新人僧侶
第15話 新人僧侶と文字の話
畑に水を引いたり、魔力に余力を残しつつ薬を作ったり、畑のスプリンクラーな魔道具に驚いたり、と少し慌ただしく過ごしていたら数日はあっという間に過ぎていった。何か突然の出来事があったりすると、その前の事を忘れてしまうのが人間というものである。……訂正、忘れてしまう人間もいる。
「マコトさま、教会学校というのはもうよろしいのですか?」
「あ」
すっかり忘れていた。本人が忘れているというのに私の補佐は本当に有能である。オルロと学校の話を煮詰める前に、魔物騒動があったのでまだほどんど何も決まってない状態だ。
「この村の長も子供に文字を教えること自体は賛成の様でしたから、ある程度どのような形にするか決めてから改めて話を持っていくのがよろしいのでは?」
「そうですね、そうします。リオネルさん、相談に乗ってくれますか?」
「勿論です。私は貴方さまの補佐ですので」
まったくもって頼もしい補佐である。すっかり頼りきりの生活であるので、突然彼が居なくなったら本当に困るだろう。
私がこちらの生活に慣れたら彼の補佐としての任は解かれると思っていたが、事情を聞く限り国がどのように考えているか分からない。左遷というか、厄介払いのような形でリオネルはここに送られているし……ずっと居てくれるのは助かるが、しかし彼の人生が私に縛られてしまうのはどうかと思う。
「学校で教えるのは、文字だけでしょうか?」
「そうですね、まずは試験的にひらがなだけ……できたら漢字も教えたいんですけど」
「……カンジ、とは?」
この世界に伝わっているのはひらがなだけである。カタカナと漢字は存在していないようで、リオネルも首を傾げている。
現在の日本では平仮名、カタカナ、漢字の三種類の文字が使われており、それらが入り混じるのが日本語の文だ。中でも漢字には読み方や意味が複数あるので、慣れ親しんでいない人間からすれば日本語というのは複雑怪奇なものであるという。
ただ、この世界、いやこの国には漢字がなくとも日本語が根付いている。漢字の存在は受け入れられやすいはずだ。
「一つの文字に複数の読み方、そして複数の意味があるんです。向こうでは名前に漢字が使われることが多いので、その漢字の意味を考えて名付けられたりしますよ」
いまはとんでもない当て字の名前も増えているので、この限りではないが。名前とは親から子への初めての贈り物であり、願いであり、時に呪いでもある。……
「マコトさまのお名前にも、そのカンジというものが使われているので?」
「ああ、はい私のは……」
自分の名前を紙に書きながら、ふと気づく。教材として使うノートや筆記用具の準備が必要だ。あとは教室の黒板のように、皆の前で大きく文字を書けるものが欲しい。私が講義を受けた時は黒板のようなボードを使っていたし、ノートのような紙の束は今も与えられているので当然あるものだという認識だったのだが、そういうものは一般市民に普及しているのだろうか。
「この文字が、マコトさまの文字なのですか?」
紙に書かれた“真”の文字を指差して尋ねられたので、頷く。
「これでマコトと読みますし、シンとも読みます。真実のシンです。本当のこと、嘘偽りのないこと、という意味がこめられた字ですね。私の両親は……」
親のことを口にして、元の世界のことを思い出した。いままで必死で、思い出す余裕もなかったのだろうか。……元の世界の私は、どうなっているのだろう。行方不明なのか、それとも存在ごと忘れられているのか。
父も母も健在だ。どうしているのだろう。元気だろうか。ぽやんぽやんで天然の兄と私以上に新米というかまだ子供の弟だけで、お盆のあの忙しさを乗り切れたのだろうか。
ダムが決壊してしまったかのように、元の世界のことが次々と思い浮かんでくる。しかし、あそこに戻ることはできない。私よりも魔法に詳しい人達が方法を知らないと言った。言葉の魔法でも一度試してみたが、あちらに戻ることは出来なかった。帰ることが出来ない温かい場所を思うと、どうしようもない程の大きな感情が押し寄せてくる。
