第9話 政宗危機一髪

 天正三年(1575年)十月十五日、政宗は父輝宗の初七日を済ませると、ただちに二本松城攻略のために出陣した。兵一万余を率い、早朝に阿武隈川を越えた。川を渡れば二本松城は目と鼻の先であった。政宗は復讐心に燃えていた。父のとむらい合戦とばかりに一気に城を攻め落とす覚悟であった。二本松城手前の小高い丘に布陣すると、すぐさま攻撃を開始した。そして、終日伊達軍の激しい波状攻撃が繰り返された。が、案に相違して城方の守りは固く、政宗の思惑とは裏腹に二本松城はびくともしなかった。

 この時、政宗は己をいささか見失っていたと言えよう。父を殺された恨みが先に立ち、日頃の冷静さや的確な判断力を失っていたのである。二本松城は名だたる山城である。守りを固めた山城を落とす困難さは、先の小手森城攻略戦でいやというほど思い知らされていたはずである。にも関わらず、この時の政宗の頭からはその時の記憶が消し飛んでいた。又、わずか十一歳の城主畠山国王丸くにおうまるは殺された畠山義継の子である。してみれば攻めてくる政宗は親のかたきである。家臣共々死に物狂いで戦いを挑んでくることは容易に想像できたはずである。相当な犠牲を覚悟せねばなるまい。このような時、本来の政宗であれば攻め急ぐことなく、調略などの手段を用いて相手の力を削いでから攻撃に移ったであろう。しかし、復讐心で頭が一杯だったこの時の政宗には、それが出来る心の余裕がなかったのである。


 翌日になっても状況は好転しなかった。それどころか、畠山勢は攻めあぐむ伊達勢を見て果敢に攻撃を仕掛けた。時折城から打って出て、伊達の前線に鋭く襲い掛かったのである。日も暮れかかり、誰もが城攻めは一筋縄ではいきそうもないと思い始めたころ、雪が降りだした。夜半には本降りとなり、翌十七日は野原一面が銀世界に変わった。旧暦の十月半ばと言えば新暦では晩秋、雪が早い奥羽の地では冬と言ってよかった。この時期の降雪は珍しい事ではない。そして、雪はその後も降り続き、十八日には大雪となった。

 その日伊達成実や片倉小十郎らが政宗のもとに集まり、大雪の為一旦兵を引くべきであると進言した。政宗にも異存はなかった。連日の雪が政宗の頭も冷やしたのであろう。政宗は二本松城攻めを中断し、小浜城に兵を戻した。仕切り直しであった。


 他方、二本松城の畠山国王丸は、伊達の軍勢が小浜に引き揚げたと見るや、常陸の佐竹義重や会津の芦名氏、更には近隣諸国に密使を走らせ、救援を要請した。 救援を求められた諸大名の行動は迅速じんそくであった。直ちに互いの領国を密使が行き交い、半月足らずのうちに佐竹義重を盟主とする反伊達同盟の密約が成立したのである。南奥羽の諸大名にとっては南下の機会をうかがう伊達政宗の存在は脅威きょういそのものだったし、北へ勢力を広めようとする佐竹氏にとっても邪魔な存在でしかなかった。遅かれ早かれ伊達との全面衝突は避けられないものと誰もが承知していた。従って、二本松城主畠山国王丸からの救援要請は、ついに来るべきものが来たという捉え方であった。それ故、反伊達でまとまるのにさほど時を要しなかったのである。ともあれ、二本松城救援の為に同盟諸国総力を挙げて出陣と決定したのだった。


 十一月早々、小浜城の政宗の下に常陸や会津に放った間者が次々に戻ってきた。政宗はいつものように一人一人部屋に通してじかに話を聞いた。部屋の外には警護の者がひかえているが、部屋の中は政宗と間者の二人だけだった。決して他の者を同席させることはなかった。重要な情報が他に漏れることを恐れたのと、その情報が重要であればあるほど自分が独占すべきであると考えたからである。

 間者が持ち帰った情報は恐るべきものだった。あらましはこうである。常陸の佐竹義重を盟主に芦名や岩城、白川、石川、二階堂、相馬など南奥羽の諸大名が反伊達の連合軍を組み、出陣の準備に追われているとのことだった。その兵力はおよそ二万五千余と見積もられ、早ければ十五、六日頃にも二本松に到達の恐れありと言う。全くもって容易ならざる事態であった。

                                

(――やはり、真であったか)

