第2話 素直には

「メル」


 耳が溶けてしまいそうなほど甘美で低い声に呼ばれて、少女は読んでいた本から視線を上げた。視線の先にはシルク地の白い布をたっぷり使った衣装に身を包んだ男が立っていた。鍛え上げられた肉体が所々見え隠れしているのが目に毒だ。


「シャルハ皇子」

「二人の時はシャルハと呼べって言ってるだろ」


 シャルハは目にかかった若干の前髪を掻きあげた。浅黒い肌に琥珀色の瞳、白髪の美形はただでさえ目立つ。気怠げな雰囲気も相まって壮絶な色気を垂れ流す今は目が眩みそうな勢いだ。


「シャルハ、毎度呼びに来なくても朝の儀礼には遅れずに行くわ」

「俺が勝手にやってるだけだ。放っておけ」


 そう言って男は少女から目をはずした。少女は腰まで伸びた黒髪が地面に広がっている様子を黙って見つめていたが、すぐに本を閉じて立ち上がった。


「そんなに私のお世話を焼きたいのなら、ロニを呼んできて。支度するから」

「いや、そういうわけではないんだがな。……隣の部屋だったな?」


 シャルハは渋々といった様子で部屋を出ていった。そして数分と経たずに部屋を区切る布がさらさらと揺れ、シャルハが人を連れて中に入ってきた。


「メルチア様、おはようございます。ご支度のお手伝いをさせていただきます」

「おはようございます。今日もお願いします、ロニ」


 メルチアは自らの寝間着に手をかけようとして、ふと男の存在を思い出した。


「シャルハ、いつまでここにいるつもり?これから私、支度するんだけど」

「皇子の俺が何をしてようと勝手だろ」

「あら?皇子と呼んでほしくないと先ほど仰っていたのはどこのどなたでしたっけ?」

「……悪かったよ。外で待ってる」


 男が出ていくのを見届けたあと、彼女は寝間着に手をかけた。ロニは彼女が脱いだあとの着物を受け取ると、今日身に付ける予定の衣装の着用を手伝った。


「それにしてもメルチア様はシャルハ第一皇子と大変仲がよろしゅうございますね」

「え?どうしてですか?」

「メルチア様はシャルハ第一皇子にのみ砕けた口調でお話なさいますし。それに、なんと申しますか、お二人がいるところは春の陽だまりのようにあたたかいのです。メルチア様の言い方が多少冷たくとも」


 ロニは真っ直ぐな黒髪に櫛を通しながら言った。メルチアは少々腑に落ちないような顔をしながらも「そうですか。そう見えるのですね」と頷いた。


「さて、用意が整いました」

「ありがとう、ロニ」

「いえ、とんでもございません」


 メルチアはすくっと立ち上がるとまっすぐ部屋の外へと向かった。出てすぐの壁に凭れかかるようにしてシャルハが立っていた。


「おお、来たか。朝の儀礼にいくぞ」


 彼はメルチアの姿を認めると、廊下を先に歩き始めた。行き交う衛兵や召し使いたちが彼らの姿を認めると深く頭を下げた。シャルハもメルチアも慣れた様子でその者たちの間を通り抜ける。時々、メルチアの耳にだけ届くような大きさで「ただのマモリビトのくせに」「シャルハ第一皇子のお気に入りだからって後ろをついて回って」といった嫌みが聞こえるのも常日頃だった。


 メルチアはルーデン帝国に平定された部族の一つ、レンデル族の族長の愛娘だ。最初こそ勇猛果敢に戦ったものの、圧倒的な軍力を誇るルーデン帝国の前に為す術のなかったレンデル族は講和を求めた。ルーデン帝国は人質として族長の娘含む50人を差し出すように命じ、レンデル族はそれに応じた。こうして、メルチアは3歳の時にルーデン帝国へやって来た。慣習として身分の高い人質は宮殿で軟禁されることになっており、メルチアも例に漏れず、他の同族たちとは引き離され、宮殿の一室に閉じ込められた。その際何かの手違いで、悪戯好きだったシャルハ第一皇子のお仕置き部屋に案内されたメルチアはそこで3歳年上のシャルハと出会った。彼女は3歳以来、両親にも同族の者にも会っていない。その代わりに毎年、誕生日に両親からの手紙がシャルハ伝いで渡されていた。人質は逃げ出さぬよう「護人」という役職を与えられ、毎朝決まった時間に皇帝のご機嫌窺いにあがる。これを宮殿の者は「朝の儀礼」と呼んでいた。

