第7話 政宗の雄たけび

 天正三年(1575年)九月十二日、伊達政宗は八千の兵を率いて出陣した。米沢を出立して翌十三日に信夫郡杉目城(現在、福島県福島市)に入り、大内攻めの作戦を練った。政宗の放った間者からは、大内定綱が既に本城の小浜おばま(現在、福島県安達郡岩代町小浜)を出て小手森おてもり城(現在、福島県安達郡東和町小手森)に移ったとの知らせが届いていた。又、敵の軍勢は小手森城とその周辺に約三千が配置されているとの報告も受けていた。三千の守備兵なら落城させるのにさほどの難もなかろうと政宗は思った。

(敵の援軍が駆けつけて来る前にけりをつけてやる!)

政宗は敵愾心てきがいしんを燃やした。

軍議の結果、小手森城を孤立させたうえで総攻めにすることに決した。


 十七日、政宗は川股(現在、伊達郡川俣町)へ入り、三春城主の田村清顕とその手勢一千と合流した。政宗は田村清顕とも念入りに小手森城攻めの手はずを整えた。攻撃開始は二十四日払暁ふつぎょうと決まった。


 二十四日未明、小十郎は静かに夜明けを待っていた。前々日、小十郎は政宗の命を受け、原田左馬之助宗時と共に小浜と小手森の間に陣を敷いていた。小浜からの敵の援軍を阻止するためだった。総勢二千五百。鉄砲三百丁と長柄三百を備えていた。物見からの報告によれば、小浜城には二、三日前から芦名や畠山の兵が続々と詰めかけているとのことだった。遅かれ早かれ小手森城支援のために出動するはずである。

(一人も通すものか!)

小十郎は闘志を燃やした。ここで敵の援軍を食い止めれば、籐五郎とうごろう(伊達成実)や景康(湯ノ目景康)達が瞬く間に城を攻め落としてくれるに違いないと思った。

 

 夜明けとともに小十郎は迅速に動いた。鉄砲衆百五十人を二列に配し、その背後に長柄衆百五十人を横一列に並べた。九百の足軽兵と騎馬武者五十騎は長柄衆の後ろで小十郎を囲むように配置した。原田宗時の手勢も同じ陣形を取って小十郎の部隊と並んだ。

(これで良し! いつでも迎え撃つことが出来る!)

小十郎は馬上から味方の陣形を眺め、戦闘態勢が整ったことを確認した。

(いよいよ始まる……本当に始まるんだ! 生身の殺し合いが! 戦国時代の俺の新しい人生が……今始まる! ふ、ふっ。それにしても、なんでこんなに手足が震えるんだ? これが武者震いというやつなのか?)

小十郎は訳もなく小刻みに震える自分の手足がうらめしかった。両足でしっかりとあぶみに力を込め、気を落ち着かせた。馬上の小十郎は黒漆塗くろうるしぬり五枚胴具足に身を包み、手綱なさばきも鮮やかに栗毛の駿馬しゅんめぎょしていた。兜の前立まえだて、八日月愛宕権現守礼あたごごんげんしゅれいが小十郎のりりしさを一層引き立たせていた。


 耕平は片倉小十郎重綱として生まれ変わった時から、必死になって戦国時代の武家社会に溶け込もうとしてきた。小十郎に成り切ろうとしてきた。馬術の鍛錬もその一つだったが、今見事にそれが役立っている。

 耕平にとって唯一の不安は戦場での実戦経験がない事だった。いわゆる「初陣ういじん」が未だなのである。伊達成実や湯ノ目景康、原田宗時など側近の武将たちは皆十五、六歳までに初陣を経験していた。それは戦国の世に武門の家に生れついた者の習わしであった。無論、耕平と入れ替わる前の小十郎はとっくに初陣を済ませていた。従って、耕平が正真正銘の片倉小十郎として振舞おうとすれば、それはあくまでも初陣経験の有る片倉家の若大将小十郎重綱でなければならなかった。耕平は自らの実戦経験のなさを様々な軍学書や兵法書を読むことで補おうとした。しかし、理論と実戦は別物である。今日にいたるまで完全に不安を払拭することは出来なかった。


 そして、今日小十郎は覚悟を決めて戦に臨んだつもりだったが、やはり実戦の恐怖は想像以上だった。何食わぬ顔で堂々と振舞おうとしたが、迫りくる会戦を目前にしてやはり手足が震えてしまったのである。小十郎は馬上で大きく息を吸い込んだ。晩秋の朝の冷気が肺腑はいふを満たした。すでに体の震えは収まっていた。

(今日が俺の初陣だ! 父上! 見ていてください。必ずや御殿政宗様の為に存分の働きをして見せまする)