急激な寂しさと不安に押しつぶされそうで、声を出せば嗚咽と共に涙が漏れ出してしまいそうで、固まって動けなくなってしまった。
「……マコトさま、手を握りましょうか?」
突然の申し出に驚いて顔を上げると、籠手に覆われた手が差し出されている。日中は鎧を脱がない彼なので顔は見えないが、とても優しい声だった。
魔物に襲われて震えていた時を思い出す。彼の手を握っていて私が落ち着いたから、そう提案してくれたのだろう。
「……子ども扱い、ですか」
普段の私なら絶対に口にしない言葉だ。私はいつもそれを甘んじて受け入れているはずだった。ただ、今は心に余裕がなかったのだろう。私は子供ではないと、そんなことはしてもらわなくていいのにと、口にはしないが心が拒絶した。
「貴方さまは突然知らない世界に連れてこられて……それも、ただ巻き込まれただけだというのに文句の一つすら口になさらない。子供ならもっとわめくでしょう。貴方さまを子供だとは思いませんが……私よりもずっと若いのですから、もっと頼ってくださっていいのですよ」
私は大人だ。大人であるのだから、子供のように泣き喚くことはできない。怒鳴り散らすこともできない。
思い通りにいかないことで大声を上げるのは、大人とは言えない。それがたとえ二十歳を越え、三十、四十と齢(よわい)を重ね、老人と呼ばれる年齢であったとしても、そういう行いをする人間は大人ではないと思う。
だからこそ私はそれをしないようにしている。けれど、誰かに少しだけ甘えるくらいは、大人であっても許されるだろう。自分を支えられない時にどこにも寄りかかれないと、誰でも、壊れてしまうものだ。
「……リオネルさん、年はいくつですか?」
「つい先日、二十四になりましたね」
それならば私の四つ年上だ。ずっと、という程ではないが私が年下であるのは事実である。年下なら甘えろと言われたから甘えるだけだ、と内心で理由付けして差し出されていた手を両手で握った。少しだけ温もりが伝わるその手の温度に安心して、小さく息を吐く。
「手を握ったら、私が落ち着くと思ってません?」
「ええ、まあ……でも、そうでしょう?」
「……そうですね。確かに手を握ってもらえると、落ち着きます」
一度落ち着くと口にしたら、すとんと冷静になってしまった。縋る様に他人の手を握ってしまっていることが恥ずかしくなってきたので直ぐに放したけれど。
……今の言葉が魔法となって、誰かに手を握ってもらえれば落ち着くような体質になっていないことを願おう。
「私の両親は、私に偽りなく正しく生きて欲しいと思ってこの名をつけたのでしょう」
今度はスラスラと続きを言うことができた。あちらの世界のことを思えば寂しくも悲しくもあるが、今は動揺するほどではない。あちらがどうなっているか確認する術がないのだから、せめて私のことは忘れていてくれたらいい、と思う。それはそれで、寂しいが……突然家族を失って悲しむ思いをさせるくらいなら、その方がいい。
「それはマコトさまらしいお名前ですね。貴方さまは嘘を口にできませんから」
嘘は言えないけど、本当のことを言わないでいることもできるのだと。そう思ったけれど、声にはしなかった。騙しているようで罪悪感がない訳ではないが、誰にでも秘密はあるものだ。私の場合は、それが性別であるというだけで。
「話がそれちゃいましたね。学校の話に戻りましょうか。勉強するのに書く物が必要だと思うのですが……」
「問題はないでしょう。貴方さまへの支援は惜しまないはずです」
リオネルが言うには、国は私が「必要だ」といえばできる限りの援助をしてくれるつもりであるらしい。紙も、筆も、墨も、黒板のようなボードも、簡単な机と椅子も用意してくれるだろう、という話だった。やっぱり至れり尽くせりである。
……ただ、私が講義の時に使わせてもらった筆記用具は筆や墨でなく、ボールペンのようにスラスラ書けるものであったと記憶しているのだが、あれはないのだろうか。