 あれからもうすぐ12年が経とうとしていた。


「護人メルチア、只今参上いたしました」

「入れ」


 白い柔らかそうな布がゆっくりと左右に開かれ、ペルシャ絨毯がすぐ目にはいる。深い皺を額に刻んだ壮年の男がどっしりと構えていた。ルーデン帝国現皇帝、アルハである。


「陛下、おはようございます」

「うむ、よくぞ参った。して、我が愚息も相変わらずメルチアにべったりなようで」

「放っておけ」

「陛下に向かって失礼な口を聞かないで」

「幼女に鼻の下伸ばすような変態バカ親父を敬う息子がどこにいる」

「誰が幼女ですって?」

「仲が良いのは良いことだ。私を愚弄した罰はシャルハにたんと受けさせるがな」

「大人気ねえな」


 アルハとシャルハが睨み合っていると、再び入り口で声が聞こえた。


「タルハ及びナルハ、只今参上いたしました」

「入れ」


 布を潜って入ってきたのは瓜二つの双子、タルハ皇子とナルハ皇女だ。メルチアの1つ年下だ。


「父上、おはようございます。兄上、並びにメルチア姉様もおはようございます」


 二人の声が全くズレることなく長文を話す様は何度見ても多くの者を驚かせた。


「おはよう。我が息子、娘よ。聞いたぞ、ナルハ。お前、この間の試験で満点を取ったそうだな。お前の家庭教師が大層お前のことを誉めておった」

「カシムが!?信じられませんわ!そうだ父上!私、満点を取ったご褒美に1つお願いがございます」


 ナルハは垂れていた頭を即座にあげて、アルハにすり寄った。


「なんだ、言ってみよ」


 自分の腕に頬を寄せるナルハの頭を撫でながら、アルハは目を細めた。


「城下へ行きたいのです」

「……唐突になぜ」

「カシムが城下でもうすぐ『再会の宴』があるって言ってたから行ってみたくなったのです!この帝国で一二を争うくらいの大盛り上がりなんですってね!私、そういうことに疎いものですから、恥ずかしながら14歳になるまで知らなかったのです。やはり、帝国の一皇女として民の生活を知らねばなりません!違いますか?」


 民の生活を知る、これはアルハ皇帝が国を導く上で最も重要視していることのひとつであり、その建前上ナルハの「お願い」を聞き入れぬわけにはいかなかった。暫し考えていたアルハは一度一人で頷くとこう告げた。


「では、ナルハ。次の月の日にシャルハの庇護のもと宮殿から下ることを許そう。ただし、陽が沈む前には帰ってくること。良いな?」


 ナルハはこれに対して両手を挙げて大喜びしたが、シャルハは食ってかかった。


「待ってくれ!その日はメルチアの15の……」

「公務は入ってないはずだが?」

「公務ではないが、毎年欠かさず……」

「その日1日がかりでもなかろう」


 アルハは鬱陶しそうに言った。メルチアは怒りで肩を震わせるシャルハの手を握った。


「ナルハ皇女の方が大切だわ」

「だが!!」


 シャルハは歯を剥き出しにして声を荒げたが、諦めたように微笑むメルチアを見てはっと大きく目を見開いた。かと思うと、手を振り払ってその場を後にした。


「すまない、メルチア。お前の誕生日が大切でないというわけではない。私も祝おう。しかし……」

「わかっています。そろそろ皇子は婚姻を結ばねばなりませんからね」


 部屋にポツンと聞こえたメルチアの声は、少し寂しげに、しかし投げやりに聞こえたのだった。

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