小十郎は政宗の本陣近くに詰めている父景綱に向かって心の中で叫んでいた。


 二十四日払暁ふつぎょう、政宗は全軍に小手森城攻撃を命じた。手始めに城兵に向かって鉄砲五百丁の一斉射撃を加えた。すさまじい轟音ごうおんがあたりに鳴り響いた。同時に、伊達勢が喚声を上げて城門や土塁に向かって突撃を開始した。激しい戦闘が昼頃まで続いたが、城側は頑強に抵抗を続けた。小手森城は典型的な山城で、ふもとから上に向かって攻める伊達勢にとっては厄介な城であった。要所要所には鉄砲も配置してあって、下から登ってくる伊達の兵を狙い撃ちにした。午後になると、疲れの見え始めた伊達勢に対して定綱自ら兵を率いて城から打って出た。次第に伊達勢の損害が増えていった。           


 さるの刻(午後四時)に差し掛かるころには芦名や畠山の援軍が姿を現し、伊達勢を攻撃し始めた。思いがけない苦戦に政宗は一計を案じて全軍に後退を命じた。兵をまとめて川股へ向かわせたのである。しかし、半里進んだところで全軍を反転させ、鉄砲隊五百を前方に展開させた。必ず大内勢や芦名、畠山勢の追撃が有ると読んでいたからである。

「皆よく聞け! 敵は必ず我らを追ってくる。勝ち戦と踏んで襲ってこよう。ここで一泡吹かせてやるのだ! 一人も逃すでないぞ!」

政宗は大声で叱咤した。騎馬武者四百騎が二手に分かれ、政宗の命が有ればいつでも飛び出せるように身構えていた。そして、政宗の読みは当たった。


 敵は殿しんがりを務める湯ノ目景康の兵一千に勝ち誇ったように襲い掛かった。ほとんどが芦名と畠山の兵だった。騎馬も含めてざっと二千人程の数であった。景康は敵を引き付けるだけ引き付けながら後退し、味方の鉄砲隊の前まで来るとサッと手勢を二手に分けて一目散に味方陣内に逃げ込んだ。勢い込んで追ってきた大内勢の目の前に立ちはだかったのは、見たこともない数の鉄砲であった。

「やっ! 鉄砲だ!」

「鉄砲だ! 気を付けろ! どえらい数じゃ!」

「これではハチの巣にされようぞ! ひとまず退却が良かろうず」

大内勢は目の前に現れた鉄砲の数に肝をつぶし、浮足立った。しかし、すでに手遅れであった。一斉に立ち上がり、狙いを定めた伊達の鉄砲隊の銃口が火を噴いた。すさまじい威力だった。一町(約109メートル)以上も先の騎馬武者や雑兵がバタバタと倒れた。

「それっ! 今だ! 押し出せ!」

政宗の采配が下りると同時に、左右に待機していた騎馬軍団が一斉に飛び出した。或る者は長槍をふるい、又或る者は太刀をふるって敵兵に襲い掛かった。その後を追うように、足軽兵がおめき声を上げながら突進した。勝敗の行方は明らかだった。僅か半刻はんときばかりの戦いで、伊達軍は敵の首四百以上を挙げたのである。対する伊達軍の損害は三十に満たなかった。

「ここらでよかろう。深追いは無用じゃ! もはや日も暮れようぞ」

政宗は将兵たちにほこを収めさせ、負傷兵の手当にあたらせた。


 「殿! お味方の大勝利にございます。殿の見事な采配ぶり、籐五郎感服仕りましてございます。この勢いで明日こそは小手森城を落としましょうぞ!」

つい先ほどまで鬼神のように戦場を駆け巡っていた伊達籐五郎成実が、カッカッと馬を寄せて馬上の政宗に語り掛けた。

「おう、籐五郎! その方らのお陰よ。良き働き振りであったぞ。明日も頼むぞ」

政宗は自分より一つ年下の成実を頼もし気に見やった。

「承知!」

成実は一声発し、右のこぶしで己がよろいの胸をドンと打った。成実は今日の政宗の鮮やかな采配ぶりを見て、

(やはり、政宗様は並の大将ではないぞ。これは面白くなってきた……)

と、密かに心を躍らせた。政宗の采配に非凡さを感じたのは他の将兵達も同じだった。

「我等が大将、中々やるではないか」

「芦名の連中の、あの慌てふためきようを見たか? 政宗様の計略にまんまと乗せられて……」

「我らが殿はお若いが、知恵も度胸も並外れたお方じゃ」

などと口々に言い合った。今日一日の采配で、政宗は多くの将兵達の信頼を勝ち得たのであった。


 丁度その頃、小十郎も戦闘に終止符を打ち、原田宗時と並んで将兵から戦果の報告を受けていた。挙げた敵の首は百余りであった。その他に、生け捕りにした敵の数は二百を超えていた。襲ってきた敵の軍勢がざっと三千ほどなので、ほぼ一割の兵力を無力化したことになる。味方の損害は戦死者十八名であった。大勝と呼んでよかった。しかし、小十郎は尚不満であった。何故なら、二千を超える敵の兵がここでの戦いを避けて大きく迂回うかいし、道なき道を通って小手森城に向かった事を知っていたからである。

