第15話 狂乱

 僕は4人部屋のベッドに戻って、怯えていた。

 見た目、奴はどう見ても、堅気の人間ではない。半裸、と言っては言い過ぎだが、シャツ一枚で煙草を吸っている様子は遠めに見ても、ヤクザにしか見えない。彫り物もまず間違いなくあるだろう。墨が、あるだろう。ましてやあの巨体である。巨体というのも、並外れたものではない。体重にしてみれば150キロはあるだろう。襲われれば殺されてもおかしくはない。ましてや、ここは精神病院の閉鎖病棟なのだ……。


 僕はひとの気配を感じると、ベッドから降りて、ベッドの下に隠れるようにまで怯えていた。怖い。怖い。怖い。


 あれは、やばい。本当に、やばい。


 そこに。


「おい、そこの若いの、知らない?」

「さあ。さっきまでいたけど」


 知らない患者の声である。


 その患者は、ふうん、と言った。

「何?」 

 同じ病室の男に、どこかの病室の部屋の男が話しかけているのだった。

「安藤さんが探してるみたいだから」


「げ……、安藤さん、出てきたの?」

 男は頷いているようだった。

 僕はベッドの下で、震えながらそれを聞いていた。



 

 僕は誰にも見つからないように部屋を這って、姿をひそめた。



「島本さん」


 4人部屋で寝っ転がり、本を読んでいた島本氏のところへ行った。


「トーカか。どこにいた?急に喫煙所から逃げ出しやがって。探したぞ」


 僕は島本さんに事情を話すことにした。

 鉄格子の保護室で、奴……安藤と呼ばれる男に罵倒を浴びせたこと。それも気違いなどと……。


「そんなことがあったのか。安藤はお前の顔を見ていないんだよな」

「はい」


「しかしどうやったって、声からもわかるし、患者は長年ほとんど同じメンバーだ。すぐにわかる」


「……」


「解るっていうか。『あのガキはどこだ、いるんだろう。ぶち殺してやる』って息巻いてるぞ」

「……!」


「マジですか」

「本当だ。今お前から聞いた話も、言っていた」

「なんとか、なりませんか」

「なることと、ならないことがあるだろう。なあ。ここにいて、ぶち込まれて、それはいちばんやってはいけないことではないのか。言ってはいけない言葉ではないのか」


「……」

 ぐうの音も出なかった。


「説教をするつもりはない。自分でもよくわかっているだろう」


「わかっています……」

「一発、二発、殴られるのは覚悟するんだな。命まで取りは……、いや、あの安藤のことだ。取るかも、知れねえな……」


「勘弁してくださいよ……」


「しばらく、ベッドの下にでも、隠れてるんだな。今は、さっきまで相当怒り狂っていたから、ほとぼりを覚ましてからがいい。晩飯の後あたりが、いいだろうな」


「はあ……」



 僕は誰にも見つからないように、自分の部屋に戻って、本当にずっとベッドの下に隠れてしまった。夕食の時間になっても、食堂エリアにも出ず、看護師に今日は飯を食わないと伝えた。



 夜も更けた。


 患者たちはふらふらとL字病棟をさまよったり、テープレコーダーを老人は聞いたり、煙草を吸っている。


 僕は島本氏の言うとおり、腹を決めることにした。とはいえ、あの男、安藤がいるであろう喫煙室に入る勇気がなく、一目から隠れながら、病棟の隅を隠れながららうろうろしていた。


 そんな僕の背中を、叩く者があった。


「何してる。行ってこい」

「島本さん……」


「早い方が、いい」


 早い方がいいならば、飯の前でもよかったんじゃ……と思ったが、その時は僕も心の準備ができていなかっただろう。今しかないといえば、今しかないのだ。


「見ててやる」


 僕は島本氏に諦めるように頷いて、悲愴な決意を顔に出さずに、喫煙所に歩いて行った。喫煙所のプラスチック製の窓から、喫煙所の真ん中の玉座のような位置にどかっと厳つい表情で煙草を吸っている男がいた。もう引き返せなかった。



 僕は喫煙所の前に立ってドアを開けた。入った。正面に安藤がいる。

 安藤の顔色が変わった。


「……赤井です。安藤さん、ですね」


 怖ェ!