政宗は独り書院で思案を巡らした。片倉小十郎の顔が浮かんだ。

(あやつの進言を聞いて、念の為と佐竹の領内に間者を送ってみたが、真あ奴の申す通りであったわ――)

政宗は小十郎の的確な情勢分析と鋭い洞察力に舌を巻いた。

 先月、雪の為に兵を小浜城に戻した直後、小十郎が政宗に告げた。

「今頃は畠山の密使が方々に散っていることでありましょう。用心せねばならぬのは常陸の佐竹義重です。義重が動くことになれば厄介なことになりましょう。そうなれば二本松城どころでは有りませぬ。殿! 義重の動きから目を離してはなりませぬぞ」

その時の小十郎の真剣な眼差まなざしが忘れられなかった。まるで何かを予感して訴えかけているかのような眼だった。政宗は小十郎の言葉に胸騒ぎを覚え、急ぎ間者を佐竹領内に放ったのだった。

(それにしても、二万五千とは大軍じゃ。――さぞかし、常陸本国の守りは手薄になろうな?)

政宗は皮肉な笑みを浮かべて、小田原の北条氏政や安房国の里見義頼、常陸水戸の江戸重通などの名前を思い浮かべた。いずれも佐竹の敵対勢力であった。隻眼せきがんを細めて遠くを見つめる政宗の眼には、二万五千の大軍に臆する気配など微塵みじんもなかった。


 丁度その頃、小十郎も自陣の館内で、間もなく始まる大戦おおいくさに思いを馳せていた。

無論、小十郎には戦の帰趨きすうは分かっていた。後に〈人取橋ひととりばしの戦い〉と呼ばれることになるこの合戦で、伊達政宗は九死に一生を得、奇跡的に勝利するのである。そして、政宗はこの戦を契機に戦国武将として一段の飛躍を遂げ、仙道制覇へと駒を進めるのだ。平成の世では戦国マニアの高校生であった小十郎にとって、この程度の知識は常識であった。

(我が殿は、運も味方に付けておられる。やはり、並のお方ではないのだ――)

小十郎は政宗の前途に天下取りの匂いを嗅ぎ取り、胸がおどった。同時に、自分が政宗臣下の武将片倉小十郎重綱として生まれ変わったことに、何かしら運命的なものを感じるのであった。


 十一月十三日、佐竹義重率いる反伊達の連合軍が須賀川の地に集結し、一斉に北上を開始した。その数ざっと二万五千。行く手の野原は連合軍の軍勢で埋め尽くされた。十六日には前田沢城(現在、福島県郡山市喜久田町)にまで軍勢を進めた。義重は前田沢城に自らの本陣を敷いた。前田沢城の眼下には阿武隈川の支流〈五百川〉が流れ、その向こうに青田原あおたがはらの原野が広がっていた。そして、青田原の遠い彼方には伊達政宗の本陣観音堂山が霞むように見えていたのだった。


 一方、連合軍襲来との報に接した政宗は直ちに動いた。政宗は兵三千を二本松城に備えて残し、その指揮を片倉景綱に委ねた。自らは七千の兵を率いて出陣した。そして、十六日昼頃には本宮城(現在、福島県安達郡本宮町)に入った。本宮は奥州街道と会津街道が交わる要衝の地であり、政宗はかねてよりこの一帯で佐竹、芦名の連合軍を迎え撃つ算段をしていた。事前に自らもこの地に足を運び、地形などを調べていたのである。本陣を置く場所もすでに決めていた。政宗は本宮城に入るとすぐに陣立てを決め、各武将に告げた。告げられた武将達はその日のうちに各自戦場の持ち場へと散っていった。

 

 翌十七日早朝、政宗は主力四千の兵を率いて本宮城の南、観音堂山に入った。そして、かねてからの手筈通り、そこに本陣を置いた。陣地の後方には、前日のうちに組み立てられた物見やぐらが、その威容を誇るかのようにそびえ立っていた。観音堂山の上からは、麓を流れる瀬戸川やその向こうに広がる青田原が一望にできた。川には小さな橋が二つ掛かっている。手前の橋が〈狐橋きつねばし〉で、そこから東の阿武隈川の方向、瀬戸川館の前に掛かるのが〈舟橋ふなはし〉であった。もっとも、〈舟橋〉はその名の通り小舟を幾艘か浮かべてつなぎ、その上を人が通れるようにしただけの代物であった。


