第12話 新米僧侶と危険な世界



 心臓がうるさい。その化け物から目を離せない。呼吸が上手く出来ずに、胸が苦しい。先程まで見ていた、魔物に抉られたというロランの傷を思い出す。もしかして、この怪物が“そう”なのではないだろうか。


(角の先端は、血で汚れてるのか)


 足が地面に縫い付けられたかのように、動かない。背を向ければ、襲い掛かってくるだろう。この魔物は、どれ程の速さで走るのだろうか。リオネルに助けを求めて、間に合うのか。彼にとってもこの存在は危険ではないのか。

 思考が頭を巡る。長い時間のように感じるが、恐らく数秒のこと。魔物が立ち止まって私を観察する時間が、そう長いはずはない。一度、グッと頭を下げて飛び出そうとする魔物の動作が、やけにゆっくりと、そしてハッキリと見えた。



「来るな!!」



 そう叫んだのは無意識、反射だった。魔物はビクリと体を震わせ、突撃しようとする体勢のまま固まる。そして視界の端を黒いものが一瞬、横切る。

 その黒はリオネルの鎧であり、私の声を聞いて飛び出してきたのだと理解したのは魔物が一閃のもとに切り捨てられ、地に伏す姿を目にしてからだった。



「ご無事ですか!」



 切羽詰ったようなリオネルの声は初めて聞いた。駆け寄ってくる鎧の姿が目に入るが、返事をする気力もなく、力が抜けてその場にへたり込んでしまう。心臓はまだバクバクと音をたてているし、いつの間にか拳を握り締めていたらしい手は真っ白で、爪が食い込んだ跡が残っているけれど、無傷だ。

 私の前にしゃがみ込んだリオネルが私の状態を確認しようと手を伸ばしてきたので、片手を上げることで制した。震えていてあまり力の入らない手であるが、その鈍い動作でも止まってくれた。……下手に触られて性別がばれたら困る。



「怪我は、してません。大丈夫、です」



 声も少し震えている。一度は収まった震えだったのに、あの魔物のせいだ。この世界に来て、さっきが一番怖かった。死ぬかもしれないと思った。

 ここら一体は安全な場所だと思っていたのに、まさかあんなものが出てくるなんて。家の中で寛いでいたら、突然壁を壊して巨大熊が入り込んできた時のような、そういう気分だ。



「……申し訳ありません。離れるべきではありませんでした」



 彼の鎧に包まれた手が、上がったままだった私の左手をそっと握った。手を覆う防具と言ってもてのひら側は柔らかい布であるらしい。ほんのりと温かい、大きな手に包まれると少しだけ震えが収まったように思えた。この手が剣を握って、私を助けてくれたのだ。



「離れてほしいと言ったのは私です。リオネルさんが謝ることでは、ないと思います。貴方のおかげで……無傷、ですし」



 護衛としてついてこようとしたリオネルを止めたのは私だ。任務をまっとうしようとした彼をとめたのは、私なのだ。自分で安全装置を外した人間が事故にあったとして、自分で外せる仕組みの安全装置が問題であると騒ぐのはおかしいなことだと子供でも分かるだろう。責任転嫁もはなはだしい。

 私自身がたかをくくって、己で危険に飛び込んだのだ。危険な魔物が出たという話も聞いて、実際にその被害も見たのに。自分の前には現れないだろうとどこかで思っていたのだ。


 それに、もし私に何かあったら差別を受けているリオネルの立場はどうなっていただろう。私の言葉が原因であったのに、もしかしたらその言葉には魔法の力もあってその場に残るしかできなかったのに、責任を取らされて酷い目に遭わされることだってあり得た。

 平和な日本に生きてきて、平和ボケした頭で、考えが足りなかった。責任があるとするならば、私自身にあるはずだ。



「けれど、それでも離れるべきではなかった。今回は間に合いましたが……そうでなかったらと思うと、私は……」



 それは己の行動を責めているような声だった。私が見えない位置にいたとしても、直ぐ傍で待機していたからこそあんなに早く飛び出してこられたのだ。そして即座に危険な魔物を排除して、私は無傷で済んでいる。護衛としての仕事はしっかり果たしていると思う。

 それでもリオネルが私から目を離してしまったことを悔いてしまうのは、根が真面目だからだろう。顔は見えないけれど、黒鎧は落ち込んでいるように見えて仕方がない。もしかすると、護衛失格だと自責の念に囚われているのかもしれない。……あの夜の私のように。



「私はリオネルさんに護ってもらいましたよ。おかげでどこも痛くありません。それから、手を握ってもらって震えも止まりました。……本当に、ありがとうございます。貴方は間違いなく、私にとって最高の護衛で、最高の補佐ですよ」



 心からの笑顔を向けてそう言った。私はリオネルが自分の補佐として来てくれたことに、感謝している。初めは顔が見えず声も暗く、分厚い壁を感じる態度で、仲良くなれるかどうかも分からない人だと思っていた。

 でも今は違う。とてもまじめで、自分の容姿に自信がなくて鎧に隠れてしまう臆病さがあって、でも感情は結構分かりやすくて、私を一生懸命支えたり護ろうとしたりしてくれる、私がこの世で一番頼れる人だ。

 私が彼に返せるようなものはほとんどない。だからせめて、私の言葉が彼の薬になるように。



「……ありがとうございます、マコトさま」


「いいえ、私こそ」



 あの夜とは逆だ。でもきっと、鎧の中ではあの夜と同じように笑ってくれているだろう。そうであったらいいと願った。



 少しして、もうずいぶんと落ち着いたのでそろそろ礼拝堂へ戻ろうと、握ったままだったリオネルの手を借りながら立ち上がった。無意識だったがずっと握っていたらしい。……子供の様だと思われただろうか。

 いや、そもそも変声期前の少年だと思われているようなので、実際子供扱いなのだろう。立派な大人の男の手を、震えているからといって同じ大人の男が握るとは思えない。……とても優しい人なら握るのかもしれないけども。

 自分がどういう見方をされているのか、訊いてみたことはないから実際のところは分からないのだ。もし尋ねた後、本当はどうなのですかと訊き返されたら答えに窮するだろうから。



「今後の外出時は、片時も目を離さぬようにいたします。……できることなら、同室で寝泊まりして護衛させていただきたいほどです」



 過保護過ぎる発言である。そして私的にはとても困る話である。

 男と思われているが故の発言だろうが、私は女だ。衣を脱いで着替える姿を見られれば、いくら凹凸が少ないと言っても流石に分かってしまうだろう。というか分かられないと悲し過ぎる。ショックで立ち直れなくなってしまう。

 自然にそれはやめるべきだと伝えるには、どうするべきだろう。……やはり、この世界的価値観に頼るべきか。



「リオネルさん。向こうの世界はですね、家の中を裸足で過ごすことが結構普通だったんです。私も部屋に一人の時は裸足で過ごしているので……」



 鎧がショックを受けて固まっているように見える。それほど衝撃的な事実であったらしい。

 元の世界でいうなら、家の中では全裸で過ごしていると暴露したようなものだろうか。この世界の大地の神の存在は、私ももう疑ってはいない。恐ろしさすら感じる神を、素足で踏もうとは思わない。しかし、そういう習慣の中でいつしか生まれた「裸足を他人に見せるのは恥ずかしい」という感覚は流石にないのである。

 リオネルに裸足を見られてしまったあの日以降も、誰も居ないならとやっぱり裸足で過ごしているのだ。もちろん、尋ね人があればちゃんと足袋を履いて隠すくらいの常識は持っているが。



「……それは…………わかりました。部屋を近くに移すだけに留めようと思います」



 彼は私の補佐として一部家政婦のような仕事も請け負ってくれているが、それでも貴族出身なのだ。貴族社会から差別されていたとしても、貴族の常識の中で育っている。つまり部屋の中では全裸で寛いでいるに等しい、部屋の中で裸足だなんていう人間と共に過ごすなんてことは到底考えられないのである。

 ……しかしそれでも、部屋を近くに移すのは決定であるようだ。用意された家の中にはまだいくつも空き部屋があり、私の部屋の両隣は仕事関連の部屋にしてしまっているが、その隣はまだ空室だ。そこに引っ越すつもりなのだろう。


(最初は、私が嫌いだったって言ってたもんなぁ)


 現在の彼の私室は私の部屋から最も遠い場所にある。嫌いだから離れた、そういうことだろう。それが今度は私を護衛するために近くに来るというのだから、短期間で随分と変わったものだ。

 そう思いながら礼拝堂に戻ろうと一歩進み、ふとひとつ気になることを思い出し振り返る。すると思ったより近く、ほんの数センチの真後ろに黒い鎧があって驚いた。

 離れるのが危険だと思うのは分かるのだが、近すぎやしないだろうか。……まあ、それほど心配をかけてしまったという事であろうし、それついては何も言わないが。



「あの、一つ訊いてもいいですか?」


「はい、なんでしょう」


「あの魔獣……魔物?は、どうするんですか?」



 畑の向こうに、リオネルに斬られたものが転がっている。出来るだけ見ないようにしているが、ファンタジーゲームの魔物のように消えてなくなる、ということはないようだ。横たわってもなお異様な存在感を放っている。



「あれは魔物ですね、魔獣には角がありませんので」



 魔物は元々魔獣であったらしい。しかし、魔獣が増え過ぎるとその中から進化する者が出てくる。それらは全て角を持ち、獰猛であるという。魔獣は現世で言えばイノシシや熊のような野生動物であり、魔物はそういう動物が進化し更に危険になったものという認識でいいだろう。前者は村人でも日常的に狩ることができ、後者は村人だけで狩るなら入念な準備が必要となる。そして自分たちで手に負えない場合、国から魔物討伐専門の人員を送ってもらわねばならない。

 この世間から隠された村では、派遣できる人員も限られている。できるだけ魔物が発生しないよう、男たちは毎日魔獣を狩りに行き、その数を減らす努力をしているのだ。



「それから、魔獣より魔物の方が美味です。自然の魔力を豊富に食しているからでしょうか」


「……美味ってことは」


「ええ。村人たちに伝えれば、喜んでくれるでしょう」



 つまり、ご馳走であるらしい。

 礼拝堂に戻って村人に伝えたら、数人がかりで喜びながら回収に向かっていった。その夜は、宴の様な騒ぎになったのである。


 ……そして、私は一つの試練を与えられるのである。未知の物を口にするという、試練を。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る