第3話 新片倉小十郎の誕生

 

 耕平が片倉小十郎として生きていく覚悟を決めた日から、更に十日ほどが過ぎていた。いつの間にか中庭の山桜が、枝いっぱいに花を咲かせている。雪深い米沢城下にも確実に春は訪れていた。

 その日、耕平は屋敷内の奥まった一室にいた。開け放たれた室内には春の陽光がふんだんに差し込んでいる。部屋の中央にどっかと腰を下ろし、小十郎愛用の太刀たちを抜いてその鋭い刃に目をらしていた。近頃の耕平はすっかりサムライの所作しょさが板についている。

(――これで人を切るのか。確かに……切れそうだ)

 耕平はいつか自分がこの太刀をふるって、実際に人を切る事になるかもしれないと思った。その時の凄惨せいさんな光景が頭をよぎり、一瞬鳥肌が立った。そして、とんでもない時代に飛び込んでしまったものだと、改めて思わざるをえなかった。どこでどう間違って、或いは何のいたずらで平成の時代から戦国乱世の時代へと迷い込んだのか、いくら考えても耕平にはわからなかった。唯一言えるのは、平成の大地震と小十郎が遭遇そうぐうした大きな地揺れがどこかでつながっているらしいという事だけだった。


 イノシシ狩りに同行した小十郎の配下の者たちの話によれば、小十郎が馬もろとも崖下に転がり落ちた時、突然地面に稲妻いなずまのような裂け目が走ったという。そして、その裂け目から目もくらむような光の束が飛び出し、小十郎の体に当たり砕け散ったとのことだった。耕平は〈光の束〉という言葉を聞いた瞬間、自分が「S市歴史民俗博物館」で経験した奇妙な体験と重なり合うものを感じ取っていた。なぜなら、あの日自分の体が光の渦に引き寄せられていく時、全身が〈光の束〉に包まれるのをハッキリと記憶していたからである。但し、その後の記憶は一切ない。小十郎の体にぶつかり砕けた〈光の束〉は俺自身だったのかもしれない、と耕平は思った。それならいくらか話のつじつまが合うではないか。〈光の束〉という揺り籠に乗ってなんの偶然かこちらの世界にに来てしまったのだ。来たところがたまたま戦国時代だったというだけのこと。耕平はこのように考え、自分自身を納得させることにしたのだった。


 耕平は抜き放った刀身をさやに納め、静かに奥の刀掛けに戻した。と、その時廊下に衣擦きぬずれの音がして綾が入ってきた。

「父上が参られました」

うむっ、と耕平が無言でうなずいた時には早くも、ドカドカッと遠慮のない足音が近づいていた。小十郎の父景綱であった。端正な顔立ちながら鋭い眼差しをしている。

「小十郎。ここであったか」

一声掛けると小十郎の前に来て腰を下ろした。耕平も居住まいを正して向き合う。

「綾殿。白湯さゆを一杯頼む」

景綱が綾に言った。

「はい。直ぐにお持ちいたしましょう」

綾が出ていくとすぐに景綱は切り出した。

「大殿から文が参ったのじゃ。そなたを早く城に上がらせよとの催促よ。若殿も大層首を長くして待っておるとのことじゃ」

有り難い事だが――と言いながら小十郎をじっと見た。

いつものことながら、声の出ない耕平はひたすら恐縮しながら、頭を深々と下げるより他なかった。

「まだ、声は出ぬのか? ふむっ――まだのようじゃの……」

景綱は少し落胆した様子を見せたが、すぐ気を取り直して続けた。

「なに、焦ることはない。そなたには強運が付いておる。必ず元の小十郎に戻れるぞ。いや、戻らいでか」

ワッハハと最後は豪快に笑い飛ばした。

 そこへ、侍女を伴って綾が入ってきた。景綱と小十郎の間に白湯と菓子をそっと置いた。

「おお、有り難い」

言うが早いか、景綱は大きなわんにたっぷり入った白湯をグビリッとうまそうに飲んだ。

「お父上。何をそんなにお笑いになっていたのですか」

膝をそろえて座ると、綾が聞いた。耕平は綾の物怖ものおじしない快活な気性が好きだった。義父に向けている笑顔も可愛いと思った。

「いや、なに。小十郎のことは万事綾殿に任せておけば安心だと申しておったのよ。これこの通り、そなたのおかげで小十郎が元気になったではないか。これからもよろしく頼みますぞ」

