第25話 間違っているのか、いないのか。

「しかし、トーカさんたちの行為は本当に正しいと言えるのでしょうか、ねえ?」


 くすくすくす、にやにや、とした笑みを浮かべて、一郎は言った。

「一郎、何が言いたい」

 安藤は一郎に決して高圧的ではないが、強い口調で言った。


「本当は、安藤さんも、トーカさんも、心のどこかで迷いがあるのではないですか?いえ、間違っていたら、ごめんなさい」

 また、くくっと、笑う。

「ごめんなさい、『正しい』という言い方は、適切ではありませんね。正しいという言葉は、トーカさんや安藤さん、島本さんにとって、という意味で限定しています。彼……床に寝ころんでいる、ああ、もう、名前もわかりませんよね。『廃人』さん、でしょうか」

 一郎は続ける。

「彼を利用してしまうことに、躊躇はありませんでしたか?」


 にや、と笑いながら問われる。


 確かに、僕たちは彼を犯人に仕立て上げてしまった。それは間違いがない。


「『廃人』は今、身体拘束か、保護室に引っ張られていることでしょう。それについては、いささか、いかがなものかと思わざるを得ません」


 安藤氏が言う。

「一郎、つまらないことを言うな。あいつが、幻覚に向かって椅子を投げつけるのは、いつものことだ。たまたま今まで何もなかっただけ、いや、俺たちがここに放り込まれる前には同じようなことがあったのかもしれない。それが今回は投げてしまっただけだ。遅かれ早かれ起こっていたことだ」


「安藤さんが『北朝鮮の兵士が来るぞ』と言ったからでは……?」

 

「お前、聞こえていたのか?」

「いいえ、鎌をかけただけですよ」

 こいつは……。


 一郎は一呼吸置いて呟く。

「『廃人』さんですが」

「……」

「どんな人だったのかも、知らない。どんな少年時代を送り、母に愛され、父に怒鳴られ、青年時代、どんな恋をして、実ることもあれば、愛したこともあったでしょう。愛し合ったこともあったのでしょう。仕事に情熱を燃やし、たのかもしれないし、その機会がなかったのかもしれない。僕が言ったどれも、なかったのかもしれない。生まれながら、あんなふうに床に横たわっているだけの人生だけだったのかもしれない。実際、家族も誰も見舞いにさえ来ないのですからね。

 その彼が、ここにいられなくなったら、彼はどこへ行くのでしょう?」


 僕と安藤さんは黙って聞いている。

「この場所が、必要な人たちも、確かにいるのですよね。この場所に、居なければいけない人が」


 僕は思わず、一郎の胸倉を掴みかかりたい衝動を感じた。それは安藤さんも同じなようだった。

 一郎の目が、言っている。僕に。


 ――トーカさん、あなたは、人を殺めたのでしょう?

 ――正常では、ない。

 ――であれば、精神を落ち着かせるために、『治療』が、必要

 ――なの、では、ない、です、か?

 ――くす、くす


「ガキが……」

「トーカさん、がそんな言葉を吐くなんて、珍しいです」

 僕だけではなかった。安藤さんも、言った。

「一郎、お前はここの処遇を当然のものだって、受け入れているのか」

「うーん……、知りません」

「知らねえ、だと」

「はい。正直、わからなくなってきました」

「赤井さんの言う通りだ。お前はまだ、ガキだ。俺たちも、きっとガキだ。」


 

 

 

「皆、そうなんだろうよ」

 安藤さんは病棟内を見回す。1年、5年、10年、20年、30年の人々を。


「『廃人』もそうなんだろうよ。何日か。何か月か。何年か。苦しんで、葛藤したんだろうさ。一郎、お前の言う通りな。自分が強制的に、法的に、合法的にここにいろと言われ、連れてこられて。それが本当に妥当なのか……」

 そして強く言った。


「自分が完全なる社会不適合者であるという烙印を押されたことに、納得するまで葛藤したんだろうよ、一郎、お前もそうなんだろう」


「わかるのですか?」

「伊達に歳は食ってねえ。お前や赤井さんの倍くらいは、な」


 安藤さんが続ける。

「ここは精神病院だ。任意じゃない。強制入院の病棟だ。だから葛藤するのは、当たり前のことだ。だがなあ、強制入院と言ったって、刑務所じゃない。権利がある。懲役じゃ、ねえんだ。――ああ、俺も、すべてをうまく言えるわけじゃない。だけどな、人間、あいつみたいに芯から病んでしまったなら言葉さえもなくしちまうんだろうけど、そうでなけりゃあ、心に何か、柱みてえなものが一本だけでもありゃあ、そのために、生きていけるんだろう、俺はそう思ってる」


 一郎が静かに聞く。

「安藤さん、つまり、ここにいるということは、僕たちは生きてるとは、」

「俺はその先は言わねえよ」

 手前で考えろ、と強く言った。

 僕は、はっとして、口にした。

「安藤さん、それって」

「……娘、だ」

「ああ……」

 

 一郎が寂しそうに、呟く。それはそれは、珍しい表情を一瞬、見せた。

「ぼくには父も母もいないのです。ぼくたちは、どうなるのでしょうか?」

 僕は、赤井トーカは敢えて言った。

じゃない。僕がどうなるかは、僕が決める。」


 娘、か。

 僕はある女性のことを、想った。


 彼女のために生きること、もひとつかもしれない。



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