第6話 政宗の試練

 天正二年(1574年)冬、家督を継いだ政宗に早くも試練が訪れた。発端は小浜おばま(現在、福島県安達郡岩代町小浜)城主大内定綱の政宗への帰服願いからであった。その頃、大内定綱は服属していた伊達氏から離れて会津の芦名氏や常陸ひたちの佐竹氏を頼り、政宗の妻の実家である三春(現在、福島県田村郡三春町)の田村氏とも対立を繰り返していた。政宗にとっては歴とした敵であった。その定綱が何を思ったのか、政宗の家督相続を祝いに冬の米沢にのこのこと姿を現したのである。 誰もが不審に思った。政宗自身もいかなる風の吹き回しかといぶかったが、真意を確かめるべく引見し、定綱の祝意を受けた。そして、定綱の口から思いもよらぬ言葉を聞くことになった。

「今後は政宗様の下でご奉公に励みたい」と。更には「米沢に屋敷をたまわって妻子を住まわせたい」と申し出たのであった。

即ち、政宗への服属を誓った挙句あげく、そのあかしとして妻子を人質として米沢に差し出す、との申し出であったのである。定綱の思いがけない言葉に、政宗は喜んでこの申し出を受け、米沢城下に屋敷を与えた。


 ところがである。定綱は何事もなく米沢城下の屋敷で年を越した後、年明け早々に小浜城に帰ってしまったのだ。妻子の引っ越し支度を急がせるためとの理由で、春先には妻子を連れて戻ってくると言い残して帰ったのだが、春になっても米沢には戻らなかった。政宗の側から幾度となく使者を送り、米沢に戻るよう説得に努めたが全ては徒労に終わった。「伊達家に仕える気は毛頭ない」の一点張りであった。最後は使者に向かって伊達家や政宗への悪口雑言を並べ立てる始末だった。事ここに至っては説得をあきらめざるを得なかった。政宗の面目は丸つぶれとなった。


 最初からだますつもりで内情を探りに来たのだろうとか、小浜城に帰った後に芦名の強力な働きかけを受けて心変わりをしたのだとか、様々な憶測が飛び交った。政宗は家督を継いだばかりである。ここまで愚弄ぐろうされて何の対抗策も取らなければ、近隣諸国からあなどりを受けないとも限らなかった。その上、家臣団の中には若い領主の力量に不安を感じている者もいる。特に次の当主に政宗ではなく、弟の小次郎を推していた家臣達なら尚更であった。お手並み拝見とばかりに事の成り行きをうかがっている。政宗は新しい当主としての力量を試されていた。

 政宗にとって大内定綱一人を蹴散らすだけなら容易たやすい事であったが、定綱の後ろには芦名と佐竹が控えている。更には仙道七郡せんどうしちぐん(白河、石川、岩瀬、安積、安達、信夫、田村)の諸大名、豪族達が反伊達の旗印の下にいつでも結集する動きを見せていた。政宗もうかつには動けなかった。ここは思案のしどころであった。

 季節は既に四月を迎えていたが、政宗の心に焦りはなかった。これから百姓たちは田植えや畑の耕作で忙しくなる。今兵を動かせば百姓たちが迷惑するのは目に見えていた。今はまだ動く時期ではないと政宗は思った。

(定綱めについては、田村の親父殿とよくよく談合のうえ決めればよかろう。その上で一気に蹴散らしてやるまでじゃ……)

政宗は静かに闘志をき立てた。


 五月も末に掛かるころ、政宗の下に三春城主田村清顕きよあきから書状が届いた。政宗は書院で岳父がくふからの書状に丹念に目を通した。そこには定綱がまぎれもなく芦名と通じていることや、定綱が戦支度に余念がない事などを詳細につづってあった。そして最後に、遅くとも七月には田村領に侵攻を開始するはずだと危機感を訴えていた。政宗は書状から目を離し、憎い定綱の顔を思い浮かべた。

(よくも、このわしを虚仮こけにしてくれた。定綱め。必ず後悔させようぞ……)

政宗はこみ上げてくる怒りを抑えながら、定綱の背後にいる真の敵に思いを巡らせた。

まむしの頭を叩きつぶすしかあるまい――。頭さえつぶしてしまえば残りは雑魚同然じゃ)

