Cantabile——Seconda Capitolo

 三島にとって、榎本は兄弟弟子だ。

 三島は3歳の時からピアノを始めた。

 勿論それは、日本を代表するピアニストであった母親の影響だった。

 毎日のように母からピアノを習っていた。

 そんな母は、自宅でピアノ教室を開き、数人の生徒を取っていた。

 その生徒の1人が榎本だった。

 三島とは8歳差で、三島にとっては当時の憧れの存在であり、姉のような存在であり、初恋の相手であり、何よりも三島がピアノを辞めた原因である。

 5歳の時に痛感したのだ、この人は自分にとって超えられない存在である事を。

 それ以来、三島は母からピアノを習う事を辞め、父からヴァイオリンを習うようになった。

 始めこそ優しい父だったが、ある日を境に指導の方針が変わり、途端に厳しいものとなった。

 それはヴァイオリンを始めて半年と経たない時にエントリーした『全日本ジュニアクラシック音楽コンクール』。

 入賞は出来なかったものの、父はわが子のヴァイオリンへの才能を見出したのだ。


「この子は俺なんかを悠々と超越する演奏者プレイヤーになる!」


 その日以来、父による異常なまでの厳しい指導が始まった。

 母が亡くなったのも原因ではないかと、今では考えている。

 父の息子への執着と指導は常軌を逸していた。

 習い事は全て辞めさせられ、ヴァイオリン一本となり、学校すら疎かになる程、全てをヴァイオリンに費やした。

 常に父と共に行動し、海外で公演があればそれにも連れられ、父の空き時間は全て三島の練習時間だった。

 その甲斐もあり、翌年の全日本ジュニアクラシック音楽コンクールでは見事に優勝。

 それを皮切りに、国内の名だたるコンクールを総なめにした。

 そんな三島の事を世間は『神童』ともてはやした。

 定期的に取材班が同行し、父に決められたセリフを吐き、カメラの前で演奏する。

 やがて世間では三島のメディア露出が増えるのに比例して、『父親の操り人形オモチャ』『機械演奏』『コンクール専門ヴァイオリニスト』などと揶揄するようになった。

 三島は幼いながら、自分の存在意義が分からなくなっていた。

 そんな中、父の指導はより厳しきなっていった。


「常に楽譜通りに演奏しろ」

「お前が従うのは俺じゃなく、譜面だ」

「楽譜の奴隷になれ」


 父の口からはそれしか出なくなった。

 そして、小学6年の時。

 小学生とし最後のコンクール前日、局所性ジストニアにより三島の手は動かなくなった。

 いくつもの病院を回ったが、結果は何処も同じ。

 ストレスの原因を取り除けば治ると言われた。

 薬物療法やボツリヌス療法も試したが根本的な解決にはならなかった。

 父は外科的処置を望んだが、何処の医者もやんわりと断った。

 成功しても持続性が低く、効果的とは言えず、小学生には酷だと。

 その時の落胆した父の顔を今でも忘れられない。

 それ以来、三島はヴァイオリンを手にしていない。

 急にコンクールへ出場しなくなった三島の事を『父への反逆』『心を取り戻した』などとメディアは書き立てたが、それも半年もしない内に静まり、三島は一般人として生活出来るようになった。

 父は相変わらず公演で海外を飛び回り、まともに会う事すらなくなる。

 それでよかった。

 一緒にいると、またあの絶望した目で見られる。

 お互いに顔を合わせない方がいいと思った。

 そして、去年の夏。

 公演先の国であっけなく父は死んだ。

 父の訃報を聞き、どこかホッとしている自分がいる事に三島は気が付いた。

 これでもう、あんな目で見られる事はない。

 その安心感の方が、父を亡くした悲しみよりも大きい自分は、なんと薄情な人間なのか。

 しかし、ヴァイオリンは弾けないままだった。

 父が亡くなり、茫然としている中、既に音楽教師をしていた榎本が傍にいてくれた。


「あんたの事は私が守ってやる」


 榎本はそう言って、身寄りのなくなった三島の未成年後見人になってくれた。

 父の葬儀なども榎本の家族が手伝ってくれ、なんとか終わった。


「音楽は完全に辞めるの?ヴァイオリンが弾けなくても、他は出来るんでしょ?」


 火葬場の煙突を見ながら榎本が言った。


「ピアノは出来る。けど、カコ姉ぇみたいに上手くなれない」

「上手い下手じゃない。楽しいかどうかよ」

「それは……、分かんねぇ。昔から、音楽を楽しいと思った事ない……」

「それでよく『神童』なんて呼ばれてたわね」


 そう言って榎本は笑ってくれた。


「でも、なんでカコ姉ぇはプロにならなかったの?」

「教師はプロじゃないってか?」

「そうじゃない。どっかのオケに入るくらい出来ただろ?」

「私は……、オケでやるより、音楽の楽しさを直接教えられる教師を選んだの。あんたみたいに仏頂面で音楽やってる奴が嫌いなの」

「もうやってない……。もう出来ない……」


 榎本は三島の頭を撫でた。

 その時に流れた涙が何だったのか、三島自身よく分からなかった。


 ♪


 夕焼けに染まる校舎の屋上。

 今日も三島がそこにいた。

 フェンス越しに見つめる夕焼け。

 特に何があるという訳ではない。

 ただ、たたずんでいる。


 ――ガチャ


 階段へ続くドアが開く音がした。


「カコ姉ぇ?もう帰るよ」


 そう言って振り返ると、見知らぬ女子生徒が立っていた。

 もっさりと伸ばしたセミロングの黒髪に、黒ぶちの眼鏡。

 気弱そうな顔つきに猫背。


「誰……?」


 思わず口から出た三島の言葉に、小さく身体をビクつかせた。


「ごめんなさい……」

「いや、怖がらせてゴメン……。えっと……」

「私、同じクラスの高岡タカオカ 美琴ミコト……」

「あ、同じクラスだった……?」

「ちなみに、1年の時から同じクラス……」


 三島は頭を抱えた。


「ゴメン……、クラスメイト全然覚えてなくて……」

「ううん、私、存在感薄いから」


 そう言われると何も言えなくなる。


「それで、屋上に何か用だった?」

「三島君と話がしたくて……」

「え?」


 意外な返答に戸惑う三島。


「俺に?」

「うん。実はね、私も小さい頃ピアノ習ってたの」

「あぁ、合唱コンクールの伴奏の話?別にやりたいなら譲るよ」

「そうじゃなくて……」


 高岡は急に距離を詰め、三島の手を取った。


「私、昔から三島君のファンだったの!」

「……はぁ?」

「私、三島君と同じコンクールに出たりしてたの。そこで三島君の演奏を聴いて、感動しちゃって!」

「お、おう……。それはピアノの話?それともヴァイオリン?」

「どっちも!」


 高岡はキラキラと輝く目で三島を覗き込んでくる。


「けど……、俺はもう演奏者プレイヤーとして終わったから……」


 三島は顔を赤らめながら目線を外し、照れくさそうに言った。


「……、本当にもう終わっちゃったんですか……?もう、楽器は何もやらないんですか……?」

「ゴルァ!はよ帰れ隆司!!」


 勢い良くドアが開け放たれ、榎本が現れた。

 呆気にとられた三島と高岡を見つけると榎本はニヤニヤし始める。


「なになに?逢引き?校外でやりなさいよー」

「違ぇーよ!!」

「ちょっとお話してただけです……」

「おてて繋いで?」


 榎本が指差す。


「ちが!これは!」

「誤解です先生!」

「はいはい、いいからさっさと帰りなさい。何度も言うけど、ここは立入禁止なのよ?」


 そう言って榎本は三島と高岡の背中を押して階段へ誘導する。


「話が途中なら隆司の家で続きをやりなさい。スタジオでセッションするのも一興よ!」

「なんでそうなる……」

「行っちゃダメかな……?」

「え?来たいの……?」

「一緒に演奏しちゃダメかな……?」

「……、別にいいけど……」

「さ、決まったんならさっさと帰れ!仕事終わったら私も行くから!」


 そのまま学校から追い出された三島と高岡は、暗くなり始めた道を二人で歩いた。


「ホントに三島君のとこ、行っていいの?迷惑じゃない?」

「別に、どうせ俺しかいないし……。それより、高岡の方こそ大丈夫かよ?」

「ウチの両親、殆ど帰ってこないから」

「そっか……」


 三島はこっそりと横目に高岡を盗み見る。

 透き通るような白い肌に華奢な体つきもあり、少し病的な印象も受ける。

 ピアノの影響なのだろう、手は少し大きいように思える。

 もっさりと顔を隠すように伸びた前髪から覗く顔立ちは端正で、美人の部類に入るだろう。


「どうしたの?」

「いや!何でもない……」


 顔を見過ぎていたらしい。


「高岡はさ、まだピアノやってるの?」

「うん、たまにね」

「プロになる気はないの?」

「う~ん、そこまでは考えてないかな」

「大学は?」

「私ね、保育士になりたいなって。子供たちとオルガン弾いて歌いたいなって」

「……、なんかカコ姉ぇと同じような事言ってる……」

「『カコ姉ぇ』?」

「あぁ、榎本先生の事。昔からカコ姉ぇって呼んでるから、そっちの方がしっくり来るんだよ」

「昔からの知り合いなんだね」

「母さんの教え子の一人だったんだよ、カコ姉ぇは。兄弟弟子みたいなもん」

「へぇ、なんかいいね、兄弟弟子」

「そう?今じゃ俺の後見人だから、マジで身内みたいだよ」

「榎本先生ならしっかりしてるから、頼り甲斐があるんじゃない?」

「いやいや、結構抜けてるんだよカコ姉ぇ」


 そんな他愛もない話をしている内に、三島の自宅へ到着した。


「大きいお家……」

「無駄な大きさだよ、俺1人じゃ広すぎて。こっちがスタジオ」


 三島が地下のスタジオへ案内した。


「広過ぎ……」


 高岡はスタジオのあまりの大きさに目が点になった。


「グランドピアノは2台あるから。スタインウェイとベヒシュタイン、どっちがいい?」

「え!?どうせなら両方弾いていい!?」


 高岡は目をキラキラさせてた。


「私、カワイとヤマハしか触った事なかったの!スタインウェイとベヒシュタインに触れるなんて!」

「調律は定期的にやってるから大丈夫のはず」


 高岡はまずスタインウェイの前に腰掛けた。

 軽く指を解し、ゆっくりと弾き始めた。


「やっぱり、音色が違うね、綺麗……」


 高岡はゆっくりとショパンの「ノクターン 第2番」を弾き始めた。

 柔らかく優しい音色がスタジオに響く。

 三島は悪戯っぽく笑い、1対の楽譜を手に取った。

 片方をスタインウェイの譜面台に置く。


「え!?ちょっと待って!」

「いいからいいから」


 三島はニヤニヤしたままベヒシュタインの前に座り、譜面を開いて弾き始めた。


「ちょっと!もう!!」


 高岡もそれに合わせて弾き始める。


「いきなりドビュッシーは無理だよ!」

「リハビリ、リハビリ!俺も下手だから大丈夫!」


 ピアノ二重奏が始まった。

 三島は勢いに任せて鍵盤に指を走らせる。

 高岡はそれに応えるように、必死に食らいついてくる。


(やっぱウマいじゃん)


 高岡の実力を素直に認める三島。

 小さい頃、高岡もピアノのコンクールに出ていたのだろう。

 三島は覚えてもいないが、同じステージに立っていたのかもしれない。

 榎本の実力を見てピアノを辞めたが、三島も全国優勝はないものの、常に上位入賞するレベルではあった。

 その頃の三島は、榎本の背中ばかり見ていて、同年代の事など全く眼中に入っていなかった。

 高岡も全国レベルだったのだろう、実力的には今でもピアノを弾いているであろう高岡の方が上なハズだ。

 しかし、綺麗に弾こうとする高岡に対して、三島はとにかく勢いで押すような演奏だ。

 失敗など全く気にしない乱暴なものだが、高岡はそれをしっかりと受け入れ、返してくる。

 こんなセッションは初めてだった。

 乱暴に好き勝手に弾けるのは一人の時だけだった。

 誰かと一緒に演奏する気などなかったし、誰かにこんな自分の演奏が受け入れられるなんて思ってもいなかった。

 まず、榎本なら「なんだそれは!」と怒るだろう。

 曲がりなりにも音楽の先生なのだから。


「いつもそんなに荒れてるの……?」


 高岡が恐る恐る三島に尋ねる。


「……」


 三島は返事をしなかった。

 高岡は押し黙るしかない。

 そのまま二人とも黙ったまま、数曲を弾き続けた。

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