第4話 檻の中のロンド

「てめえこの野郎、今何て言いやがった」


 俺は言った。

 相手の顔も姿も見えない状況。

 どうせ誰が言ったかも、わかるまい。

 どうせ声では、わかるまい。


 どうせ、俺もお前も、出られまい。


「気違いだから気違いと言ったんだ。四六時中、大声で叫びやがって。何をして来たのか知らないが、もう勘弁してくれ」


 相手の怒りだけが伝わってくるなか、俺は言った。


「さっさとくたばれ。気違い野郎が」


「……」



 それからしばらくの沈黙が続いた。もちろんそれがどれだけの時間続いたのか、時計も日の光もない僕らには、わかるはずがないのだ。


 しかし、虚ろな精神状態でいた僕の耳に、こんな声が聞こえてきた。


「なあ、先生よ。隣のガキが、俺のことを気違いだって言いやがるんだよ。そんなこと、言っていいのかよ。ええ?」


 な。


 医者が、いるのか。


 主治医が、いるのか。


 今、隣の奴のところに、いるのか。


 まずい。そんな状況で、僕が「気違い」なんて言ったなんてことがわかったら、僕の鉄格子からの脱出なんか、いつになるか、わからなくなる。おとなしくしていることだけが最善のはずなのに。まずい。……これはまずい。


 しかし、隣から聞こえてきた声は意外なものだった。


「はい、わかりました。そうですか、隣から、良くない声が聞こえてきたんですね。はい。とりあえず、今日は様子を見ましょうか。はい、お薬飲んでください、ね」


「おい、先生。俺の言うことが信じられないのか。確かに隣の、右の奴だ。見えないけれど、声からしてそんなに歳、いってもないだろ。若い奴だ。男だ。殺してやるから俺のもとに連れてこい!」


 僕は背中が冷たくなる想いがした。


「わかりました。わかりましたから、お薬飲みましょうね」


「ウ……」


 そして、主治医は帰っていったようだった。男の声も、それきりすることは、なかった。もっとも、けだものの咆哮のような鼾は、ずっと途絶えることがなかった。


 僕が鉄格子の外の世界を知ることになるのは、それから間もないことだった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る