第28話 彼がそこにいた
窓から見える空は不安の色そのままで、ひどくこの場所にふさわしい色のようだった。この場所には太陽、お日様、お天道様、虹、風、なんて似合わないと僕は思った。縁のないものだから。今も検索すれば出てくる、そういう場所がある。たくさんある。でもそこにいる人の声はあまりにも小さすぎて届かないし、耳を貸す人は少ない。
わずかに、後年、「海猿」「ブラックジャックによろしく」を著した漫画家、佐藤秀峰が、同作品「ブラックジャックによろしく」内で「精神科編」で精神病院の実態を漫画で、それも無料公開のかたちで現在も公開しひとつの問題提起をしているが、そうでない人たちには冗談のような世界に、見えたのかもしれない。「ブラックジャックによろしく」は「新」とただの「ブラよろ」があるが、「新」でない方の、10巻あたり以降、最終話直前まで掲載されている。それを知るのは、僕がこの雲の下を歩いて出られるしばらく後のことである。
「僕が、島本さんを殺しただって?」
「トーカさん。その可能性を本当に考えなかったのですか? まさかですよね。人は血がたくさん出れば、死ぬんです。当たり前の話です」
ここで僕がとぼけて「何を、言っているのかわからないな」なんて顔をするのも、ふざけた話だった。
「でも……、そうなら、事件になるはずだ。警察が来た様子もないし……」
「トーカさん、この国には何をしても、その場所の性質上、『事件が起きるのが当たり前』だから、罪にも問われないし、警察も関知しない場所がふたつあります。わかりますか?」
「精神……病院?」
「とりあえず置いておきましょうか。でも、」
呉一郎は、どこか卑猥な、(そして美し、い)笑みを浮かべて言った。
「トーカさんが事実、現実から目をそらし、真実に迷い込むことは自由です。けれど、事実はたしかにあることを、忘れないでいてほしいです」
――お前に何がわかる、という恥ずかしいセリフを言いたい気持ちをこらえ、僕は言った。「おどかしすぎだ。あの程度じゃ、人は死なない」
「実体験、ですか?」
ここで僕は一郎の顔面を殴りつけてやった。白いシャツのボタンがひとつ、はじけ飛んだのが見えたけれど、気にせず僕は部屋に戻ろうとした。
「…精神病院と、学校」
「何だ」
「さっきの、ふたつのクイズです」
頬を抑えながら、苦しそうに話す。思い切り殴ったから。
「知ってたよ、馬鹿…」
主治医との診察を受けたのは、それから二日後のこと。
「調子はどうですか」
お定まりのオープニングトーク。どうと言われても困るのだ。
しかし、本当に困る状況にいる人ならば、聞いてもらいたいことがいくらでもあるだろう。
「まあまあです」
「じゃあ、これまで通りお薬出しますからきちんと飲み続けてください」
これが精神病院の30秒診察。
ノートパソコンとカルテに目をやるだけで、一切先生は僕をみなかった。
しかしここで「ありがとうございました」というわけにはいかない。
先生、と僕は口を開いた。
「入院しはじめて、もうすぐ1年になりますが」
「ああ、そうですね」
「そろそろ次の段階に進んでいきたいという気持ちもあるんです」
「ああ、でも焦らないほうがいいでしょ。焦ってもいいことない」
「いろいろあって、正直、疲れるし、怖いんです」
「怖いって?何かあったの」
この医師こそが、この環境に慣れきってしまっているのか。あれだけの流血事件が起きていながら……。自作自演ではあるのだが。
「一度、その、夜中に呼び出されて」
「なに?」
医師が少しだけ興味を示した。
「病室に連れ込まれて、そしたらみんな、裸で集まってて」
「ああ」
ああ、とは何だろう。ああ、あれか、という意味なのか。周知の事実なのか。
「何かされたの?」
「……無理やりされたわけではないですけど」
「なら、大丈夫じゃない?」
僕はきっと強い目で医師を見た。
「これまで何もなかったから、これからも何もないというわけでもないでしょう」
「……誰に呼び出されたの?」
「言えません」
「……まあ、そうだろうね」
復讐されることを配慮してくれたのか。
「本当に考えてるんだったら、病棟移ってもいいですよ」
「え。」
え。
「おじいさんたちの病棟で。ここよりは安全だと思うよ。でも退屈だと思うよ。煙草も吸えないし、テレビもないし。担当の先生も変わるから、どうなるかわからないよ」
