Modulazione ~上~
Soh.Su-K(ソースケ)
01:Con Fuoco
Con Fuoco——Prima Capitolo
いつからだろう、歌わなくなったのは。
音楽を聴かなくなったのは……。
音楽が好きだった。
歌うことが好きだった。
プロを目指していたわけではない。
だけど、音楽が好きでしょうがなかった。
サラリーマンとして忙殺される毎日。
連日の残業。
自宅と会社の往復。
何もない日常。
一週間で唯一の休みである日曜も、疲れて一日中寝ている。
何のために生きているのか。
そんな事を考える気力すらない。
いつの間にか、音楽は消えていた。
♪
「ピッ!」
改札機にICカードの定期券を翳し、小さなドアが開く。
やっと今日も解放された。
今日の疲れと明日への憂鬱を背負い、男はボトボトと歩いた。
駅から出てすぐのコンビニに入る。
「いらっしゃいませぇ」
やる気のない店員の声が聞こえる。
とりあえず、ドリンクコーナーへ歩く。
扉を開け、発泡酒のロング缶を1本手に取り、弁当コーナーへ足を向ける。
商品補充の時間直前なのだろう、弁当の種類も数のかなり少ない。
適当に弁当を選んでレジへ向かった。
「いらっしゃいませぇ」
やる気のない店員がレジに立った。
「温めますか?」
「お願いします」
店員が背後にあるレンジへ弁当を入れ、少々乱暴に扉を閉めた。
「あ、すいません、肉まん下さい。あと、袋1つでいいです」
レジ横に一つだけ残っていた肉まんを追加した。
レンジが鳴り、店員が全ての商品を袋に詰める。
代金を払い、またボトボトと自宅へ歩き始めた。
男以外に誰もいない道。
街灯も所々消えている。
夜の住宅地は静まり返っていた。
べったりと纏わり付く様な不気味な静寂の中、まるで沼地を歩く様な重い足取りの男は、生きているのか死んでいるのか、自分で分からなくなる。
「はぁ……」
うんざりする程聞き飽きた溜息が漏れる。
いつの間にか自宅の前だった。
扉を開け、中に入る。
1Kの小さな部屋の電気を点け、テーブルの上にコンビニ袋を置く。
鞄をベッドの横に置き、スーツを脱ぐ。
未だに静寂が男の耳を塞いでいる。
洗濯機にシャツや靴下を投げ込み、そのまま浴室へ入った。
シャワーの湯を頭から浴びる。
いつまでこんな生活を続けるのだろうか。
漠然とした疑問が頭に浮かぶ。
連日の残業で擦り減っている。
家に帰れるだけマシだと言われるかもしれないが、それでも擦り減っているのは事実だ。
ボディーソープの泡がボトボトと排水口へ流れていく。
何か大切な事を忘れている気がする。
ここ数年ずっと感じている。
何を忘れたのだろう。
たまに忘れてしまった事すら忘れている自分に気が付く。
浴室から出て、タオルでガシガシと頭を拭く。
ボクサーブリーフを履き、Tシャツを着る。
発泡酒の飲み口を開ける音が無駄に大きく響く。
「あ、そういや」
思い出した。
明日、新しい社長が来るらしい。
もう少し残業を減らしてくれれば、などと淡い期待を思い描く。
テレビの電源を点けた。
深夜のバラエティー番組が、部屋に居座っていた静寂をやっと殺してくれた。
♪
新しい社長は、意欲と野心に満ち溢れたような30代後半の若い男だった。
ちなみに、前の社長は50代前半。
この会社は主にWeb関係、企業サイトやECサイトなどの作成・運営をメインとして、最近はスマートフォンのアプリの開発なども始めていた。
その中でも男が配属されたのは2年前に新たに作られたアプリ開発課。
開発“部”ではない、開発“課”である。
この方針は前の社長のもので、そのお陰で見事にブラック化を果たそうとしている。
慢性的な人手不足の上、開発関係に全く知識のない営業によって仕事が雪ダルマ方式で増えていった。
「働き方改革」だの叫ばれる昨今において、新社長はこの限りなく黒に近いグレー部署をどうるつもりなのだろうか。
M&Aで急に若返った社長。
M&Aと言えば聞こえばいいが、言ってしまえば株式の買収による吸収合併だ。
新社長は自社のWeb関係のさらなる強化を狙っていたらしく、業界では腹黒・ケチで有名だった旧社長の噂を聞いて、所有していた株式を全て買い取ったらしい。
旧社長に提示された金額はかなりの高額だったらしく、二つ返事で買収を了承した。
男が社内で聞いた噂はそんなところだ。
新社長の会社はなかなかに大きい。
男の所属する部署など気にも留めない可能性が高いと決めつけていた。
決めつけていたのだが、何故だろう、新社長が男を含めた「アプリ開発課」のメンバーを全員、社長室に集めていた。
「今日から新しくここの社長に就任した
人懐っこい笑顔だが、瞳の奥に何かを秘めている。
あまり好きになれない、そんな印象だった。
「喋り方はフランクでいいかな?堅苦しいのは嫌いでね。みんなも敬語は使わなくて大丈夫だからね」
その言葉に課長が眉をひそめた。
課長はどちらかと言うと古風な人だ。
上下関係をある程度重視する。
課長は40代で社長は年下。
年下の社長であろうと、敬語で話すのには抵抗があるのだろう。
「君たちが『アプリ開発課』だね。うん、みんな酷い顔だ」
社長室の空気が一瞬にして凍り付く。
「悪気があって言ったんじゃないよ、ホントにみんな酷い顔なんだ。疲れと言うより憔悴してるね」
面と向かって他人から改めて言われるとかなり凹む。
「さて、とりあえず、今後の事に関して話すね。とりあえずの計画だから、状況によってフレキシブルに変えていくけど」
社長はそう前置きして話始をめた。