「ああ、あれは魔力を墨に変える筆ですので……貴族ならともかく、村人たちが日常的に使えるものではないかと」
納得した。でも、私の分は用意してもらえると嬉しいので、ひとつだけ送ってもらえるようにお願いしておく。現在支給されている筆記の道具は墨と筆なのだ。……僧侶だって普段から墨と筆を使っているわけではないのである。魔力を消費するとしてもボールペンの方がいい。
「道具は揃いそうですね。じゃああとは……生徒か。オルロさんに相談に行こうと思うんですけど」
「お供いたします」
オルロを訪ねてみれば彼はちょうど仕事の休憩時間であったので、あまり時間を潰してはいけないだろうとすぐ本題に入った。
そもそもこの村には子供が少ない。オルロから話は既に村の中で伝わっているようで、文字を習いたいという適齢の子供は今のところ二人であり、まずはその二人が生徒となるらしい。
一人はルル、もう一人はルルより少し年上の男の子であるという。あのくらいの年頃なら知識の吸収も早いだろう。正確な年齢は知らないので、祖父であるオルロに尋ねることにした。
「そういえば、ルルさんはおいくつですか?」
「今年で五つになりましたな」
「…………なるほど」
小学生くらいだと思っていたらもっと幼かった。子供の成長というのは早く、ほんの数年が馬鹿にならない。ルルの背丈は低学年の小学生くらいはあったはずだが、まだ五歳であるらしい。
この世界の人は成長が早く、そして平均的に背が高いのだろう。たしかに、男性はたいてい私を見下ろせる高さであるし、女性も目線がほぼ変わらない。向こうでは背が高い方であった私も、ここでは平均かそれ以下である。身体つきなどもこちらの女性は豊かであるので……これも少年と思われる原因かもしれない。
私が少年に見えるなら、聖女も少女に見えて可笑しくなさそうだが、あの子は大分胸部が発達していたので女性に見えたのだろうか。……なぜかとても空しくなった。
「子供以外にも、文字を覚えたいものはおりまして……うらやましい、という声もあるのですよ」
「何か方法を考えてみます」
大人が片手間に文字を覚える方法、となればやはり、五十音の表を作るのがいいだろうか。これは後でリオネルに相談するとして、学校は国から道具が送られてきてからでないと始められないため、暫くは待つ時間だ。……文字が普及するまでに私の本心でない答えを出さねばならないような相談がこないことを祈るしかない。
(結構、時間がかかるなぁ……)
新しいことを始めるのは大変だ。現代日本の識字率を考えると、昔の偉い人はとても頑張ってくれたのだろう。文字が当たり前に読めることは、恵まれていることであると実感する。そして周りの誰もが文字を読めるからこそ、直接会わずとも声を交わす時間がなくとも、いつでも連絡が取れる今の時代になったのだ。当たり前すぎて忘れてしまいがちだが、それが出来ない世界にくると改めて思う。私はとても恵まれていたのだと。
「五十音表を作って村人たちの配るのはどうでしょうか。向こうだと子供向けに作られてましたけど、大人でも覚えやすいと思うんですよ」
帰り道にリオネルに提案してみたら、彼は首を傾げてこう言った。
「ゴジュウオンヒョウ……とは?」
「…………リオネルさん、文字はどうやって覚えました?」
「いろは歌です。聖女さまから伝わったものですが……」
今までの聖女はどうやら、思っていたよりも古い人間であるのかもしれない。まさか異世界でジェネレーションギャップを感じることになるとは。
取りあえず、帰ったら実際に表を作ってリオネルの反応を見るとしよう。……私はいろは歌を知らないので、そちらでは教えることができないのである。受け入れてくれないととても、困る。
(前途多難な予感は……気のせいだといいなぁ)
軽く乾いた笑いを零す私を、鎧騎士は不思議そうに見ていた。
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