在で、それは確信に変わるのさ。そう思ってるのは自分だけではないと想えるからな」


「ああ……」


 僕は首を何度も何度も振った。


「さらに教えてやろうか」

「何を、ですか」


 彼はトイレの方を向いた。


「見ろ」


 トイレの前に、ほとんど廃人みたいな患者――いつも食堂の床に仰向けに転がって、ゆりかごみたいな動きをしている患者だ――がいる。


「あの廃人を連れてるやつ、わかるな」

「20年くらいいる人、だ」

 

 トイレの入り口で……、何を?


「見てな」

 

 ……あっ。


 二人は周りの目を多少気にして、タイミングを見て、トイレに入って行った。いや、廃人の患者を、引っ張るように、いや、引っ張って、トイレに連れ込んでいったという方が正しい。


「……個室、に入った……? 二人で……」

 間違いない。個室に入って行った。


「あの二人が何をしているのか、わかるか」


「え……?」

 トイレで? 二人で……? 僕は少し考えた。

 映画や小説とかだったら……。


「か、隠れて脱出の穴を掘ってるとか……」


「フェラチオだ。」


 僕は愕然とした。


 その後「それ位の」時間が経ち、トイレから二人は出てきた。するとそこにたまたま通りかかった看護師の男と、二人が顔を合わせた。

「あ……」


「何やってるの、また男同士で……」

「へへ、まあね」

 というやりとりだけで、看護師は文字通りスルーして行ってしまった。


 と、咎められもしないのか。

 「また」とも聞こえた。珍しいことでさえもないということか。


「トーカ。俺もだめだと思っている。俺たちがどうとかじゃない。ここはもう、だめだ。」


「島本さん……、島本さんは、僕は、ここから、出られますか」


「出たいのか。」「はい」


「はいじゃないが」


「島本さん、俺はここを出ます。教えてください」



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