第5話 檻の外の檻
思いもかけず、僕が檻の外に出られた時、とても世界が広く感じられたことを覚えている。それは実際には、山奥の精神病院の、隅の、病棟のいちフロアにすぎなかったにも関わらずだけれど。確かに世界は広がったのだ。いや、世界は広かったのだ。
驚いた、というか、嬉しかったのは、フロアにはテレビがあることだった。テレビ。テレビだ。テレビに感激するなんて、まるで戦後の日本のようだ。刑務所でさえ、部屋にはテレビがあるのに。僕は病棟の食堂らしき空間の隅に置いてあるテレビの近くへと近づいて行った。
テレビの近くには、まったく光のない目をした患者がぼうっとした表情でブラウン管を見つめていた。5人、6人が、そうしていた。それが彼らにとっての、現実なのだった。そしてそれは、僕にとっても同じかもしれなかった。
いくらやらせや偽りがあろうとも、少なくとも日付や時刻は嘘ではなかろう。僕はすっかり、あの「部屋」で、たくさんのものを失いかけていた。時間の概念や、自我のことだ。あの「部屋」での現実は、ドラえもんのチョコレートの包み紙だけだった。もうしばらくあの場所にいたら、きっと僕は、あのドラえもんと話をして、すっかりドラえもんと友達になっていただろう。人は拠りどころがなければ、生きてはいけないものだ、と思った。
虚ろな表情の患者たちの奇異の目を無視して、テレビに目をやると、どうも大きな事件か、事故を大々的に報道しているようだった。「番組の途中ですが」「繰り返してお伝えします」そんな言葉を、アナウンサが繰り返して口にしていた。どうも、関西のほうで、電車が転覆したとか、ビルに突っ込んだとか、そんな様子だった。
そんなテレビを見ていて、わかったことは、僕がここに収容されてから、2週間ほどの日が過ぎたようだということだった。意外とも、なんともわからなかった。3日いたような気もしたし、1か月いたような気もしたけれど、2週間と言われれば、そうですか、と思うだけだった。ただ、それを認識して受け入れた。
あらためて、僕は周囲を見回した。
このテレビを、ひとつの点としたとする。それはアルファベットの大文字のLの角に位置する。その角に食事をする場所があり、トイレがあり、長机が並べられていたり椅子が置いてある。そして、そこではざっと10人ほどの患者が呆然としているか、何をするでもなく、パイプ椅子に座っていたりしている。
喫煙室もあるのだった。
そしてこのLの角から一方に、病室のある廊下が長く伸びている。その廊下には、左右に病室があり、各部屋4人部屋のようであった。それが、5列くらいあって、月当たり。
Lの一方の廊下には病室はなく、洗濯室とか、診察室、ナースステーションのようなひっそりとした部屋がある。僕が突っ込まれていた鉄格子は、この廊下に入り口があった。そういえば、病棟に連れてこられた時、この廊下から入れられたことを思い出す。
ナースステーションなんて言葉を使ったが、そんな言葉はひどく不適当なもののように思えた。そんな近代的な横文字は適当ではない、ただの詰め所である。
患者は、全員が男性だった。ほとんどが、40歳か、50歳か、それ以上。70歳以上か、それ以上とも思えるような老人も少なくはなかった。
そしてきわめて奇妙なことに、僕がテレビの前に立っていて「それ」を見ていたのだが、20人近い患者が、列を作って、L字廊下を、両手を前にだらりと伸ばしながら、歩き、往復を続けているのだった。
……なんだ、こいつらは……。
L字の先に突き当たると、戻ってきて、歩き続けていた。別の廊下の先までたどり着くと、またターンして、戻り、もう一方の廊下の突き当りまでふらふらと歩き、またぐるりと引き返して、戻ってくる。何人もが。
患者の全員ではないから、何か強制されてやっているわけではないようだった。
かといって、強制されなければ、自ら進んでやるようなことでも、あるはずがなかった。
運動か?いや、それであれば、腕をだらりと伸ばしてやる意味はない。
「奇妙に見えるでしょう」
!?
あの鉄格子で30歳を迎えた僕と同じくらいの年齢の男が、声を掛けてきた。
これが、僕とサトシとの初めての出会いだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます