第29話 聖女僧侶の小休止
空気とは常にそこにあり、人間を生かすものであるはずなのに。この場の空気は驚くほど固く、呼吸すらままないものであるようだ。俯いて震える立派なヒゲの男性や固まってまったく動いていない丸めがねの男性が心配になってきた頃。声を上げたのは、赤髪の青年であった。
「嘘です!聖女さまが、聖女さまでないはずはない……!貴殿は偽者だ!」
腰掛けていた椅子を倒すほどの勢いで立ち上がった青年は、目にも留まらぬ速さで私の方に向かってきた。私の首を掴もうと伸ばされた手だけは、やけにハッキリと見ることができたのだが――それは一瞬で視界から消えてしまった。
「聖女さまに手を出すことは許されませんよ、イフリーオ殿」
下から聞こえた声に目を向けると、見慣れた黒い鎧が青年を取り押さえていた。視界から消えたのはリオネルによって地面に引き倒されたからであるらしい。私はいつの間にか止まっていた息を吐いて、暴れるように鼓動する心臓の上に手を置いた。かなり、びっくりした。
イフリーオと呼ばれた青年は「男が聖女であるはずない」とか「聖獣をどうやって奪った」とか叫びながらまだ暴れる気に見えたが、リオネルに軽く絞められて意識を落とされ、大人しくなった。
いつまでも床に転がしておくわけにもいかないため、部屋の外に待機していた案内係の騎士が呼ばれ、運び出されていった。……他の五人もあんな感じだったりしないだろうか。そうだとしたら恐ろしい。
気絶した若者が部屋から連れ出された後、ずっと震えてうつむいていた顔面蒼白の髭の男性が椅子から崩れ落ちるように床に手をついた。
「なんたること……おお、聖女さま、申し訳ございませぬ……」
「王……!!お気をたしかに……!!」
どこかで見たことがあると思っていたら、髭の男性は王様であったようだ。この世界に召喚された時、聖女の前に膝をついていた人物である。傍に控えていた騎士がすぐ傍によってその肩を支えようとするが、王は立ち上がることなく透明な雫を床に落としていた。
「まさか……僧侶さまが、聖女さまだった、とは……申し訳ございませぬ、このような危険な目にも遭わせてしまい……どうか、お許しください聖女さま……」
ようやくふらふらと立ち上がった王は、覚束ない足取りで私の前に歩み出ると膝をついて頭をたれた。さすがに国のトップにそんなことをされては、私も落ち着かない。謝られたい訳ではないし、そもそも何も不満はなかったのだ。
目の前で土下座されながら謝られると私もどうしたらいいのか分からなくなってしまう。とにかく顔を上げてほしいと、自分も両膝をついて話すことにした。
「あの、私はいままで充分に生活を助けていただいておりましたし、私も勘違いされやすい格好をしておりましたし……何も謝られることはないと思いますので、どうか頭をあげてください」
「夜中に不躾にお呼び立てしてしまったというのに、なんとお優しいお言葉……まさに、聖女さま。本当に、申し訳ございませぬ……」
ようやく顔を上げた王はまだ涙を流していたが、それでも頭を下げ続けられることがなくなってほっとした。手を貸しながら立ってもらおうとしたらそれは断られてしまう。聖女に手を貸してもらうなんてとんでもない、という理由で。……こういう特別扱いは、慣れないし全く嬉しくない。
「まずは、休まれてください。直ぐにお部屋を用意させていただきますので……宰相」
国のトップである王に丁寧な言葉を使われ、気を遣われるほどに聖女の立場というのは尊いものであるらしい。私としては困惑するばかりである。
宰相、と呼びかけられてこの時まですっかり放心していたと思われる丸めがねの男性が慌てたように立ち上がり、深く頭を下げた。
「はっ、直ちに。聖女さま、申し訳ございませんがしばらくお待ちを。……そして騎士ネルヴェア=リオネルよ。今までご苦労であった。其方に与えた全ての任を解く。このお方に相応しい者はこちらで改めて選別する故、聖女さまをお部屋までお連れした後は下がるがよい」
「……は?」
私に対して大変申し訳なさそうにしていた顔は、リオネルに向けた瞬間に厳しく蔑むような顔に変わったのだ。
あまりの変わり身の早さに、つい声を上げてしまった。吃驚した顔でこちらを見る宰相だが、驚いたのはこちらの方である。何故そちらが驚いた顔をするのか全く理解……できなくもないが、したくない。