「重綱殿、我らの勝利ですぞ。後は政宗様のご本陣から吉報が届くのを待つばかりじゃ」

小十郎の心の内を見透かすように宗時が言った。後は主君政宗や成実らを信じて任せればよい、とその顔は言っているのである。宗時は味方の勝利を毛ほども疑っていなかった。小十郎も宗時の言葉にハッと我に返る思いがした。冷静に考えれば、二千五百の兵で三千を超える敵兵を全て足止めさせることなど、最初から不可能な話だった。小十郎にとっては今日が初陣。知らず知らずのうちについ欲張りが過ぎてしまったと、小十郎は自分をいさめた。

「おう! その通りじゃ、宗時殿。我らの勝利ぞ! 今日の勝ち戦を早く殿に知らせねばなるまいて」

小十郎は初めて晴々とした表情を見せて宗時に言った。そして、早速伝令を政宗の下へ走らせた。あたりは既に薄闇に包まれようとしていた。その日、本陣からの吉報は届かなかった。


 二十七日。小手森城攻防戦は既に四日目を迎えようとしていた。伊達軍は一昨日、昨日と攻撃を加えたが、頑強な抵抗に遭い、合戦は膠着こうちゃく状態におちいっていた。思わぬ抵抗に政宗は苛立いらだった。聞けば、小手森城の将兵達は常陸の佐竹義重が大軍を率いて間もなくやって来るとの話を信じ、必死の抵抗を見せているらしい。古来籠城戦ろうじょうせんにおいては、強力な援軍の存在ほど、立てこもる側の兵士に勇気を与えるものはないのである。しかし、政宗は常陸周辺に放った間者から、佐竹義重出陣の兆候はないとの報告を幾度も受けていた。恐らくは大内定綱が将兵達を励ますため、苦し紛れに偽の情報を流したのだろうと政宗は思った。いずれにせよ、これ以上城攻めを長引かせるわけにはいかなかった。 政宗は昨日のうちに小十郎と原田宗時の部隊を呼び戻していた。今日の城攻めに三百丁の鉄砲を新たに加えたかったからである。政宗は三日前の戦闘で鉄砲の威力をまざまざと思い知らされた。この新しい武器は戦を変え、世の中を変えると政宗は思った。今日は鉄砲八百丁の威力を存分に試すつもりであった。


 二十七日早朝。伊達軍の総攻撃が始まった。政宗は白石宗実、屋代景頼、鈴木元信の部隊に鉄砲四百丁を与えて正面からの攻撃を命じた。また、留守政景、亘理重宗の部隊には鉄砲二百丁を与えて左側面から、泉田重光、国分森重の部隊にも同じく鉄砲二百丁を与えて右側面からの攻撃をそれぞれ命じた。政宗は鉄砲隊に、相手の顔が識別できる距離まで近づいてから発砲するようにと指示を出していた。城攻め初日の一斉射撃が思った程の成果を出していなかったからである。政宗の指示は効果覿てきめんであった。命中精度が飛躍的に高まり、敵の損傷が激しくなった。城壁や防護柵から頭を出したとたんに狙い撃ちにされた。目に見えて敵の士気が衰えてゆくのが分かった。密かに城を脱出する雑兵の群れも現れてきた。落城は時間の問題であった。


 二刻ほど戦いが続いた後、城方から降伏の使者がやってきたが、政宗はこれを拒絶して追い返した。それから間もなく小手森城の一郭いっかくから火の手が上がった。伊達成実の軍勢が乱入し、城に火をかけたのである。大内定綱は既に前日の夜、城を抜け出して二本松に逃れていた。ついに小手森城は陥落した。            

 そして、惨劇さんげきはその後に起こった。政宗は生け捕りにした八百人余を女子供に至るまでことごとく惨殺したのである。世に言う〈小手森城の撫で斬り〉であった。これは大内定綱への見せしめであると同時に、周辺諸大名へのみせしめでもあった。伊達に刃向かう者は同じ憂き目に遭うぞ、と警告しているのである。これ程徹底した殺戮さつりくは奥州ではいまだかつてなかったことであった。奥州では大名同士互いに政略結婚を重ねており、血縁関係が複雑に絡み合って、一皮むけば皆親戚同士みたいなものだった。その為、たとえ戦で勝利しても、一族もろとも根絶やしにするような激しい決着のつけ方は皆無といってよかった。ある程度相手の顔も立て、ほどほどの勝利で決着をつけるのが大半だった。しかし、政宗は違った。あくまでも刃向かう者に対しては皆殺しも辞さないことを証明して見せたのである。


 小手森城での惨劇は瞬く間に奥州中に知れ渡った。日頃伊達と敵対関係にあった大名、豪族達の間に緊張が走った。下手をすれば「明日は我が身」であった。今までのやり方が通用しない相手が現れたのである。今後の伊達勢との合戦が一層厳しいものになると、誰もが予感した。政宗の意図した見せしめ効果は十分に表れていた。天正三年秋、伊達政宗の名は一気に奥州中にとどろき渡ったのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る