02:Cantabile

Cantabile——Prima Capitolo

 大好きだったのに。


 こんなの嫌だ。


 大好きだったのに。


 もう嫌いだ。


 何も聞きたくない。


 何も触りたくない。


 僕をそんな目で見ないで。


 ♪


 高校の校舎の屋上。

 転落防止のフェンス越しに、青年が夕焼けを見ていた。

 この高校に通う2年生の三島ミシマ 隆司リュウジだ。

 何も言わず、ただ空を見つめている。


「やっぱりここにいた」


 教師が三島に声を掛けた。


「屋上は立入禁止なんだけど」

「なんだ、カコ姉ぇか……」

「学校で『カコ姉ぇ』って呼ぶなって言ってるでしょー」

「はいはい、すみませんでした、

「よろしい!とりあえず降りなさい。部活もやってないんだから最終下校時刻まで残るんじゃない」

「はいはい……」


 三島はトボトボと榎本の方へ歩く。


が亡くなってもう1年よ。そろそろ戻ってもいいんじゃない?」


 三島がすれ違う瞬間、榎本がボソッと言った。


「無理だよ。もう手が言う事聞かないんだから」

「……」

「それじゃ、さようなら、!」

「ヤな奴!」


 わざとらしく『先生』を強調しながら、三島は背中越しにヒラヒラと手を振った。

 誰もいなくなった屋上で、榎本は三島と同じく夕焼けを見つめる。


「そろそろあの子を解放してあげて下さい、……」


 榎本エノモト 佳子ヨシコ、彼女はこの高校で音楽を教えている。


「三島!」


 三島が昇降口から外に出ると、たむろしていた3人の男子生徒の1人が声を掛けてきた。


「今度の合唱コンクール、またお前が伴奏やってくれねーか?」

「あぁ、別にいいけど……」

「ビシビシやってくれ!今年も優勝しようぜ!」


 三島のクラスメイトだ。

 去年も同じクラスだった奴だろう。

 去年の校内の合唱コンクールは、1年である三島のクラスが優勝した。

 伴奏でピアノを弾いたのは三島だったが、何よりもクラス全体の合唱の指導をしたのが三島だった。

 どのレベルまで持っていけばいいか分からず、とにかく必死で指導した。

 最初はクラス全体から反発が起きたが、目に見えて合唱のレベルが上がっていくのを体感したクラスメイトたちは死に物狂いで三島の指導に食らいついていった。

 お陰でダントツ文句なしの優勝を勝ち取ったのだ。

 学校史上初の1年のクラスの優勝だったらしい。

 それ以来、三島の音楽的な才能は学校中に知れ渡る事となった。

 三島の父親は名だたる世界の指揮者などとも多く共演した世界的ヴァイオリニスト、母親は日本フィルハーモニー交響楽団にも所属した経歴を持つピアニストだ。

 しかし、その両親はもうこの世にいない。

 母親は三島が幼い時に、父親は高校1年の夏に亡くなった。

 三島は天涯孤独の身だ。

 誰も帰りを待っていない自宅へ帰る三島。

 地上二階、地下一階の豪邸は、親族のいなくなった三島には広すぎる。

 使うとしても自室とダイニングキッチンくらいだ。

 鞄を二階の自室に投げ込み、一階へ降りる。

 キッチンの冷蔵庫からミネラルウォーターの500mlペットボトルを取り出す。

 そのままキッチンを出て階段へ足を向ける。

 キャップを開け、一口飲み込み、キャップを閉める。

 三島は階段の目の前で立ち止まった。


「……」


 いつもなら近付きもしない地下へと向かった。

 重い扉を開けると、もう一枚同じ扉が姿を現す。

 二枚目の扉をくぐると、真っ暗な空間が広がった。

 電気を点ける。

 25帖の広いスタジオだ。

 三島はに目を向ける。

 鈍い頭痛を感じる。

 すぐに視線を外し、グランドピアノの前に座った。

 鍵盤蓋を上げ、カバーを取る。

 音に狂いがないかを軽く確認した後、鍵盤に指を走らせ、一気に曲へ没入した。


 ♪


 急に肩を叩かれた。

 三島はハッとして現実に引き戻された。


「なんだ、カコ姉ぇか……」

「随分な言い方ね。運指も荒いし、なんかあった?」

「別に……」


 統計を見ると既に21時を過ぎていた。

 約4時間以上もピアノを弾いていたようだ。


「別にって事はないでしょ。話してみなさい」

「何でもないって!」


 そう言って三島はスタジオを出て行った。


「隆司!」


 むなしく扉が閉じる。

 榎本は床に無造作に置かれた鍵盤カバーを拾い、グランドピアノへ歩く。

 話せとは言ったが、実際榎本は分かっていた。

 先程のむせ返るようなピアノの演奏を聞けばなおさらだ。

 怒りと悲しみに満ち、まるで窒息寸前のようだった。

 いや、実際にそうなのだろう。


「父・三島ミシマ タケルが掛けた呪い……」


 世界的ヴァイオリニストの息子と言う重圧と、父親からのプレッシャーにより、三島はヴァイオリンを弾けなくなったのだ。


 ――局所性ジストニア


 三島のそれはストレス性のものだった。

 故に、ヴァイオリン以外の楽器は難無く出来る。

 先程のピアノもそうだ。

 それが、父親が亡くなって1年が経つというのに、全く改善の兆しがない。


「隆司……」


 三島はリビングのソファーに寝転がっていた。

 返事をしない。


「シカトかよー、隆司ぃー」


 榎本がソファーの背もたれ越しに頭をワシワシと撫でる。


「んだよ!」

「返事くらいしろ、クソガキ」

「うるせぇ。後見人だからって偉そうにするなよ」

「何々?いっちょ前に反抗期?」


 ニヤニヤしながら三島をつつく榎本。


「なんだよ!」

「あんた、別にもうヴァイオリンやらなくてもいいのよ?」

「え?」


 それは三島にとって予想外の言葉だった。


「けど、屋上で『戻ってこい』って言ったじゃん!」

「あれは『ヴァイオリンをやれ』って意味じゃないわよ。あんたがどれだけ苦しんでたかなんて、一番近くにいた私が一番分かってるわよ」

「……」

「音楽は苦しむためにやるんじゃないの。苦しいんだったらやらなきゃいいのよ。ピアノが楽しいならピアノでもいい。ただ、笑顔でやりなさい。私が言いたいのはそれだけ」


 三島はむっつりと黙り込んだまま、榎本を見つめていた。


「そんな事より、あんたご飯まだでしょ?」

「あぁ、うん……」

「しょうがないなぁ、私が作ってやるから待ってなさい!」


 榎本は腕まくりをしながらキッチンへ向かう。

 それを見送りながら、三島はさっき言われたことを思い出した。


「笑ってなんて無理だ……」


 三島の言葉は誰の耳にも入る事なく、力なく拡散し消えた。

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