「この方以外の補佐も護衛もいりません。私が聖女であると知る前からずっと支えてくださったのは、この方でした。他の方は信用できません」
「し、しかし聖女さま、その者は……」
「元々は六名の勇者とやらに選ばれるはずだったとも聞いております。何も、問題はないでしょう」
それ以上話を聞きたくなかったのもある。語気を強めてそう言えば、相手は押し黙った。そもそも、リオネルに欠点らしい欠点などないはずだ。髪の色以外に付け入られるような隙を作らないようにしていたと、彼の話を聞いていればわかる。
「宰相、聖女さまに意見などするものではない」
「……はい。失礼いたしました。お部屋の仕度が整うまでのしばし、鳳凰の間でお待ちください」
王がリオネルをどう思っているかは分からないが、この国の宰相という立場にある人間が快く思っていないことは直ぐに知れた。ついでに時折私の背後に鋭い視線を向けている、王の護衛の騎士も同じだ。
私が早足で部屋を出ようとしたのは、そういう場所に長くリオネルにいて欲しくなかったからである。……こんな場所にずっと居たなら、全てを隠すような鎧を着るようになってしまうのも当然に思えた。
「鳳凰の間までご案内いたします。……そのようなお顔をされなくても、私は大丈夫ですよ」
いつもどおりの柔らかい声に、少しだけ肩の力が抜けた。これで悲しそうな声色をしていたら色々と許せなくなってしまうところだ。
「……私は今どんな顔をしてますか」
「私のために怒ってくださっているお顔です」
それはよくない顔だ。両手で顔を揉み解しておく。あれしきで表情を保てなくなってしまうとは、私もまだまだ未熟である。
誰も居ない廊下をリオネルに先導されながら歩く。普段は私の後ろをずっと彼がついてくる形なので、その背中を見て歩くというのは不思議な気分だ。私の歩幅を良く知っているだけあって、いつもどおりの速度で歩いてくれるのでついていくのも苦にならない。そんな私の後ろに白馬が続いている。……ゲームでこういう一列並びに歩くものがあったな、とぼんやり思い出した。
「こちらです、どうぞ」
立派な装飾が施された扉をくぐり、調度品に飾られた部屋の中に入る。中に自分たち以外の人間が居ないことにほっとしながら、体が沈むほど柔らかい長椅子に腰掛けた。……寝不足の体には少々、よくない座り心地である。
私が座って体勢を安定させると、聖獣が定位置になりつつある膝に頭を乗せた。
「マコトさん、お話しておきたいことがあります」
「あ、はい。何でしょう?」
「……私は、貴女さまの補佐と護衛のほかに、もう一つ任務を請けておりました。監視の任です」
私の横に膝をついたリオネルから説明された内容は、考えてみれば当然のことだった。彼は私の補佐と護衛をしながら、何か特別なことがあれば国に報告をするという役割を与えられていたのだ。
私の特殊な事情を鑑みれば、それがない方がおかしいと思う。しかしリオネルは、その任務を半ば放棄していた、と言うのだ。
「貴女さまが誰かに利用されるのではないかと、そう思うと……義務を果たすことができず」
私に言葉の魔法があると分かった時からずっと。国への報告は異常なし、としていたらしい。特殊な魔法が使え、それは薬草を一日で育てたり、天気を変えたりすることができるような力であること。ひらがな以外の文字の知識があること。この国にまだ存在しない言葉を使うこと。そして、聖女である可能性があったこと。全ては報告するべき事象だったが、ずっと黙っていた。……私のために、だ。
それはずっと真面目に、誰かに蹴落とされるような隙を見せぬようにしていた彼が初めて作った、叩くことのできる罪。
「私の場合、国家反逆罪とされてもおかしくはありませんが……」
「なんですか、それ。そんなのおかしいです、聖女の権力を振りかざしてでも止めます」
聖女という立場を受け入れきれない私だが、それでも使えるならば使う。職権乱用のようなものだし、普段なら絶対にやらないことであるが、リオネルのためなら躊躇いなどない。
そもそもこの国は聖女第一。私が聖女だと知らなかったとしても、結局は聖女である私のために動いていてくれたリオネルだ。罪に問わない方法などいくらでもあるはずである。……罪にする方法もいくらでもあるのだろうが。
とにかく私がそれくらいの我侭を言っても、この国の上層部は聞いてくれそうなほど聖女に親切だ。
