退院編
第29話 退院のために何を為すべきか為したか
「理屈じゃねえんだ。ねえんですよ。赤井さん」
安藤さんはそう言った。
「赤井さん。保護室で一緒だった時のこと覚えてますかい」
あの鉄格子エリアのことだ。
「あの時、私が、『隣の房から声が聞こえる』と言っても、看護婦も医者もとりあわなかったでしょう。それと同じことじゃないですか」
「……すみません」
「いや、そういう意味じゃないんですよ。すみません」
僕が保護室に入れられていた時、隣の監獄の患者が「すみません」「水をください」と叫ぶのがあまりにもうるさく、暴言を吐いた時のことを言っているのだった。
想像してみるとわかるだろう。
鉄格子の房……、つまり保護室という名の監獄があるとして、隣の部屋に入れられている者のことを、知ることができるだろうか。
映画でも漫画でもいい。鉄格子を掴んで「俺をここから出してくれ」という受刑者のようなものを想像すると、わかりやすいかもしれない。隣の部屋の人物のことなど、何もわかりはしないのだった。
鉄格子は顔が通るほど甘い作りではない。会話や言葉を交わすことはできても、隣の人物の風体など、見えるはずがない。安藤氏は言葉や立ち振る舞いは紳士的ではあるが、自分に敵意を向ける者にはとても厳しかった。だから僕が、安藤氏のことを狂っているということを言った時は、怒りをむき出しにしてみせた。
安藤氏が言っているのは、その時、「隣の房の奴が、俺を気違い扱いしている」と医師に訴えたのに、一切取り合おうとしなかったこと。「はい、はい」と。「お薬飲みましょうね、
と。
いくら僕たちが医師に事情を説明したところで、立場が違う。見る目も違えば、見られる目も違う。根本的に、何かが違う。もはやこの場所においては、人か、人でないか、それくらいの大きな差ではないか。行きつくところまで考えてしまえば、そこまで行きついてしまう。
「XXXXXXXでよく考えろ。貴様ら人間が、命乞いをする牛や豚の悲鳴に耳を貸したことがあるか」とは、有名な漫画の台詞だ。
僕たちと、「外の世界の人々」とは、それほどの差があることが、はっきりとしてしまった。安藤氏の言う「理屈ではない」とは、そういう意味なのだった。僕たちは病室のベッドを埋めるためだけの存在。
――もはや、この静けさに包まれているような病棟には、不穏な空気しか流れていなかった。はっきりと、それがわかった。これまでに感じていたような、「いつになったら退院させてくれるのだろう」という漠然とした不安ではない。今にも何かが起こるのではないかという危機感。
ヤバい。
何かが起こる。
何かが。
また僕たち――、僕、一郎、安藤――の眼前を、手をだらりと前に伸ばしながらL字型の病棟を歩き回る人たちが通り過ぎる。
まるで何か、グロテスクな動画でも見ているような、
今にも何かが起こってしまいそうな。
それでもその「何か」を見たくて、期待してしまいそうな。
そんな極めて不穏な不安は、頂点に達しようとしていた。
もう、この場所にはいることはできない。そう感じた時、一郎が、叫んで僕と安藤さんの腕を引っ張った。
「隠れて!」
「!?」
「どうした、一郎」
と安藤さんが小声で聞く。
一郎は舌打ちをした。
「安藤さん、でかいからすぐに見つかってしまいますね」
「何だと」
「見てください」
僕たちは食堂スペースの片隅で、人々から目が届かないような場所に隠れ、一郎が示す方向を見た。
奇妙な音楽に合わせて、いつ終わるともなく続く患者たちの不思議な行進。病棟の突き当りにたどり着いたらまた戻り、他方の突き当りにたどり着いたらまた戻り。
「気付かないの?」
「一郎……?」
僕は、「あっ」と声を上げた。
不思議な行進をする人々の中に、僕はその姿を見てしまった。
「嘘だ」
こんな妙なことに、慣れちまったら、駄目さ。
そう言ってくれたのに。
「トーカさん!?」
「やめるんだ。赤井さん」
僕はその列に逆らって歩いて、人に向かっていった。
こんな姿は見たくなかった。
だから僕はその人に近づいて、胸倉を掴んで、言った。
「こんな妙なことに、慣れちまったら、駄目さ。」
こんなことに。
こんなことに、慣れちまうのか。
あんなに僕に道を示してくれた。
「島本サトシさん……、こんな妙なことに、慣れちまったら、駄目さ……」
いつも小洒落た黒いシャツを着て、ポケットに手を入れて本を読んでいたあの姿も、瞳も、声も、今はもうないように見えた。
「駄目さ……」
僕がわからないのか、島本さんは、不思議な行列の一員として、手を前にだらりと伸ばしながら歩き続けていた。
とてもとても悲しくなって、僕はただ涙が流れるままに彼の姿を見ていた。それは、偽りではない今の彼のすがただった。
「許せねえよ……」
「こんな姿になることを、許しちまった、壊れちまったあんたが。何より、誰より、それを黙って俺があんたを見ていることを、俺は、許せねえよ……」
食堂スペースで僕は彼の姿をみたくないけれど、見ていた。
その前に立ちふさがる者がいた。
安藤さんと、一郎だった。
「見るんじゃない、見ないでやってくれ、赤井さん」
「安藤さん……一郎」
「トーカさん、僕たちに、島本さんのためにできることが、何かあると思いますか?」
「赤井さん、あの虚ろな目は、相当強い薬だ。わかるだろう、考えてもみるんだ。監視室に入れられてたって、叫んだり、自分がここにいることを知らせることくらいはできたはずだ。それすらできないほど強力な薬……、おそらく、ベゲタミン……それも、Aタイプだろう。これ以上ないほどの薬。ここの医者お好みのやつです」
「そんな」
そんな。
僕は僕を掴む安藤さんと一郎と思われる二人の手をふりほどいた。
「赤井さん、何をする?詰め所にでも乗り込む気ですか」
「……」
一郎が安藤さんと話していた。
「止めないと、安藤さん」
「赤井さんが島本さんを殴ろうが、蹴ろうが、もとにもどるような話じゃ、ねえ。それで気が済むなら、それも仕方がない」
「しかし」
「これだけの人の中で、何ができるはずも、ないだろう……、ナースもいるんだ」
僕は食堂のテレビのあたりで、立っていた。
彼らのそんな言葉には耳も貸さずに、ただ、ずっと。
「僕に何ができるか、って?」
僕はずっと見ていたものがあった。
たった一度だけ使える、切り札が。
切り物が。
―― 一人だった。
独りでいるはずだった。
「奇妙に思えるだろう???」
とても奇妙に思えていた。
でも、そう声を掛けてくれたから、自分が、普通だって思えた。
普通じゃあないにしろ、君がいてくれたから、僕はあなたを、あなたは僕を、
それは勝手な思い込みだったかもしれないけれど、許しあえるような気がしていた。
こんな希望のみえない場所だから。
あなたにはあなたでいてほしかった。
島本さん。
「ああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
トーカさん、という声が聞こえた気がしたけれどもう遅かった。
僕は近くにあった重い箱を掴み取り、破壊した。
誰もが見ていたその箱を。
最終へ、続
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます