Cantabile——Terzo Capitolo
三島は暗闇の中を歩いているようだった。
足元はぬかるみ、思うように前に進めない。
進んでいるのかさえ分からない真っ暗な世界に、一人取り残されている。
そんな感覚に襲われ、ヴァイオリンが弾けなくなった。
暗闇の中でもがけばもがく程、指はこわばり、腕は突っ張り、ヴァイオリンを持つ事さえ叶わなくなる。
その感覚が今、押し寄せてきている。
高岡とのピアノ二重奏。
ピアノは大丈夫だった筈なのだ。
しかし、三島は既に暗闇に囚われ始めていた。
「三島君……?」
高岡も異変に気付いた。
それでも三島は演奏を辞めない。
その暗闇を追い払うかのように、より一層激しく演奏する。
しかし、もがけばもがく程――。
ついに、三島の手は完全に止まってしまった。
「うわーーー!!」
譜面台の楽譜を払い飛ばし、頭を抱えた。
「三島君……」
高岡はどうしていいか分からず、優しく三島の背中を撫でるしかなかった。
「たっだいまー!」
能天気な声と共に榎本がスタジオに入ってきたが、尋常じゃない雰囲気をすぐさま察知し、三島の元に駆け寄る。
「何があったの?」
「それが……、急に破壊的な演奏になったと思ったら、三島君が演奏を止めてしまって……。そしたら譜面を払いのけて……」
「分かった。隆司、ピアノでも出たのね?」
「……」
三島は答えない。
「出てしまったのね……。高岡さん、とりあえずここを出ないと。上で話しましょ」
放心状態のようになっている三島を連れて、リビングへ向かった。
三島を長いソファに寝かせ、榎本はリビングへ向かう。
高岡は立ったままだった。
「高岡さん、コーヒーでいい?」
「はい……。三島君は大丈夫なんですか……?」
「とりあえずそこに座っていいわよ。客人を立たせておけないでしょ?」
おずおずと高岡は三島の向かいにあるソファに座る。
榎本は人数分のコーヒーカップをプレートに乗せて持った来た。
「熱いから気を付けてね」
榎本からコーヒーカップを受け取る高岡。
「ありがとうございます……」
未だに状況が飲み込めない高岡は完全に上の空だ。
「ジストニアって知ってる?高岡さん」
「ジストニア……、『ミュージシャン・ハンド』って奴ですか?」
「そう、それ。隆司は局所性ジストニアなの。発症したのは小6の時、ヴァイオリンでね」
「小6……、三島君がコンクールに出なくなったのはそのせいなんですね」
「えぇ、でも、ピアノでなるなんて初めて……」
「人の事を勝手にベラベラ喋るなよ、プライバシーの侵害だぞ」
「アンタの親族みたいなモンだから大丈夫よ。それに、ストレス性だから、ストレスの原因がなくなれば治る筈なの」
「もしかして、私がセッションしたいとか言ったから……?」
小さな背中をさらに小さく丸める高岡。
「違う。それは違う。高岡は関係ないよ」
三島はきっぱりと否定した。
「なんで言い切れるの?」
榎本がニヤニヤしながら言った。
「何となく。原因は別のところだ。高岡は偶然居合わせただけ。それに……」
三島は何かを言いかけ、口を閉じた。
「それに?」
「いや、なんでもない」
「何よー、言いかけて辞めるとか卑怯だぞー」
何か光のようなものが見えた気がした。
しかし、それが何かは分からない。
あえてここで言う事もないと思った。
「つーか、高岡は帰らなくていいのか?結構遅くなってるぞ」
「あ、そうだね、そろそろお邪魔だよね」
「あ、いや、邪魔とかじゃなくて……」
「アンタたちご飯まだでしょ?どうせならご飯食べていきなよ、高岡さん」
「え?そこまでは流石に……」
