第24話 大鉄砲

 五月六日、政宗は四千の兵を率いて二本松城に入った。二本松城には城主の伊達成実の他、片倉小十郎、白石宗実、亘理重宗、湯目景康、原田宗時らが既に顔をそろえていた。事前に政宗が招集をかけていたのである。政宗は入城すると直ちにいくさ評定ひょうじょうを開き、石川弾正討伐の手順と各武将らの配置を決めた。

 伊達軍は総勢一万ほどであったが、南方からの芦名、佐竹勢の再侵入に備えて、郡山城、窪田城に三千の守備兵を残した。その指揮を伊達成実にゆだねた。

 石川弾正の立てこもる城は二つ。小手森おてもり城(現在、福島県二本松市針道)とその北隣にある百目木どめき城(現在、福島県二本松市百目鬼)であった。どちらの城にもかなりの数の相馬の援軍が加わっていた。又、相馬当主相馬義胤自身も、小手森城の支城月山城(現在、福島県二本松市戸沢)に入り、弾正を支援していた。従って、弾正討伐はその背後にいる相馬勢とのいくさでもあった。

 政宗は小手森城攻撃に五千、百目木城攻撃に二千と軍勢を振り分けた。そして、小手森城攻撃の指揮は自らが取ることを諸将に告げた。

 翌日、政宗は本陣を前線に近い宮森城(現在、福島県二本松市小浜上館)に移し、兵馬を整えた。

 九日、政宗は五千の兵を率いて小手森城攻略へと向かった。付き従うのは片倉小十郎、白石宗実、亘理重宗らであった。百目木城攻略の軍勢は湯目景康と原田宗時が率いていた。ほら貝が吹き鳴らされ、伊達軍は二手に分かれてそれぞれの戦場へと押し出した。


小手森城は言うまでもなく、かつて政宗が落城の際に城兵を皆殺しにした城である。政宗にとって小手森城攻略戦は二度目であった。

 ちなみに今回の小手森城戦には、かつての小浜城主で、前回小手森城に立てこもって政宗に敵対した大内定綱が加わっていた。定綱は落城前夜に城を落ち延びた為、危うく〈なで斬り〉の難を逃れていた。あまつさえ、この四月には伊達成実のとりなしで過去の所業を許され、晴れて政宗の家臣となっていたのだ。人の運命など、どこでどう変わるか分かったものではないという格好の例であろう。この戦国時代に在っては、人の生き死には正に紙一重であったのだ。

 

 さて、その小手森城であるが、城は宮森城から北東へ二里余り(約八キロメートル)の場所に在った。城の西側を針道川、北側を立石川が流れ、それぞれ天然の堀として機能していた。山頂にかけて急斜面が続く山城である。

 伊達軍の襲来に備えて周囲を盛り土や空堀で囲み、要所要所には頑丈な防護柵を設けて騎馬隊の侵入を防いでいた。立てこもる兵はおよそ二千五百。前回の大内勢の時以上に堅い守りで待ち構えている様子であった。

 政宗は城の周囲を取り囲み、城側と相馬勢との連絡を絶った。政宗は小手森城を孤立させたうえで攻略に取り掛かった。

 十日巳の刻(午前十時)頃、伊達軍の攻撃が開始された。城の西、そして南と北、三方から一斉に攻め込んだ。大量の鉄砲を駆使しての攻撃であった。伊達の鉄砲隊は総勢二千。それが三方に分かれて城兵を攻撃した。その戦いぶりには、日頃の訓練の成果が表れていた。鉄砲隊は三段構えで、一隊が斉射する度に後続が一間(約1.81メートル)ほど前進してまた斉射をし、更にまた後続が一間前進して斉射するという戦法であった。つまり、一回斉射するごとに敵に接近していく訳である。敵との距離が縮まった分、おのずと命中精度も上がった。その点は相手にとっても同じ事と言えるが、重要なのは鉄砲の数である。鉄砲の数に於ける彼我ひがの差は圧倒的であった。城側の鉄砲数一に対して伊達軍のそれは十であった。城側の射手一人一人が十人の伊達軍射手からまとにかけられるようなものである。物陰から姿を見せれば、即座に複数の弾丸が飛んできた。

 最初の小半刻こはんとき(約一時間)で、城側は二百余の戦死者を出した。城を囲む土手の下には、撃たれて転げ落ちた城兵の死体が散乱していた。城側は鉄砲射手の大半をすでに失っていた。城からの銃声はまばらになり、代わって弓矢が飛んできた。伊達軍は防護柵を破壊し、三方からじわじわと城に迫っていた。

