第28話 聖女僧侶、再び王都へ



 煩悩があるのが人間であり、人間である限り煩悩を失くすことはできない。生きながらさとりを得たものであっても、本当にすべての煩悩を切り捨てられた訳ではない。体の生理的欲求を失くすことが出来ないからだ。半分仏で、半分人間という状態になる。

 煩悩を持つものを衆生しゅじょうと呼ぶ。これは人間だけでなく、全ての生物が含まれる。煩悩を捨てることのできない哀れな衆生を仏さまが救ってくださるので、人は人であるまま死に、その後仏になることができる。というのが在家ざいけ仏教の考え方だ。だから出家して厳しい修行をする必要がない。


 しかしそれは、人間は煩悩を切り捨てられないままで救われるのだから、欲望に素直になっても良いとそういう訳ではない。人には理性があり、思考する頭があり、社会性があり、倫理観がある。人としてやってはいけないことは、やってはいけないのだ。人間は動物だが、本能を抑えられない獣ではないのだから。


(貞操観念についてガチガチの考えはないけど……六人は、流石になぁ……)


 この国は一夫多妻制でも、一妻多夫制でもない。一夫一婦制の、日本と似たような価値観がある国だ。一昔前なら婚前交渉などありえなかったのだから、結婚前の男女が仲良くしすぎるのはよろしくないことだろう。そして一人が多くの人間と関係を持つのは、もっとよろしくないことであるに違いない。

 そんなことを、あちらの聖女はやってしまったらしい。妊娠はしたが、それが六人のうちの誰の子か分からないのだという。



「……まだ信じられないのですが……」


「まあ、今は昔みたいに……その辺が厳しくないといいますか……たまに、そういう人がいます」



 リオネルが大変ショックを受けた顔をしていた。貴族でありお育ちのよい彼からすれば、信じられぬことなのだろう。

 そして聖女と関係を持った六人もまた、聖女に愛されているのは自分だけだと思っていたに違いない。そういう関係に至ったのだから、もう自分が聖女と結婚するものだと信じていたと想像できる。彼らの貞操観念からすれば、同時に何人もとお付き合いするというのはあり得ないことなのだから。

 よりにもよって、そんなことを聖女とされる人物がやってしまったのだ。しかし聖女を責めることなど、この国の人間にはできない。現在お偉いさん方は大混乱であり、藁にも縋る気持ちで異世界の知識を持つ私を呼びつけようとしているのであろう。

 そして私が出て行って、実は私が聖女なのですと言おうものなら……ああ、考えたくない。



「私が聖女だと、とても言い出せる雰囲気ではないような……」


「しかし、一目見て知られてしまいますよ。その聖獣は……貴女さまから離れないでしょうから」



 私の膝に頭を乗せてくつろぐ白馬の頭を撫でながら、小さくため息を吐いた。この国のトップに呼び出されているのだから、行かないという選択肢はない。……行けば一波乱は確実にあるだろうが。



「迎えの馬車もすでにこちらに向かっております。夜中の出発になるでしょうね」


「……教会を留守にすると、オルロさんに伝えておいた方がいいですかね」


「私が行きましょう。貴女さまはここで聖獣と共にお待ちください」



 明らかに異質な馬を連れて村長の元へ行くのは色々と不都合が生じそうなので、伝言をリオネルにお任せして私は出かける準備をすることになった。

 しかし、村を出て王都に行くのに何が必要だろうか。私はこの村に永住し、二度と出ることはない。そう思い込んでいた。外に出ることなど想定したことがない。


(……薬類、かな)


 数日泊まることになったとしても、生活に必要なものはあちらが用意してくれるだろう。私にしか用意できないのは薬や薬草くらいのもの。備えあれば患いなしともいうし、鞄に処理した薬草類を小分けして詰めておく。

 そういう準備をしている間、聖獣たる白馬は壁や床をすり抜け、宙に浮いたりもしながら私の周りをうろちょろしていた。可愛いのだけど、集中できないので少しの間大人しくしていてほしい。


(ああ、もしかしてお腹が空いてるとか?……薬草かな)