「まあ、もったいないお言葉。私はただ、母上様や玄庵殿のお言いつけ通りにご看病致しましただけでございます」

綾は恐縮したように頭を下げた。

「なんの、なんの。そなたの昼夜を分かたぬ必死の看病。当家でだれ一人知らぬものはおらぬ。改めて礼を申すぞ。のう、小十郎。そうであろうが? 綾殿のような女子おなごを嫁にもろうて、そなたはまっこと果報者じゃ」

耕平は 

(私もそう思います。――心から)                     と、口に出して言いたかったが、生憎あいにく声が出ない。チラリと綾を見ると、心なしかポッと頬を赤らめていた。景綱は綾の困惑顔などどこ吹く風であったが、急に声の調子を落として呟いた。

「しかし、声が出ぬのであれば、登城しても何かと不便じゃ。いらぬ詮索せんさくをするやからが出てこぬとも限らん……」

景綱は一瞬沈黙した後に小十郎に言った。

「大殿へは、わしから今しばらくのご猶予ゆうよを願い出よう。明朝登城して殿にお目にかかる。そなたは養生に専念いたせ」

耕平はよろしくお願いしますとばかりに、再び深々と頭を下げた。

景綱は更に半時ばかり留まって、若殿政宗の近況やら、この春に噂されている戦の見通しなどを熱心に話した後帰っていった。


 その日の晩である。耕平が夕餉ゆうげの後、板の間にゴロンと横になってくつろいでいると、綾が湯あみの用意が出来たと呼びに来た。耕平は「湯浴み」と聞いて(お風呂だ!)と内心快哉かいさいを叫んだ。それまでは水か湯に浸した布を固く絞って体を拭くだけだった。耕平の胸の内に嬉しさがこみあげてきた。以前、湯殿と呼ばれている場所を一度だけ覗いたことがあったが、浴槽などはなかった。その代わり、大人一人が入れそうな大きなタライが置いてあった。

(なるほど、この時代の人はこれを湯舟代わりに使うのだな――)      

と、その時勝手に想像したものだった。


 湯殿の前まで綾が案内し、耕平が着物を脱ぐのを手際よく手伝った。湯殿の入り口の傍には編み籠が置いてあり、その中に新しい下帯や着替えがすでに用意されていた。綾に手ぬぐいを渡され、耕平は背中を押されるように湯殿に入った。中はもうもうたる湯気とムッとするような熱気で満ち満ちていた。大タライにはすでに満々と湯がたたえられている。近くには更に十個ばかりのおけが三段に重ねて置いてあり、いずれも湯で満たされていた。

(これだけの湯を用意するためには、いったい何回大釜で湯を沸かさなければならなかったのだろう?)

耕平は素直に驚いた。この時代、武士といえどもめったに湯浴みをしない理由が分かったような気がした。

湯殿は畳三枚分ぐらいの広さであった。足元は平らな大石と玉砂利で隙間なく覆われており、その上に簀子すのこが床一面に張られていた。板壁に行灯あんどんが一つ掛けてあり、湯気に煙る室内をボ―ッと明るく照らしていた。耕平が改めて室内を見回してみると、板壁から太い竹筒が十センチほど突き出ており、そこから白い湯気が絶え間なく出ていた。

(サウナだ! ここはサウナ風呂なんだ!)

耕平は意外な発見に興奮した。そして同時に、この時代の人々の知恵に心底感動したのだった。戦国時代に来てまさかサウナに入れるとは、耕平は夢にも思わなかった。

(俺たちと同じだ! 平成時代の俺たちと同じじゃないか。この時代の人たちもやっぱり風呂に入りたいんだ。だから、知恵を振り絞ってサウナ風呂まで作ってしまったんだ!)

耕平は四百年以上もの時代差を超えて、今自分がいるこの時代の人たちに初めて親近感を覚えた。耕平にとってそれは新しい感覚であり、耕平自身がさらに深くこの時代に溶け込み始めた証でもあったのだ。


 耕平はとりあえず大タライの前に腰を下ろし、両手で湯をすくってバシャバシャと顔を洗った。実に爽快そうかいな気分だった。次いで手ぬぐいを湯に浸したその時、後ろで引き戸が開く音がした。人の気配を感じて耕平が振り向くと、手ぬぐいとぬか袋を持って綾が立っていた。耕平は思わず息を吞んだ。綾は一糸もまとわぬ姿だった。湯煙の中に浮かぶ綾の白い裸身は神秘的なほど美しかった。耕平の心臓は急激に鼓動を速めた。綾の裸の姿を見るのは初めてだった。それどころか、生身の女性の裸を見るのも初めてだったのである。耕平の肌が早くもじっとりと汗ばんできたのは、湯気で暖められたせいだけではなさそうだった。

「小十郎様。お湯加減はいかがですか?」

言いながら、綾は耕平の後ろに回った。

「今宵は、綾がお背中をお流しいたします」

綾は傍らの桶を取って耕平の肩からザァ―ッとお湯をかけ、持参のぬか袋で背中をこすり始めた。その手慣れたしぐさを見ると、これまでも何度か小十郎の背にぬか袋を当てたことが有るように見えた。

「綾は嬉しゅうございます。又こうして、小十郎様のお背中をお流し出来て……どれほどこの日をお待ちしておりましたことか……」

綾は不意に涙声になり、感極まったように耕平の背中にしがみついた。形の良い双の乳房が耕平の背中に押し付けられ、形を変えた。耕平の胸は早鐘を打つように高鳴った。綾の裸を目にして動揺している自分を見抜かれまいと、必死に冷静さを装っていたのだが無駄だった。耕平の体のは既にあからさまな変化を遂げていた。綾が嗚咽おえつするたびに柔らかな胸とその先端部分が背中に触れ、その感触が耕平の欲望をいやが上にも高めた。我慢の限界だった。耕平は半ば自暴自棄になり、振り向きざまに綾を抱き寄せ、無意識のうちに叫んでいた。

「あっ、 綾!」

「えっ?!」

綾が小さく声を上げ、何か言葉を続けようとしたが、耕平は構わずその愛らしい唇を無我夢中で吸った。綾も逆らわずそれに応えた。やがて夢から覚めたように唇を離した二人はしばし見つめ合った。二人ともまだ何が起こったのか、にわかには信じられないといった顔つきである。

「小十郎様! もしやお声が……、お声が戻ったのですね?」

綾が先に口を開いた。

「ああ、確かに声が戻ったぞ! この通りじゃ。いくらでも話せる。いくらでも声が出るぞ! 綾! そなたのお陰だ。そなたの……礼を言うぞ!」

うれしゅうございます。小十郎様。綾は嬉しゅう……」

綾の頬に涙が伝わり落ちた。

耕平は指先でやさしく涙をぬぐってやり、再び綾の愛らしい唇を吸った。不思議なことに、先ほどまで猛々たけだけしく高鳴っていた心臓の鼓動は嘘のように止み、耕平の心は穏やかな幸福感で満たされていた。


 その夜、耕平と綾は結ばれた。真の夫婦めおとになった。それは同時に、青山耕平のたましいを持った新たな武将、新片倉小十郎の誕生を告げるものであった。

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