第20話 一郎

 巨体に似つかわしくない穏やかな敬語で、安藤は僕に言う。


「わかりますか。ここは、自らここを必要としていない者にとっては、」

 

 少しの間を置いて、言った。「絶望でしかない」。


 安藤はそれに補足した。このような行為は「即時強制」と呼ばれる行為なのだという。このような行政……公立病院なのだから、行政なのだが、行政機関が国民の身体を強制的に拘束するような行為を行うことは、「即時強制」という行為にあたるのだと。

 たとえば泥酔した男が酔いつぶれて道で倒れている。それをパトカーに乗せて交番に連れて行き、朝まで寝かせる。これも「即時強制」という行為で、文字通り、法律に基づいた行為ではあるが、然るべき――例えば裁判所とか――機関の許可を得ずに、強制的に、即時に人の身体や財産を制限するような行為をそのような言葉で呼ぶのだという。


「実際、行政の行為としては、表立ってとりあげられていないだけで、法学上は大変な問題となっているんですよ」という。「なぜ問題にならないかと言えば、私たちが――、気違いが声を上げても、誰も聞かないからです」と、耳の痛いことを言った。けれど、安藤は想像以上に見た目以上に法知識を身に着けているようだ。


「安藤さん、島本さん。でも、どうやって?」

 どうやって逃げるのか、という意味だ。

 それには島本が何か考えがあるようだった。


「実はな……」


 島本氏は、考えているアイディアを僕に話し始めた。



 ……。


「あいつを、使うんですか……。なるほど」


「まずそこが第一歩だ。俺たちはここの構造を大して知りもしない。まず出口までの経路を調べる必要がある。そのために、一度『やられなければならない』」


 安藤は黙って聞いている。


「確かに、『あいつ』の『あの行動』を利用しない手はない、かもしれない。使えるかもしれない。『あいつのあの怪行動』を……。やる価値はある。島本さん。仮に100のうち100うまくいかないとしても、やらないよりはましです」


「ああ」


 その時。


「三人揃って、良からぬ相談ですか……?」


 喫煙室ではほとんど見かけない。病棟では時々見かけることはあっても、話したことはない、いつも本を読んでいる印象のある、男が突然、喫煙室に入ってきた。


「呉……」

 と、島本さんが無表情で彼を呼んだ。


「はじめまして。赤井トーカさん。……母親殺しの、」


 くすくす、と笑みを浮かべた男は名乗った。

「改めまして、初めまして、呉一郎と申します。以後、お見知りおきを」


 彼は二冊の文庫本を持っている。表紙には、怪しげな、裸体のような女性が描かれている本だった。


 安藤が言った。

「面倒な奴が、珍しいな。まあいい。お前も入れ」

 と、意外にも会話に入ることを許すようなことを言うのだった。


 男性にしてはひどく小柄……、いや、まさか、

 女性、それも、若い……、なんじゃないかとさえ思えるくらい。


「ではお言葉に甘えまして」

 

 そして。


「あなたにも、甘えて良いですか?」


と。











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