蝮の頭、即ち会津の芦名氏であった。この時政宗はハッキリと芦名討伐の決意を固めたのだった。


 天正三年(1575年)七月、政宗は米沢城に近侍の武将達を集めて評定を開いた。列席した武将達の顔触れは、片倉小十郎重綱、伊達藤五郎成実、原田左馬之助宗時、白石右衛門宗実、鈴木七右衛門元信、湯ノ目又次郎景康、屋代勘解由兵衛景頼、留守六郎政景、鬼庭左衛門綱元、亘理源五郎重宗の面々であった。いずれもこれからの伊達軍団の中核を担ってゆく若武者たちであった。後に「伊達の十傑じゅっけつ」と呼ばれ、天下にその勇名をとどろかせるのであるが、この時点では誰一人知る由もなかった。


 政宗のりんとした声が大広間に響き渡った。

「皆よく聞け! わしは大内を討つ! 先年からの定綱めの振る舞いは許しがたい。此度は我がしゅうと殿へ戦を仕掛けて来よった。身の程を知らぬたわけ者よ。よいか! 奴めに思い知らせてやるのだ。伊達を侮ったらどうなるか。骨の髄までわからせてやれ! よいな!」

「はっ!」

一同は声を揃えて政宗の檄に答えた。


 大内定綱は六月に入ると田村領に侵攻を開始し、激しく田村勢を攻めたのだった。田村勢も必死に防戦したが七月に入ると次第に劣勢になり、遂に政宗に助けを求めてきたのである。政宗にとっては田村清顕は舅であり、仙道地域の有力大名であった。将来の仙道制覇の為にも力を貸さねばならなかった。同時に、定綱には愚弄された恨みもあり、この機会に一気に決着を付けるつもりだった。

 

 小十郎は知っていた。この戦が政宗に一つの転機をもたらすだろうことを。そして、間もなく奥州の諸大名豪族たちが、強烈な意志を持った若き戦国大名伊達政宗の出現を目の当たりにすることを。

(この戦こそが、政宗様の天下取りへの最初の一里塚なのだ! 全てはここから始まる!)

そう思うと、小十郎は胸の高鳴りを抑えることが出来なかった。内から闘志がわいてきて、自然に頬が熱くなった。その時、政宗から声が飛んだ。

「小十郎! その方なら定綱めを如何に攻める? 小浜城を落とす手立てが有れば申して見よ」

「されば、申し上げまする。小浜城の近くには小手森おてもり城がありますが、この城は守るに易く攻めるに難い要害と聞き及びます。さすれば、敵はこの城に主力を移し、籠城戦に持ち込むものと考えます。したがって、我らも主力を小手森城攻めにあて、残る兵を小浜城に向けるのがよろしいかと考えます」

「うむっ。兵の数では我らが勝っている。まともに戦っては勝ち目はないと定綱めは考えるのじゃな? 籐五郎、どう思う?」

「はっ。良き案と存じます。その際、小浜城の守備が手薄と見たときは、小浜の方を先に落とし、その後に小手森城を総攻めにいたせば時も掛からず落とせまする」

伊達藤五郎成実はこともなげに言った。

「唯、少々心配なのは……」

と、小十郎が続けた。

「芦名を始め、大内勢に味方する援軍が必ず現れるはず。援軍がまとまった数になる前に小手森城を落とさねば我が方が苦戦を強いられます」

「うむっ。そのようじゃな。しかし、心配には及ばぬぞ、小十郎」

政宗は落ち着き払って答えた。

「わしはこの度、かねてより親しくしておった堺の商人から種子島五百丁を手に入れた。今ある三百丁と合わせれば計八百。この火力をもってすれば出城の一つや二つ落とすのにどれほどの手間が掛かろうや?」

「ご、五百丁! 真でございますか?」

小十郎は思わず聞き返した。居並ぶ者達の口からも「ほお―」という感嘆の声が一斉に漏れた。それもその筈。この当時、奥州の戦国大名が保有する鉄砲の数は精々二、三百丁がいいところであった。今保有している三百丁ですら奥州では一、二を争う数なのである。そこへ、一気に五百丁追加されるのである。

「それは、心強うござる!」

「さよう。八百丁のつるべ撃ち! これは見ものじゃ」

「定綱め、腰を抜かすぞ」

「わっははは。出陣が待ち遠しいわい」

皆興奮気味にわめいた。小十郎も、鉄砲がそれだけの数そろうのであれば、多少の援軍が現れたとしても恐れることはないと一抹の不安を払しょくした。

(それにしても、政宗様はいつの間に上方の大商人とこのような深い繋がりを持つようになったんだろう? 本当にすごいお方だ)

小十郎は必要とあらば大胆に実行する政宗の行動力に心底感嘆した。


 その日の評定は、最後に側近武将達の動員兵力を確認して終了した。十人の武将達の下に集まる兵力はほぼ五千であった。総兵力一万三千余の伊達勢の中にあって、間違いなく中核をなす精兵軍団であった。

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