「1年から2年を目途に、この会社を完全に僕の会社に吸収させる。それためにまず、君たちの部署を"課"から"部"へ格上げ、人員をまずは今の3倍にする。人員増強は一気には無理だから徐々に。それまでは我慢してね。まずは僕の会社の開発部門から何名かを出向させて、アルバイトやパートを入れる事で3か月後には2倍くらいの人数にするつもりだからよろしくね。あ、そうそう、役職についてだけど、課長は部長に、係長は課長、主任は係長に、で、君が新たに主任に。辞令は来月に渡すね。出向メンバーはバイトやパートと同じく、最初は主任の元で仕事を覚えてもらう。その際、主任の業務は教育と監督がメインになるから、他の仕事を回さないようにね。そんな感じかな?」
全員の目が点になった。
「質問はある?」
他のメンバーが思考停止する中、課長が恐る恐る手を挙げた。
「あのぁ……、質問いいですか……?」
「はい、どうぞ!あと、敬語はやめてね」
「いえ、自分より目上の方と話す時は敬語でなければ話しづらいので、これでお願いします」
「噂通り、真面目だね。どうしても無理なら敬語でいいよ。で、質問は?」
「社長がアプリ開発に関して注力することは分かりました。しかし、アプリ開発に関しての部署は社長の会社にもあるのではないですか?何故ウチの部署を重用するような方針なのですか?」
「いい質問だね。さっきの話はいろいろと省略して話したからね。まず、この『アプリ開発課』がそのまま『アプリ開発部』になって僕の会社に新説部署としてスライドするわけじゃない。僕の会社の『アプリ事業部』と合併して『アプリ関連事業部』になる。開発だけじゃなく。管理・運営などのスマートフォンアプリに関する全てを一括してやる部署にするつもり。そこで、ウチの開発と君たちの中で、より優秀な人材を選抜したいんだ」
「つまり、開発に残れるのはその選抜のみで、それ以外は管理・運営に回されるって事ですか」
「適性があれば営業に回すことも考えてる。で、優劣を決めるには同じ条件にする必要があるでしょ?その為の人員の増強だと考えてくれていい」
「つまり、オーディション形式って事ですね」
「そういう事。嫌かな?」
なかなかエグイい事を考える新社長である。
結局、いくつかの追加説明の後に解散となった。
とりあえず、入社5年目、20代にして男は主任の肩書を背負う事になった。
♪
社長が代わったからと言って、仕事がいきなり楽になるわけではない。
例に漏れず、今日も絶賛残業コースだ。
いくらデータを処理しても、書類の山は一向に減らないどころか、システムに関するクレームやバグ報告で一層高々と積み重なっていく。
とにかく手を動かすしかない。
脳みそは既に思考を諦めている。
定時を1時間ほど過ぎた頃だ。
「やっぱり残業してるぅ」
社長だった。
「いつまで残業してるのぉ、帰るよぉ」
「業務がまだ残っていますので」
「……、思った以上に重傷だな。うん、とりあえず今日はみんな帰って。これは社長命令ね。タスクマネジメントが出来てないのは会社の問題だから、みんなが犠牲になる必要はないんだよ」
全員が戸惑っていた。
今日中に処理しなければ支障が出るのではないだろうか。
「対外的には『M&Aよる社長の交代で一部の業務に遅れが出ている』という事にしよう。社内には僕の方から言っとくから大丈夫だよ」
社長の言葉に、更に困惑する。
そんな中、課長がこっそりとPCに刺さっていたUSBメモリを引き抜き、ポケットに忍ばせた。
しかし、社長はそれを見逃さなかった。
「仕事を持ち帰るのもダメだよ、課長。こっそり持ち帰って隠れ残業なんて許さない。何より、そのUSBから社内のネットワークにウィルスが侵入しても困る」
課長は小さい声で返事をし、USBメモリをデスクの上の置いた。
「君たちに必要なのは残業ではなく、適切な仕事量と休息だ。とにかく今日は帰る事。全員帰るまで僕はここを動かないからね」
その場にいた全員がポカンとしていたが、社長の勢いに負けて退社を余儀なくされた。
妙な気分だった。
こんなに早く帰るのは初めてな気がする。
とりあえずいつもと同じように電車に乗り、コンビニに立ち寄る。
いつものコンビニだが、品揃えの多さに少し目を見開いた。
これは確かにコンビニエンスだ、何でもある。
通常の弁当以外にも、チルド弁当やチルド麺、スイーツの種類も多い。
しみじみと自分が世の中から逸脱した生活をしていた事に気付かされる。
ロング缶の発泡酒1本と、初めて目にしたチルド弁当を買う事にした。
ついでに、いつもは買えないフライドチキンを追加する。
「なんか、変な感じ……」
いつもは暗く静まり返っている帰路が、住宅の光がまだ煌々と点いており明るく、どことなく賑やかな気がする。
町並みは同じなのに、雰囲気が全く違う。
そのせいか、男の心はザワザワしていた。
何となく、この街にとって自分が異物のような感覚がする。
思わず自宅へ逃げ込んだ。
「ヤバい……」
自分が世の中からこんなにもかけ離れてしまったのかと焦った。
シャワーの湯を頭から浴びているうちに少し落ち着いてきた。
確かに社長の言う通り、かなりの重症なのかもしれない。
浴室から出て、発泡酒に口をつける。
テレビを点けると見慣れない番組が流れる。
何もかも、全てに違和感を感じてしまう。
とにかく今日は早く寝よう。
あっけなく願いが叶ってしまうと、人は戸惑うものらしい。
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