第2話 片倉小十郎重綱

 青山耕平の意識が覚醒かくせいしつつあった。先ほどまでは川のせせらぎとしか聞こえていなかった音が、今ではぼんやりとながらも人の声であると認識できていた。そして、それが女性の声であることも分かっている。

≪母上様。今日はなんだか小十郎様のお顔の色が、昨日までとは違うような気が致します。――とても血色がよろしゅうございます≫ 

≪おう。確かにそうじゃ。そなたの申す通り顔色が良くなっている。玄庵殿も申しておりました。脈もしっかりしておるし、もう一息じゃと……≫

≪はい。母上様≫

若い方の女の声が一段と高くはずんだ。

(何か変だ――母上様とか、そなたがどうのとか……まるで時代劇に出てくるセリフじゃないか?)

目をつぶったままの耕平の脳裏のうりに戸惑いが広がった。

(これは夢か? ――俺はまだ夢を見てるのか? いやいや、この声は夢なんかじゃない。早く眼を開けねば。早く、早く……)

耕平はまぶたを開けようと意識を集中した。そして、ゆっくりと耕平の瞼が開いた。薄目状態である。ぼんやりと、天井や左右の景色が見える。眼だけ動かして左右を見た。横たわっている自分の両側に若い女と中年の女が座っているのが分かる。小十郎の奥方「あや」と小十郎の母であったが、無論耕平には知る由もない。耕平はさらに瞼を開けて二人の横顔を見たが、見覚えは全くない。二人とも着物姿で、長い黒髪を垂らしていた。

(誰なんだろう? この人たち――)                      ここはどこなのか声に出してたずねようとしたが、なぜか全く声が出ない。思わず起き上がろうとしたが、体が鉛のように重くピクリとも動かなかった。

 何か気配を感じたのか、二人の女姓が耕平の顔をのぞき込んだ。次の瞬間アッと小さく声を上げ、二人が同時に口を開いた。

「こ、小十郎様! 重綱様! お気が付かれましたか!?」

「小十郎! 気が付いたかへ。これ、小十郎!」


 覚醒して半月余りが経った。周囲の手厚い看護によって、耕平の体はメキメキと回復に向かっていた。今では、屋敷内を一人で歩き回れるまでに元気を取り戻していた。しかし、声だけは相変わらず出ない。一言も発することが出来ないのだ。その為、周囲の者が自分のことを片倉小十郎と呼ぶ度に、「違う!」と叫びたかったが、声が出ないのではそれもかなわなかった。

 耕平は、最初言葉をしゃべれないもどかしさに苛立いらだつ時もあったが、最近ではそれも悪くはないと思うようになっていた。なぜなら、話せなければ人に聞かれた時に、ちぐはぐな答えをして怪しまれるという危険性が無くなるからである。耕平は、今は少しでも疑われるようなことが有ってはならないと本能的に感じていた。何しろ、自分は偽物にせものの片倉小十郎なのであるから……。正体がバレた時にはどんな運命が自分に降りかかってくるのか、考えただけでも空恐ろしかった。だから、声が出ないのはむしろ好都合だった。それに、耕平が声を失っているために、まわりの者が気を利かして、何事にも丁寧ていねいな説明をしてくれるようになっていた。片倉家での生活のしきたりや習慣、家人や奉公人らの仕事の様子など、耕平が知りたいと思っていることを、手短に要領よく話してくれる。そのお陰で耕平は、今自分が置かれている状況をかなり正確に把握はあくできていた。耕平は新しい境遇を理解するために必死だった。そのために、常に周囲の人々の会話に耳を傾けた。時には奉公人たちの話をこっそり立ち聞きなどして、その内容を聞き取ろうとさえした。耕平はそのようにして、日々有用な知識を吸収する努力をおこたらなかった。

 

 耕平にとって、見るもの聞くもの全てが驚きの連続だった。家の者達の話によれ

ば、イノシシ狩りをしている最中に大きな地揺れが起こり、驚いた馬が小十郎を乗せたまま暴走して崖下に転落したのだという。気を失ったままの小十郎を急ぎ引き上げて屋敷まで運んだが、その後三日三晩眠り続けたとのことである。        

 又、奥方の綾からも驚くべき話を聞かされた。今は天正二年(1574年)で、ここは出羽米沢でわよねざわの地。ご領主は伊達輝宗様である――と。更に、この屋敷は伊達家の重臣片倉景綱の屋敷で、覚醒した耕平自身は景綱の世子小十郎重綱であるという。

 耕平は最初聞いた時に我が耳を疑った。

(この俺が、今、戦国時代にいる?! しかも、あの片倉小十郎重綱と間違われて……タイムスリップでもしたというのか? ――まるでSFだ! そんな馬鹿な!)