「いいじゃん、食べていきなよ高岡さん!」
榎本が無理矢理引き留める。
「おい、勝手に決めるな」
「いいじゃーん、2人より3人の方が楽しいじゃーん!」
「はぁ……、ガキかよ……」
三島は溜息をつきながらキッチンへ向かった。
「え?三島君が作るんですか?」
「そーだよー、今日は隆司のターン!」
「ターン制なんですね……。何か手伝おうかな……」
「客人は座ってるのがマナーだぞ、高岡ちゃーん」
そう言って、榎本はテレビを点けた。
ニュース番組にチャンネルを合わせ、コーヒーを啜る。
「やっぱり私、手伝いますね……」
高岡が立ち上がった。
「ふふ~ん、心配してくれてるんでしょ。優しいなぁ」
榎本は相変わらずニヤニヤしていた。
「三島君、何か手伝おうか?」
高岡は顔を赤らめながらキッチンへ向かう。
「いいよ、座ってろよ」
「さっきの見てからじゃ無理だよ。手伝わせて」
「……、高岡って案外頑固なんだな……」
「それは褒めてるの?」
「……、とりあえず玉ねぎお願い」
「話逸らしたでしょ?それは褒めてないって事よね?」
「はいはい、俺が悪かった!」
「三島君って、そういうとこ子供っぽいよね」
「なんだよ、別にいいだろ。高岡には関係ないじゃないか」
「まぁ、私には関係ないけど……」
「なーにイチャイチャしてんのよー」
カウンターキッチンの対面側に榎本がいた。
「イチャイチャとかしてねーし!」
「変な事言わないでください!」
「イチャイチャしてるようにしか見えないもーん。てか、今日のご飯は?」
「めんどくさいからハヤシライスにする」
「考える気がないなー。高岡ちゃんはハヤシライスで大丈夫?」
「はい、ハヤシライス好きです!」
「良かったね、隆司ー」
「いいから座ってろよカコ姉ぇ……」
榎本はニヤニヤしたまま、ダイニングテーブルから2人を眺めていた。
「ずっとニヤニヤしてんな、カコ姉ぇ……」
玉ねぎと肉を炒めた後、水を入れて煮立たせ、灰汁を取る三島。
「いつもあんな感じなの?」
高岡は使った包丁やまな板を洗っていた。
「いや、今日は特別にニヤニヤしてる」
「榎本先生って、家じゃあんな感じなのかと思った」
「あんな感じって?」
「疲れがピークに達するとニヤニヤするのかと……」
「そうだとしたら、それは完全に病気だぞ……」
「なーにコソコソ話してるのよー」
「そろそろ出来るって話してんだよ」
「ホントに~?」
榎本が疑いの目を向けてくる。
そうこうしているうちに、ハヤシライスが出来上がった。
「高岡、後ろの食器棚、左側の上から3番目にカレー皿があるから出してくれ」
「え~っと、あ、これね」
高岡がカレー皿を3枚出す。
「ホントは一日くらい置いた方が美味しいんだけどな」
「早くぅ~、お腹空いたー」
「ほら、飯は自分でつげ!」
三者三様の盛り付けのハヤシライスがテーブルに置かれた。
手を合わせて「頂きます」を合唱する。
先程の事が嘘のように、なんとも平和な食卓だと、高岡はハヤシライスを頬張りながら思った。
「学校はどう?隆司」
「特に変わらず……」
「そう言えば、中沢君から合唱コンクールの伴奏やってくれって言われてたね」
「またアンタのクラスが優勝するんでしょ、つまんなーい」
「そういうなら、音楽教師の職権乱用したらいいだろ」
「音楽に関しては、嘘が吐けないのよねー」
「他では嘘吐いてんのかよ」
「それはどうでしょー」
「興味ねー」
「酷くない?てか、高岡ちゃんの事、送って行きなさいよね」
「いえ、そこまでしてもらわなくても大丈夫です」
「どうせ家に帰るだろ、カコ姉ぇ。カコ姉が一緒に帰ればいいだけじゃん」