 鞄にしまった薬草を取り出し、馬の口元に一枚差し出すとぱくりと銜えた。と思ったら、一瞬で薬草が消えた。

 どういう吸収の仕方なのか分からないが、ドライアイスが昇華するような消え方だった。何枚かそのようにして薬草を与えると馬は大人しくなったのでこれで正解だったようだ。……この子の食用に、薬草は持てるだけ持っていくべきだろう。


(……まあ、薬草があれば薬はいつでも作れるし……)


 あちらにも薬を作るための道具はある。私が持っていくのはこれくらいだ。オルロに報告してから戻ってきたリオネルが仕度を済ませるのを台所で待った。眠る時間は、あまりないのでもう起きておくことにしたのだ。

 王都からこのオルビド村に来るまでは四時間ほどだったけれど、急いでくる馬車はおそらくもう少し早く着くだろう。



「……マコトさん、馬車の到着まで休まれなくてもよろしいのですか?」


「短い睡眠だと逆に疲れそうなので……それに、落ち着きませんしね」



 鎧に身を包んだリオネルが少ない荷物を持って戻ってきた。そのままこちらに歩いてきて、隣に腰を下ろす。王都に、その城にいくならば彼がこの格好をするのは当然なのだろう。……私はまだ、彼を差別する場所で、彼と共に過ごしたことがない。それが少し、心配だ。



「何があっても私が貴女さまをお護りいたしますよ」


「……どうしたんですか、急に」


「不安そうなお顔をされていたので」



 私が怖がっているように見えたのだろうか。まあ、確かに似たような感覚ではあるかもしれない。私が聖女だと知ったら、あちらはまた大騒ぎするのだろうし、その時私やリオネルがどうなるのかが分からない。それは確かに不安要素だが、他にもあるのだ。



「リオネルさんに何かあったら、私は……冷静では、いられないと思うんですよね。それがちょっと不安です」



 もし、彼への差別を目の当たりにしたら。その時私は平静でいられるだろうか。

 私の言葉は魔法である。もし私が怒りのあまり我を忘れ悪態でも口にしようものなら、一体それを言われた相手はどうなってしまうのか。考えるだけで怖いことだ。

 しかし、当のリオネルはどこか嬉しそうな雰囲気を漂わせていた。鎧を着ていても分かるくらいに。軽く首を傾げると彼は一言申し訳ありません、と謝ってからこう続けた。



「……貴女さまが私のために怒ってくださることを、喜んでしまいます」



 なんだか気が抜けてしまって、小さく笑った。この人が気にしていないなら、私も気にするべきではない。後の不安は、この後どうなるか分からない、ということくらいで。

 私の望みは、いままでどおりこの村でリオネルと共に在り、そして僧侶を続けることだ。……王都で聖女をやりたくは、ない。



「あちらに着いたら、どうすればいいんでしょうか」


「あちらが色々と必要なことをしてくれるでしょう。頼まれたことだけすればよいかと」


「……リオネルさんは、一緒に居てくれますか?」


「ええ。マコトさんを護るのは、私の役目ですから」


「それなら、安心です」



 リオネルが一緒に居てくれるなら心強い。一人ではどうしようもなく不安になってしまいそうだが、今までずっと私を支えて護ってくれた彼が居るならば、私も臆することなく困難と向き合えるだろう。

 迎えが到着するまでの時間、言葉を交わして過ごした。時々しりとりのような遊びも交えたけれど、漂う緊張感を拭うことはできなかった。



「……迎えが到着したようです。行きましょう」



 差し出された黒い手を借りて立ち上がった。この手を握ると不思議と落ち着くのである。歩き出す前に手は離されたけれど、それだけですっかり心は凪いでいた。

 いつものようにリオネルは私の後ろについているが、少し居心地が悪そうなのは白馬も私の後ろを歩こうとするからかもしれない。この馬は私以外をすり抜けるので、時々リオネルと重なっているのが大変可笑しい。


 迎えの馬車に乗り込む前には御者が私、というか白馬を見てぎょっとして、その後蒼白の顔で私を見ていたので心配になる。気が動転するあまり事故を起こされたら困るため「気をつけて王都までお願いしますね」と伝えた。……上ずった声で返事をされた。