 政宗はこの形勢を見て、落城は最早時間の問題と判断した。そして、この機会に予てより実戦で試してみたかった事を実行しようと思った。すでにその準備は出来ていた。

 程なく、政宗の前に異様に大きな鉄砲が射台に乗せられた姿で運ばれてきた。全部で四挺だった。この鉄砲こそが、かかえ大筒とも言われる巨大火縄銃、大鉄砲であった。大鉄砲とは二十もんめ(75グラム)以上の弾丸を発射する火縄銃のことで、射撃の際の反動が大きい為に地面や射台に据えて用いられた。大きな物では弾丸重量が百匁の物も存在したと言われている。因みに、当時の火縄銃の主力である中筒で使用される弾丸の重量は六匁(22.5グラム)程度であった。

 今、政宗の眼前に有るものは弾丸重量五十匁、口径十一(約33ミリメートル)の大鉄砲であった。一挺は堺の鉄砲商人から買い入れた物。残り三挺はその一挺を手本に米沢城下で造らせたものだった。大急ぎで造らせた割には良く出来ているぞと、政宗は思った。

 政宗が米沢城下に鉄砲製造の為の新たな職人町を開いたことは以前にも触れた。鉄砲に関して言えば、今ようやく月産百五十挺の段階に達していた。製造を開始してまだ一年にも満たない事を考慮すれば、上々の滑り出しと言って良かった。政宗は三年後に月一千挺の生産を目論もくろんでいた。そして、この鉄砲と並んで政宗が力を注いだのが、実はこの大鉄砲であった。〈鉄砲町〉開設当初から大鉄砲専用の作業棟を設け、試作品の製造に当たらせてきたのだった。政宗は鉄砲の威力を知った時から、大鉄砲の兵器としての可能性に着目していたのだ。更に今では、まだ見たこともない大筒なる武器にまで関心を示していた。新しい物には目がない政宗なのである。


 小手森城の頂上付近には城主館が在り、そこが石川弾正の本陣であった。政宗は頂上に通じる大手門に狙いを定め、四挺の大鉄砲を据えた。城の内側には左右二つのやぐらが城門を見下ろすように建てられていた。櫓の上には広い足場が設けられ、それぞれ数十人の兵が詰めていた。皆、鉄砲や弓矢を手にしている。兵士らの前面には弾除け用の竹の束や分厚い木製の楯が隙間なく並べられていた。政宗は大鉄砲の的を両櫓上の敵兵に絞るよう命じた。大鉄砲と櫓までの距離はほぼ一町半(約163メートル)であった。

 4挺の大鉄砲が続けざまに火を噴いた。腹の底に響くような発射音と共に大量の白煙が辺りに広がった。次の瞬間、両櫓付近から悲鳴とも怒声ともつかぬわめき声が上がった。大鉄砲から発射された弾丸は防弾用の竹束や分厚い木製の楯を突き破り、その背後にいる将兵を幾人もなぎ倒していた。被弾した将兵の体は無残に破壊され、おびただしい血と肉片が辺りに飛び散った。少しの間をおいて第二弾、第三弾と斉射が続いた。間もなく櫓の上は阿鼻叫喚あびきょうかんの場と化した。防御のすべがない事を知った将兵らは初めて恐怖にられ、我先にと櫓を降り始めたのだった。

 恐怖は城全体に広がり、城からの脱出を図る兵士も現れた。もっとも、その先陣を切ったのが他でもない城主の石川弾正その人であった。弾正の脳裏には、かつてこの場所で起こった〈なで切り〉の惨事が思い浮かんでいた。同じ目に遭ってたまるかの思いが弾正を脱出に駆り立てた。弾正は配下の将兵と相馬兵を引き連れ、伊達軍の手薄な箇所を狙って脱出を図った。

 それから間もなく、伊達軍の総攻めが始まった。城からの射撃はほとんど止んでいた。伊達軍は大量の長梯子ながばしごを使い、一気に兵士らが城内になだれ込んだ。逃げ遅れた城の将兵らが次々に討たれた。最後に本陣の館に火が放たれ、小手森城は二度目の陥落を迎えたのだった。弾正らと相馬勢は一丸となって伊達軍の囲みを破り、相馬領へと落ち延びていった。討たれた城側の兵は総勢七百余であった。

 その日の夕刻、百目木城攻略に当たっていた湯目景康と原田宗時の陣営から伝令が到着した。敵の首級二百を挙げ、落城させたとの知らせであった。





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