第23話 「僕は病気じゃありません」

「……違う、違うと言い訳したとて、それっがそのまま……」

 

 一郎が窓の外を見ながら、聞きなれない歌を歌っていた。


「一郎さん。何ですか、それ」


「あれ? あれあれ? トーカさん、知らないんですか?」

「知らない」


「ドグラマグラ、読んだんじゃないんですかぁ?」

「読んだけど……」


「まあ、文量が文量ですからね、読み飛ばしても、仕方がないでしょう」


 一郎はドグラマグラのあるページを開いてみせた。

「ここですよ」


 それは『スチャラカチャカポコ』という歌が延々と続く章だった。


「僕はここが、いちばん好きなんです。中でも、このフレーズが、ね」

 ふふふと淫卑な笑いを見せながら、一郎は言った。


『違う、違うと言い訳したとて、それがそのまま「キの字」の証拠……』


「『キの字』が何か説明するのは、野暮というものですよね」

「あ、ああ……」


 言うまでもない。キで始まる4文字の言葉である。


「今の僕たちに、ぴったりじゃあ、ありませんか」

「……それはわかるけれど、それを精神病院の中で読んでるってのも、いささか自虐っていうか、ブラックジョークにしては笑えないよな……」


 やっぱり、どこか狂ってるんだろうなあ、と思う。


「ねぇ、僕たちがいくら『違う、違う、おれたちは精神病なんかじゃない。だから出してくれ、といくら言ったところで、それがそのまま、気違いの証拠にされてしまうんですね。いわゆる、『病識の欠如』というやつです。この作品が書かれたのは大正時代だったでしょうか?今でも「自分は病気じゃない、正常だ」といくら主張したとしたって、同じことですよね。「ああ、この患者は自分の病気をわかってないな」と思われる。保護室にぶちこまれる。大正時代から、何一つこの国では変わっていないんですね」


 何がおかしいのか、くすくすと笑い続ける。こいつは、これからどうするつもりだというのか……。


「トーカさん」

「ん……」

「今夜、やるみたいですよ」

「やるって……、また、乱交……?」

「違います。安藤さんと、島本さんの計画です」

「あ……」

「詳しく聞いておいたほうがいいかもしれませんよぉ」


 なるほど……。

「トーカ、ちょっと話がある」

 と、そこにたまたまタイミングよく、島本氏が僕のもとに来て、そう言った。

「今、行きます」


 僕は気になって、一郎に聞いた。

「一郎……」

「はぃ?」

「君はどう考えているんだ?」

「脱出、についてですか?」

「ああ」

「僕にとってここは、わりと居心地が良いんですよ、えへへ」

 と、笑うのだった。それはこの病棟に居れば、セックスについて不自由しないという意味だろうか。

「一郎、君だってまだ若いし、その……乱交にしたって、この中で満足できるものなのか?」

「それについてはぼくも考えているところですけれど……」

 一つだけ言えることがあります、と言った。

「ぼくがいなくなったら、この病棟は……病棟の彼らは……、」

「え……」

「なんでもないです、えへへ」



―――――――――――――――

 夜。

 僕たち三人は、夕飯の終わった食堂にいた。

 一郎は、少し離れたところで、僕たちの様子を、文庫本を読みながら気にしているようだった。

 そして、そのフロアにはいつも床に転がっている「廃人」と、テレビを見ている何人かの患者。老人がカセットテープを聞いていた。


「たぶん、やるなら今日だ」

 安藤氏が言う。

「島本……気を付けろよ」

「大丈夫。ノーリスク……だ」

「安藤さん……。では」

 安藤は頷いた。

「トーカ、うろたえるなよ」


 僕は、頷いた。


 安藤が動いた。

 立ち上がり、看護婦たちの目を気にしながら、床に転がっている「廃人」のそばに近づく。

 そして、「廃人」の耳元で、何か、囁いた。


 その瞬間、「廃人」は豹変する。

「よし……」

 島本も立ち上がり、フロアを動き始めた。


「あああああああああああああ!!!!!!!」

 「廃人」の「いつもの」絶叫が始まった。

「よし」

 「廃人」は即座に立ち上がり、何もない壁に向かって叫び始めた。

 看護婦たちも声に気が付いたが、いつものことかと、廃人を一瞥するだけで、特に気にしている様子もない。よし、ここまでは……。


 チャンスは、1度、か、2度。


「北朝鮮が、北朝鮮があああ!!!!」

 いつも北朝鮮の兵隊の姿を見、叫び、椅子を投げつける「廃人」。


 「廃人」がいつものように、長机のパイプ椅子を手に取った。

 それを島本が凝視している。


 投げる!


 島本はその椅子が当たるであろう壁の方へ走る。


 かなり強く投げられた椅子が、島本の身体に、叩き付けられた。


「島本さん!」


 「廃人」が島本氏に近づいて、転がった椅子を再び手に取り、何度も何度も、島本に対し、叩き付ける。それを僕らはあえて止めはしない。


 僕は近寄って、「それ」を島本氏に使う。

 島本は僕に目線を送り、頷いた。


 島本の頭部、額から大量の血が流れ、床のタイルを侵食しはじめた。


「島本さん!」


 


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