眠気も相まって思考能力が落ちているのか、もうそういう考えにしかならない。この国にはたしかに世話になった恩があるけれど、それは急に異世界に呼び出され元の世界へ帰れなくなったことへの謝罪に等しい。だから私はもう、呼び出されたことについてとやかく言うつもりも、それに対する恨みや怒りの感情も一切ない。
けれど、リオネルに関しては別だ。この人はこの世界で唯一の、私にとって大事な人なのだから。代わりなど存在しないのだ。
「マコトさんは、私にお怒りにならないのですね。隠し事をしていたというのに」
「それはお互い様じゃないですか。……私だって、性別を隠してました。本当はまったく、正直者ではないんですよ」
リオネルはよく、私のことを「この世の誰よりも正直者」と評していた。本当は違うのだと、何度思ったことだろう。嘘は言えずとも本当のことを隠し続けることはできた。それでも好きだと言ってくれたのだから、幻滅はされなかったのだろうけれど。ずっと騙してきたのだという、罪悪感があった。
「お気づきでないかもしれませんが……貴女さまは結構、表情に出やすいのですよ。よくばつの悪そうな顔をされてましたので、元より嘘は苦手なのでございましょう」
「……顔に出しているつもりはありませんでした」
「ええ。ですからやはり、貴女さまは正直者なのですよ」
見えない鎧の中で、彼が笑っているのが分かった。自分で自分を見るためには、何かに映して見るしかない。鏡や、水や、そして人に。この人の目に映る私は正直者であるのだろう。リオネルにとっては誰よりも、私が正直に生きているように見えるのだ。
「リオネルさんは鎧を着てても結構、感情が分かりやすいですよ」
「そう、なのですか?」
「はい。顔は見えないのに、不思議と」
勿論全てが分かるわけではないが、喜んでいる時などは特に伝わってくる。ただ、他の人間と話している時などは分かり難い。私の心を許してくれているという証拠なのかもしれない。
「……貴女さまの前では、気が抜けているからかもしれませんね」
「今は少し、恥ずかしがってるんじゃないかと」
「……本当にお分かりになるのですね」
また一段と恥ずかしそうになった。その反応が可笑しくて小さく笑う。気が抜けたのか、眠気を思い出すように
この部屋は客間であるのか、机を挟んで長椅子が二つあるだけだ。眠るための部屋は今用意してくれているらしいが、あとどれくらいかかるのだろうか。
「椅子に少し、横になられますか?」
「いえ、それをしたら寝てしまいそうなので……リオネルさんは大丈夫ですか?」
「三日くらいなら眠らずとも活動できるように訓練していますので、問題ありません」
それは凄いことだが、しかし体の負担は相当なものではないだろうか。私は少し馬車に揺られて眠ってしまったけれど、護衛でもある彼はそうもいかなかっただろう。活動できるとはいっても、疲れはたまるはずだ。そしてこの城の中ではまったく気が休まらないに違いない。これではリオネルが疲れきってしまう。
(神に祈れば回復できるんじゃないかな)
それは、眠気でまともな思考を失いかけていた私の完全に誤った判断であった。
「リオネルさんの疲れが癒されるように、神に祈ります」
「……疲れはまったく感じなくなりましたが……今、魔力を使われたら……」
「…………ほんとだ、眠気が増しました」
それから数分の間は眠気との格闘だった。リオネルが話し相手になってくれるが、何度子馬を抱き枕にして寝落ちてしまいそうになったことか。ようやく部屋が整ったと呼ばれたときにはもう
リオネルに手を引かれながらそれなりの距離を移動し、連れて行かれた部屋で、何とか開いた目で大きな寝台を確認した頃には思考する力は半分も残っていなかったと思う。
直ぐに衣を脱ぎ捨て、足袋もさっさと脱いで寝てしまおうとそういう気分になっていた。
「マコトさま……!!それはおまちください……!!」
落ちかけていた意識は、リオネルの慌てた声で少しだけ戻ってきた。そういえば、リオネルに寝台まで連れてきてもらったのだからそばに居るのは当然である。そして呼び方が元に戻ってしまっているくらいに、何故か動揺していた。
「足を、晒されるのは……
それはたしかにいただけないな。と、そう思ったのを最後に私は柔らかい布団に体と意識を沈めた。
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