第12話 セロクエル


 あの時、僕は本当に終わったかと思った。

 

 この病棟には多くの患者がいる。その中でも、やはり、10年、20年監禁されている患者たちは、やはり廃人のようなのだった。ここで監禁という言葉を使ったとしても、決して言い過ぎや、奇をてらった言い方ではないだろう。未来永劫、この病棟を出ることはできないのだから。


 たとえば僕の目の前には、床にあおむけになったまま、ひざをかかえている老人がいる。

 この老人は寝ころんだまま、膝を抱えて、ブランコや振り子のように、ごろごろごろごろを、1時間も2時間も、繰り返しているのである。かと思えば、毎夜、食堂で椅子を放り投げては、北朝鮮が襲ってくると泣き叫ぶ奴もいる。


 そして僕は、喋ることができなくなり、涎を垂れ流し、ひとりでパンを食べることさえもできなくなった。それはたった1錠の薬の投与によるものだった。


 思考はできていた。

 これからどうなるのかとか、俺はもう終わりかもしれないとか、できていたから、ひょっとしたら回復はできるかもしれないとも思えた。ここでブランコごっこをしている男は、たぶんできていないだろうから。


 島本氏がナースに詰め寄ってくれたらしい。

 それで、僕はまだ喋ることはあまりままならないが、主治医藤田の診察を認められた。そもそもこのような精神病院では、診察をすること、してもらえること自体が、珍しいことなのである。

 そもそも退院を前提とした病院ではないのだから。このことについては後述する。


「……ま、薬の飲み合わせが、あまり良く合わなかったようですな」

 僕はほとんど口を閉じることができない。口を開けたまま、このようなことを言った。


 


「薬の名前ですか」



「……」

 藤田はさすがに、完全に豹変してしまった僕を見て、責任を感じるところがあったのだと思う。ましてや、である。世界で一番揉め事を避けるゲス野郎だ。


「……クエチアピンフマル酸塩」


 


「……何を、。ちゃんとした薬の名前だ。君のような自傷他害の……」



 それは例えば、「デパス」という通り名で有名な薬がある。これは商品名の一つだ。ある薬の商品名として最も有名な名前が「デパス」。しかしこの薬はジェネリックや、ほかの製薬会社などで、同じ成分でも違う名前で販売され、処方されることは全く珍しいことではない。デパスなら、エチゾラムやエチカームのように。

 藤田はある有名な薬の名前を、他の、まったくメジャーではない呼び方で胡麻化そうとしたのであった。



 すると、その医師は「……セロクエルとも言うが」と言った。完全に抗精神病薬である。


 簡単に説明すると、メンタルヘルス系の薬は、大別して3種類ある。


一。うつやうつ病のような(うつとうつ病は異なる)状態を治療するための「抗うつ剤」。最低1か月飲み続けなければ、効くか効かないかがわからない(そんな規則正しい飲み方ができるならかなりうつは良くなっているといえるだろう)。


二。パニック障害や不安感の強い時に飲む、気分を落ち着かせるための「抗不安剤」。デパスや、不眠時に飲むのもたいてい、これである。


三、幻覚や妄想が強かったりするときに処方される「抗精神病薬」。最も強力で、副作用も最強だ。身体のだるさや眠気も相当なもので、特に幻覚や妄想がなくても、飲めば副作用で眠くなったりだるくなったりするので、逆に副作用をメインとして不眠症に効果があるから、そういう場合に出されることも多い。


 そこでなぜ僕にこの三に属する「セロクエル」が処方されるのか。

 問い詰めても無駄だろう。


「とにかく、うちは最初……ファーストチョイスとして、この薬なんだ。その副作用もそのうち治るから大人しくしていなさい」



「忘れるな。君は精神障害者だ。治療するためにここにいることをわかっているのか。退院退院と考えるくらいなら、落ち着いて、過ごせ」








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