「ほ……保護室では、知らないこととはいえ、本当に失礼なことを言ってしまった。……いや、言ってしまいました。いちばん、言ってはいけないことを」


 喫煙所の中にいる数人は黙ってそれを聞いている。


「本当に、申し訳ありませんでした」


 そう言い、僕は深く頭を下げた。

 ……しばらく。


「……おう、顔上げろや」

「……はい」


「……いい度胸してるじゃねえか」

「いや……本当に。 申し訳、なく……」


「いいから。顔、上げろ!」

 僕は顔を上げた。そこには……、満面の笑みを浮かべた男が……なんて都合の良い話があるわけも、なかった。


 しかし。


「いいんだよ」

「え?」


「仕方ねえんだ。お前もいろいろあってぶち込まれてたんだろう。まともな神経でいられる方がおかしいんだ。だから、よ。お互い興奮してんだ。仕方ねえよ」


「……」


「煙草、吸うんだろう。これ、吸いな」

 そう言うと、安藤はラークを一本差し出してくれた。

「いいんですか」


 安藤は、頷いた。


「ありがとうございます……」

 二重の意味だった。


「俺のほうこそ、迷惑、掛けましたよ。うるさかったでしょう、隣で」

 なんと、敬語を……。

 

 僕は何か、緊張が緩み、安堵の気持ちで、少し涙が出そうになってしまった。


「い、いや、とんでもない」


「糖尿がひどいんですよ。だから、喉が渇いて仕方がない。ずっと渇くんですよ」


「……では、すいませんって、看護師を呼んでいたのは……」

「すぐ水がなくなるから。ぬるいし。わかるでしょう。水をくれって頼むしかなかったんですよ」


 僕は煙草を灰皿に置き、改めて立ち上がり、もう一度深く頭を下げた。

「安藤さん。本当に、すみませんでした」

「いいって。いいんですよ」


 そう言うと、続けてこう言った。


「トーカさん、ですか。聞いてます。あなたも俺たちと同じような……、いや、詳しくは知らないが……」


「もう、俺たちは仲間のようなものです」

 そう言うと、は、手を差し出した。


 僕はその手を取り、握った。


「どうもありがとうございます。安藤さん。よろしくお願いします」



 それから僕と安藤は、いろいろな話をした。シャバでの話を。いくつか会社を経営しているという話だったが、心身を病み、暴力事件を起こしたこともあり、ここにぶち込まれてしまったということだった。


「赤井さん、言いたくなければ言わなくてもいいが……、あんたは」


「……母親を」


 それしか、言葉は出なかった。しかし、その言葉で察してくれたようだった。


「そうなのか、いや、すまない」

「いえ」


「大変だったな」

「お互い、ですから」


 喫煙所の外で、いつもの廃人が、パイプ椅子を食堂スペースで振り回し、投げ、床や壁にたたきつけている。それを見て僕は呟いた。


「今日はいつもより激しいですね」

「ああなったら、お仕舞ですよ。赤井さん、あんたは25……くらいですか?」

「ちょうど、30歳です」


「それは……、いいかもしれない」


「なにが、ですか」


「赤井さん。あなた、ここを出たいと思うかい」

「はい。僕は罪を犯したことで、ここにいるといえばいます。でも、ここは刑務所じゃない。刑務所なら死刑でも無期懲役でもない限り、決められた期間償うことができる。僕だって償う気持ちがないわけじゃない。でも、ここは病院です。償っても、未来は、ありません」


「うん。では、一つ覚えておいた方がいい」


 安藤は僕に耳打ちをした。

 それは、これまで考えもしなかったことで、考えもしなかった発想だった。


「さん……議員?」


「参議院議員の被選挙権、つまり参議院議員の選挙に立候補できるのは、30歳からですよ。しかも、ここは公立病院だ。選挙に立候補させないことは、国民の選挙権、被選挙権を侵害する重大な憲法違反ですから。覚えておいて、損はない」


「つまり……、それを主張すれば、退院の道が開ける……?」

 安藤は頷いた。


「何かあったら、相談に乗りますから。あなたはまだ、若いんだから」


 そう言うと、「おやすみなさい」と、喫煙室を出て行った。


 外で、安藤と島本氏が何か言葉を交わしているのが見えた。入れ違いに、島本氏が煙草を吸いに入ってきた。


「うまくいったようだな」

「優しい人でした、安藤さん」


 タバコを吸いながら、島本氏は言った。

「『若いのに、大した男だ』って言ってたぜ」

「え?」

「『逃げもせずに、まっすぐに俺の目を見て頭を下げて謝りに来た。真っ当な、男だ』ってな」


「そんな……」


 しかし、後で僕は知った。


 実は、僕と安藤氏の間を取り持ってくれたのが、島本さんだった。

 僕が島本氏に話を打ち明けた後、すぐに「安藤さん、保護室であんたに悪いことをした、と。謝りたいと言っている人がいる。会ってもらえないか」と言ってくれたのだった。

 

 それを知ったのは後のことであったが、僕がそうかは置いておいて、真っ当な男がこんな山奥の精神病院でも、たしかに、いたのである。



 次回予定

 16話 日中の作業

 17話 外に出る方法と実践

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