にわかには信じがたい話だったが、事実と認めてしまえば周りの状況や変化は全てつじつまがが合っていた。人や建物、言葉や生活習慣、その他諸々、どれをとっても全てが、今この時代が戦国時代であることを物語っていた。決して映画のセットや時代劇の撮影現場に紛れ込んだのではなかった。耕平は自分の身にとんでもないことが起こったのだということを認めざるを得なかった。


 綾は夫の片倉小十郎に何の疑いも違和感も持っていない様子だった。覚醒した直後こそ妻である自分の顔さえ忘れてしまっている夫に驚いたものだったが、それも頭を強く打ったためだと納得し、一層看病に励んだのである。今では以前にも増して夫との絆を強く感じていた。実際に父親の景綱が何の疑いもなく耕平を己が息子として、これまで何度も見舞っている。生死の境をさまよっていた跡取り息子が日に日に元気になっていく様子を見て、景綱は涙を流さんばかりに喜んだ。そんな景綱の姿を見れば、片倉家の者ならずとも疑う者などいるはずがなかった。誰もが耕平を本物の小十郎本人と見なしていた。


(瓜二つという言葉があるが……俺の顔は余程小十郎様の顔に似ているのだろ

う――)

耕平は自分が「小十郎」と呼ばれることになってからずうっとそう思ってきたのだった。

 この謎が解けたのはつい先日のことである。妻の綾が部屋を留守にしている隙に、綾の愛用の鏡で自分の顔を覗いたその時だった。耕平の顔に衝撃が走った。鏡に写っているその顔は、見たことも会ったこともない他人の顔だった。

(これが……これが、小十郎の顔か! 何という……)

そこには、目が覚めるような美青年の顔があったのである。


 片倉小十郎重綱は戦国武将随一の美丈夫びじょうぶであった。青山耕平も「戦国オタク」の名に懸けてそれぐらいは知っていた。しかし、これほどまでとは思わなかったのである。しかも、小十郎は後に父景綱に勝るとも劣らない、武勇と智謀を兼ね備えた武将となる人物であった。その小十郎に、今自分が生まれ変わっている。耕平の心の中に言いようのない感動が広がっていた。   

 ただ単に耕平の顔が小十郎の顔に似ていたのではなかったのだ。青山耕平の顔も体も、肉体そのものが全て小十郎のそれと入れ替わっていたのだった。

(――何ということだ! 俺は、この男に、片倉小十郎重綱に生まれ変わったのだ!)

耕平は驚愕きょうがくした。同時に、なぜか嬉しかった。耕平はその時、全てを現実のものとして受け入れた。戦国武将片倉小十郎として生きてゆく運命も受け入れたのだった。そして、隠されていた耕平の野望が、夏空に沸き立つ入道雲のようにモクモクと膨らんでいった。耕平の脳裏に、戦場を疾駆しっくする小十郎の幻影が一瞬浮かんでは消えた。


 耕平は改めてもう一度鏡の中の自分の顔を確かめた。まぎれもない現実がそこにあった。何度見ても小十郎の顔だった。かつての自分の顔、青山耕平の顔を見ることはもう二度とないかもしれないと思った。

(この顔が、――今の俺の顔。これからもずうっと……俺は、青山耕平は本当に片倉小十郎に生まれ変わったのだ!)                      

耕平はその時初めて、自分はもはや片倉小十郎として生きていく以外に、生きる道がないのだと思った。もう元の世界には戻れないのだと直感したのだった。そして同時に、これから何か途方もないことが起こりそうな予感がして心が震えた。

 耕平は改めて自分に言い聞かせた。俺は小十郎だ。今日から片倉小十郎重綱として生きてゆこう。自分に与えられたこの新しい世界――平成の世からはるかへだたったこの時代に、己の新しい人生を賭けてみようと思った。       

(――片倉小十郎重綱としてこの戦国の世を生きられるなら、悪くはない)

耕平は小十郎の活躍を知っているだけに、楽観的だった。

平成の世にあのまま生きていれば、平凡なサラリーマンで一生を終わるのがオチだと耕平は思った。                            

(しかし、ここでは一国一城の主も夢ではない! 否、政宗様と共に天下取りだって不可能ではないぞ!)

耕平はかつて味わったことのない高揚感に包まれていた。そして、この先何が起ころうとも、懸命にこの時代を生きてゆこうと決心したのだった。片倉家の為、そして、――綾の為に。耕平の心の中で何かが吹っ切れた瞬間だった。        

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