第26話 死

 島本、さんが病棟から運ばれてから、数週間が過ぎた。

 

 彼は、あれからまだ戻って来ていない。それは、僕たちにとって、とても不気味な兆候を思わせた。

 いくら病棟から出られたとしても、簡単に病院から脱出できるとは思えない。僕たちの計画では脱出経路の糸口さえつかめれば良いはずだった。それが、戻っても来ない。戻ってこないということは、僕たちを見捨てたということだろうか。そんなことは考えられない。


 ある日の日中。

 雨が降っている音が聞こえる中。

 まわりの患者たちは、折り紙で何かを折っている。そういうなのだろう。作業療法士、らしき人たちが一緒に。


 珍しく、麻雀が解放されてもいた。

 どういうわけか、麻雀牌が病棟にはあるのだった。よく許可したものだなと思う。牌はちゃんと揃っているのかは疑問だ。

 病棟の彼らの牌を扱う手つきは、手慣れたもので、感心というか、彼ら、超長期入院者の若い頃のことを想うと、さすがだなと思った。 


 僕はその様子を、喫煙室でまずい煙草を吸いながら遠目で見ていた。 


「トーカさん、こんにちは」

「一郎か……」

 

 普段あまり煙草を吸わない彼が入ってくる。喫煙室には僕たち二人……。


「言いたいことは、わかっているよ、一郎」

「帰ってこない島本さん」

「……」

「僕なりに考えてみたのですよ」

「これだけ時間があれば、いくらでも考えるさ」

 何が言いたい?と僕は言いたいことを言わせてみようと促した。


「脱出に成功したという可能性について検討してみましょうか。どうですか?」

「可能性は限りなく少ないだろうね、一郎君」

 僕は煙草の煙が彼に当たらないよう、吐いた。


「これだけの、……適当な言葉が思い浮かばないが、これだけの監禁を目的とした場所で、脱走なんて起きたら騒ぎにならないはずがない。サイレンが鳴って、地面に設置してあるライトがぐるぐると病院を照らして点呼が始まっちまうよ」


 実際、非常時の点呼は、よくあるのだが。


 くわえて、就寝時の巡回、ベッドにきちんといるかのチェックはもちろん当然に、毎日ある。


「トーカさん、それはその通りです。しかしそれは、文字通り走ってけた場合の話。さすがに島本さんがそんな無謀なことをするとは思えません。しても、僕たちにコンタクトを取れなくなるのですから、意味がありません、よねー」


「……」


「ではトーカさん、怪我を理由にした転院という可能性はありますか?」


「怪我、だというなら、その可能性は少ないと思う。島本さんは……ドラッグ依存だから、病院としてはここにつなぎ留めておく理由としては十分だ」

「おや? 島本さんはここから出るに値しない、とでも?これは意外ですね」

「そんなことは、言っちゃいないよ」


 言っちゃいない。


「だから、あの流血くらいで転院なんてことはないと思う。病院なんだから。血ぐらい止められる。ただ、頭を打っていたから。その検査とか、あまり考えたくはないけれど、頭部に何かあって戻ってこられないかもしれない。これは現実的な可能性の一つだと思う」


「へぇ……」


 何を考えているのかわからない笑みを浮かべて、僕を見る。


「トーカさん、転院、ということはありませんか?患者同士のトラブルを避けるために、無理矢理、転院させた、と」

「……措置入院の場合、簡単に転院できるものなのか僕にはわからない。安藤さんなら詳しいかもしれないな」


 僕は再度煙草の煙を吐く。折り紙。雨。麻雀。折り紙。折り紙。


「今週中に主治医の診察を申し込んである。認められれば――病院なんだから、入院中の患者なんだからすぐに認められてもいいようなものだけれど――、その時に探りを入れてみるつもりだ」



 僕たちは何も言わず、喫煙室で佇む。

 考えてみれば、時間の概念が、怖いくらいに、壊れているようだ。

 診察をするのも、「今週か、来週」と言われた。入院にしても、「3、4か月」というのが最初の話だったが、もう1年が近づこうとしている。それは例えば薬物依存だとして、精神が落ち着いている様子を見る期間としてなら、「3、4か月」という言葉は妥当なものなのかもしれない。抗うつ剤のような薬も即効性がないから、「1、2か月飲んで効果をみる」のが基本だし。

 何をするにも――、「半年から、一年」「1、2年は……」「5、6年」となっていくのだろうなと思った。公立病院の医師は公務員なのだから、役所で書類を提出して申請して、「結果が出るのは2、3か月後になります」と言われるのと似ている気がした。


「死んだんじゃないですか」


「え?」


「トーカさんが殺したんじゃ、ないですか」













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