それも考えたくもないうんざりするような話だった。
結局、またそうやって脅かして、何も対策を取ってはくれない。
僕は切り出した。
「島本さん……最近、見ませんけど」
「ああ……そういうこと?」
「そういうことって、何。ですか」
「いや……何でもない。で、どうしたって?」
「だいぶ前に、騒ぎになったじゃないですか。連れていかれたじゃないですか。あれから、どうしたんですか」
どうせ守秘義務だろ
「守秘義務がありますからどこへ行ったとかは、教えられないですけど。退院したとか、していないとか、そういうことは、ちょっと。まあ、でも、あの時あなたあの場所にいたんでしたっけ?」
「はい」
「あの時のこと、見てるっちゃ、見てるんだ」
「はい」
……。
「お亡くなりになりましたか」
「いやいや。全然そんな、話じゃないから。あのくらいの傷は……。ただ、相当不安定だっていうことだからね、様子を見てます」
「は?」
「そういうことですよ。病棟も変わってないですよ」
どうも話が噛み合わない。意図的なのか。
「いや、椅子で攻撃した方の話じゃなくて、島本さんの話をしてるんです。」
「だから不安定なんですよ」
「椅子で殴られるのが不安定なのですか?」
「殴られる?殴られた。聞いてないですよ」
「は?」
「椅子でガンガンやってたんでしょう?自傷行為にしてはちょっとひどすぎるので」
「自傷行為?」
何を。
「先生、僕は俺は、見てるんですよ。あの重症の患者が!椅子を思い切り幻覚に向かって投げつけて、それが島本さんに当たって大ケガしたのを!」
「いや、聞いてないですから」
「だって、あの患者、北朝鮮北朝鮮っていつも騒いで……、物を投げたりしてるじゃないですか!」
「北朝鮮?」
医師の目が、変わった。
ヤバイ。
「先生、勘違いしてますよ」
つとめて、動揺を悟られないように、話した。
「島本さんは椅子を投げつけられた被害者ですよ。ナースに聞けばわかります。」
「赤井さん、ね」
「私はナースから聞いてるんです。ナースがそろって嘘をついてるとか、騙してるとか、思うんですか?」
この質問は、やばい。たぶん、いちばん、やばい。
おそらくこの質問こそが、ひょっとしたら僕の一生を左右するほどの重要な質問、回答は選択肢だったかもしれないと、思う。
複数のひとたちが、自分、自分たちを罠に陥れようとしていると主張するのは、統合失調症や、違法薬物の症状や、副作用としては典型的なものだからだ。
だから僕は、「そんなこと、ない」としか、言えなかった。
「騙したりとか、じゃなくて、僕はそう見えたんですよ。先生」
「あのね、患者さんの意見も大事だと思うけど。君たちは治療受けてる身だし、ナースは君たちの介助をする役割があるんですよ。そこ、わかってます?」
……。
「赤井さん、とりあえず私も忙しいから今日はこれで終わりますけど、ちょっと薬変えてみたほうがいいと思うな。うん、寝る前のお薬、ベゲタミンっていうんですけど。ちょっとこれで様子を見てください」
……はい。
顔を少し腫らした一郎が、詰め所から出てくる僕に近づいてくる。
「どうでした?」
下から覗き込むように、小さな声で尋ねてきた。
僕は何も言えなかった。
覚えているだろうか。
この病棟の構造を。
L字型で、食事等のスペースが、角。Lの字の一方の線が、病室のある通路。
もう一方の通路には、乾燥室などの設備のある廊下。
その廊下の突き当りに、いつも鍵の閉まっている部屋がある。
カメラがあって、詰め所がいつも監視している。自殺など……。自傷行為、など……。
ちくしょう……。
僕はそちらに向かって、歩きだしていた。その気持ちは、もう声になっていた。
「トーカさん」
良くないことなのですね、と一郎は言った。
色褪せたクリーム色の、鍵のかかっている引き扉だった。
ここかよ。
ちくしょう……。
俺たちは、なにひとつ、進めちゃいなかった。
「島本、サトシさん……」
この声が届く距離にいるとは……。いたとは……。
おそらく、声を上げることもできないように、されていたのだ。
ずっと……。
「おれたちは、馬鹿だっ!!」
両手で作った握り拳が、激しく扉を揺らし、大きな音が響いた。
続
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