「アンタねぇ、か弱い女の子2人を夜に出歩かせるなんて、男の風上にも置けないわね!」
「高岡はともかく、カコ姉ぇはか弱くないし、既に女の子でもないだろ」
「ムッカーー!!このクソガキ!!」
「食事中に暴れるな!!」
三島と榎本の喧嘩を見て、高岡がクスクスと笑い始めた。
「ほら、高岡ちゃんに笑われてるじゃない」
「いや、俺のせいじゃないだろ」
「2人とも、本当の兄弟みたいで」
「とにかく、アンタが送って行きなさい、隆司」
「分かったよ……」
食事が終わり、三島と高岡が食器を片付け、榎本はテレビを見ながら缶ビールを2本空けた。
「すっかり遅くなっちまったな、片付けまで手伝ってもらって、ホントゴメン」
「ううん、ご飯食べさせてもらったんだし、それくらいはしないと」
律儀な奴だと三島は思った。
それと同時に、素朴な疑問が湧いた。
「そう言えば、なんで今更俺に声掛けてきたんだ?1年の時も同じクラスなら、そん時でも良かったんじゃね?」
「うん、そうれはそうなんだけど、最初に三島君を見た時は、まさかあの三島君だとは思わなくて。同姓同名の人だろうって。去年の合唱コンクールは入院してたから分かんなくて」
「なるほど……、で、なんで今更?」
「榎本先生があの榎本さんだって最近知って、先生と色々話したら、三島君があの三島君だって知って。2人きりで話したなら屋上にいるって言われたから」
「なるほどね。やっぱカコ姉ぇの事も知ってたか」
「コンクールに出てたから知ってるよ。一回り近く上だけど、凄さは分かったからね」
「俺も憧れてた。けど、俺がピアノ辞めた原因もカコ姉ぇだよ」
「ふふふ、それも先生から聞いた。ホントは三島君と一緒に演奏出来る事を楽しみにしてたって言ってたよ」
「え?」
「2人ともピアノだったら一緒に出来る曲が少ないからって」
「カコ姉ぇと一緒にやる事なく、俺はぶっ壊れちまったからな……」
「もう治らないの……?」
「ピアノにまで来たからな……。正直、もう音楽には関わるなって事な気がする……」
「嫌だ!」
急に高岡が大声を出した。
「なんだよ、ビックリしただろ」
「嫌だよ!三島君は音楽を辞めちゃダメだよ!」
「手が動かないなら仕方ないだろ……」
「原因はストレスなんでしょ?だったら、そのストレスを」
「音楽がストレスなんだとしたら?」
三島が高岡の言葉を遮った。
「音楽自体が、俺にとってのストレスだったら?」
「でも、ピアノは大丈夫だったんでしょ?昨日まで」
「ジストニアは急になるモンだ。けど、まぁおかしいのはおかしいけど……」
2人は押し黙った。
何とも言えない微妙な空気が2人を包む。
「治そう」
「え?」
高岡は何かを決心したように言った。
「ジストニア治そうよ、三島君!それに、私だってまた三島君とセッションしたい」
「え?あぁ……」
「よし、じゃあ私も勉強するね!あ、ここまででいいよ、ありがとう!」
「あぁ……」
「絶対に治そうね、三島君!音楽の神様は、そんなに心の狭い神様じゃない筈だから!」
高岡はそう言って、じゃあねと手を振ってくる。
「あぁ、高岡!」
高岡の背中が少し小さくなった時、三島は思わず呼び止めた。
「なに?」
「いや、その……。また、ウチ来いよ。まだベヒシュタイン弾いてないだろ?」
「ふふふ、ありがと!また明日ね!」
高岡は再び手を振った。
「心の狭い神様じゃない」という高岡の言葉が、何故かしっくりと胸に落ちる気がした。
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