「もしかしてですけど、あの反応を連続で見ることになるんでしょうか」


「恐らくは。……あの村へ人を送るのは、後ろめたいことなのですよ。皆、大層後悔することでしょう」



 生活の支援は充分にしてもらっていたし、全く恨んでも怒ってもいないので私としてはそんな大仰な反応をしなくても……という気持ちなのだが。



「私はそれでよかったんですけどね」


「普通は、そうは思わないものなのです。あの村で一生を過ごせ、と言われるのは処刑に等しいですから」


 存在しないはずの村で、存在しないはずの人が暮らしている。たしかに、世間的に抹消されるのだから処刑と言えるのかもしれない。

 前にもこうして、リオネルと向かい合わせに馬車に乗って移動した。その時は城から村までの時間を無言で過ごしたのだが、今は普通に会話がある。あれから本当に、随分と関係が変わったものだとしみじみ思う。ちなみに聖獣の馬は私の膝の上に頭を乗せてじっとしていた。本当にずっとついてくる気らしい。

 それからぽつりぽつりと会話をしていたが、この馬車の揺れは大変心地よく、眠気を誘われていつの間にか眠ってしまった。

 


「……まもなく到着いたしますよ、マコトさん」



 リオネルの声で目を覚ます。窓にかけられた布の隙間からほんの少し見えた外の景色は、薄っすらと明るくなっていた。もう、夜明けであるらしい。



「眠たいですけど……気合を入れていきますか」


「貴女さまが眠そうにされていれば、あちらは大慌てで寝台を整えそうですが」


「はは、まさか」



 一瞬冗談だと思ったが、そういえば私は聖女でもあるのだった。あながち間違いとは言えないのかもしれない。

 そして城門を越えた馬車が停止し、ようやく地面に降り立つことができた。軽く伸びを体をほぐした後にあたりを見回せば、案内役を申し付けられたと思われる騎士があんぐりと口をあけているのを発見する。リオネルのように顔まで隠してしまうような鎧ではないので、表情が分かりやすい。

 人間は驚くと口を閉じる力も抜けてしまうのだな、とのんきに考えながら近づいて声をかけようとしたのだが。



「せっ聖女さま、も、もうしわけございません!!す、直ぐにごあんな、い、いたしますので!!」


「あっはい。おねがいします」



 ぎこちない動きで歩き始めた騎士の後ろをついていく。騎士、ということはリオネルとも顔見知りであるのだろうか。しかし全く余裕がないのか、目立つはずの黒い鎧の方に一切の視線を向けなかった、というか白馬と私に目が釘付けであった。……そういう反応をされると居心地が悪い。



「こ、こちら……です……」



 案内された部屋は随分と奥まった場所にあった。あまり知られたくない事態であろうから、人目につかない場所で話し合いが行われるのも当然であろう。

 まだ明け方で城の中に居る人間も少ないらしく、ここに来るまで誰ともすれ違わなかった。……すれ違ったらすれ違ったで、あの御者やこの騎士のような反応をされるだけであろうから、それでよかったと思える。


 ゆっくり開かれる扉の先にいた面々は、ようやく来たかと言わんばかりの顔を緩慢な動作でこちらに向け、私の傍から離れない白馬を見て一瞬で顔色をなくしてしまった。

 中に居たのは四人だ。部屋の真ん中の豪勢な椅子に座っている、立派なヒゲで派手な服を着た男性はどこかで見たことがある気がする。そのすぐ傍にいかつい鎧の護衛と思われる騎士が立っており、少し離れた位置に丸めがねの男性が、華美ではないが質がよく柔らかそうな椅子に腰掛けていた。そしてこのメンバーの中で一番目立つ、燃えるような赤髪のどこか可愛らしい顔立ちをした青年。丸めがねの男性と対称の位置に座している。……年齢的に、例の六人のメンバー、だろうか。

 渦中の人物たる聖女がいないのは、妊娠初期の聖女さまをこのような時間から起こす訳にはいかない、ということなのか。


 固まって動かない面々を前に、私もどうしたらいいのか分からない。リオネルなら助言をくれるかと思って背後の鎧を見上げれば、彼は私の気持ちを理解したかのように頷いてみせた。



「聖女さまをお連れ致しました」



 そして、ハッキリとした声でそのように言い放ったのであった。……違う、そういうことではない。


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