 政宗は観音堂山の麓付近に留守政景、白石宗親、国分政重の部隊をを配し、その前方、狐橋を越えて青田原方面に泉田重光や七宮憲光らの先鋒部隊を配置した。又、防御の要所である瀬戸川館には伊達成実を置き、鉄砲二百挺と兵千を与えて守らせた。その瀬戸川館の南方、荒井、五百川方面には白石宗実、浜田景隆、高野兼高らの先鋒部隊を布陣させた。そして、そこからさらに南方、最前線の高倉城には高倉近江守、伊東重信、桑折宗長らを配し、同じく鉄砲二百挺と兵千を与えて守らせた。本陣の政宗自身の左右には、予備の部隊として片倉小十郎、原田宗時の部隊が置かれた。


 本陣中央。黒漆塗五枚胴具足に身を固めた伊達政宗が床几しょうぎに腰を下ろしている。

小十郎も同じように床几に腰を下ろし、政宗の傍らに控えていた。子飼いの郎党五十余騎を含め総勢五百の手勢を従えていた。

(何としてでも、殿のお命は守らねばならぬ。史実通りであれば、伊達勢はかなりの苦戦。政宗様自身矢玉を体に受け、絶体絶命の危機に陥ったとの由。それ程の苦戦であるならば、こちらの世界で史実がほんの少しずれているだけで、政宗様のお命はないかもしれぬのだ。努々ゆめゆめ油断はするまいぞ――)

小十郎は時折政宗の顔を見ながら己を戒めた。実際、史実通りに事が運ぶ保証などないのである。何が起こるかわからないのがこの世界なのだ。小十郎は改めて気を引き締めた。


 十一月十七日、巳の刻(十時)、前田沢城の一郭からほら貝の音が鳴り響き、連合軍の兵が一斉に動き出した。その様子はさながら、イナゴの大群が列を作って移動を始めたかのようであった。先頭の部隊は早くも五百川を続々と越え、青田原に押し出し始めていた。

 最初に戦端が開かれたのは高倉城であった。高倉城は前田沢城の東、阿武隈川のほとりに位置し、五百川を見下ろす山の上に在った。伊達勢は城を出て五百川の浅瀬を渡河する連合軍に激しい銃撃を浴びせた。鉄砲二百挺によるつるべ撃ちであった。騎馬武者が馬上から転げ落ち、多くの兵士が血を噴き出して川面に突っ伏した。伊達勢は敵が川を渡るのを必死になって防ごうとしていた。何故なら、敵が渡河して進むその先には伊達成実が守る瀬戸川館が有り、そこを突破されると本陣の側面を突かれ、一気に守りが崩壊する危険があったからである。高倉城方面に進んだ連合軍は総勢八千であったが、指揮をっていた岩城常隆や白川義親らはここで軍勢を二つに分けた。半分は高倉城攻略にあて、残り半分は渡河の続行にあてたのである。連合軍の高倉城攻略部隊も鉄砲隊を前面に出し、反撃を開始した。伊達勢はたちまち苦戦を強いられた。連合軍の城攻め兵力が半分に減ったと言っても、それでも伊達勢の四倍以上の人数である。伊達勢はじりじりと後退し、逃げ込むように城内に撤退した。


 それから程なく、観音堂山の政宗に開戦の第一報が届いた。五百川方面に展開する白石宗実からの伝令であった。伝令は政宗の前に進み出て、つい今しがた高倉城で戦端が開かれたことを告げた。続いて、                  

「敵の軍勢はおよそ八千。旗印から見て岩城、白川、佐竹、芦名、石川、二階堂らの兵と思われます」                            

と報告した。高倉城の守備兵は千余である。実に八倍であった。容易ならざる事態は明白であったが、政宗には高倉城に援軍を送る余裕はなかった。次の瞬間、伝令の武者は誇らかに声を張り上げた。                    

「高倉城から出撃したお味方の鉄砲衆が数多あまたの敵を仕留め、五百川は敵のしかばねで足の踏み場もないほどにございまする!」

その場にいた者の口から一斉に、「お―っ」という驚きとも喜びともつかぬ低い声が漏れた。

伝令の武者は初戦の勝利を告げ、高倉城の伊達勢が敵の大軍を相手に善戦していることを知らせた。

「尚、敵は軍勢を二手に分け、半数を城攻めに向かわせ、もう半数を青田原の我が方へと向かわせておりまする。こうしてる間にも、敵の先鋒は我が陣の間近に迫っておるやもしれませぬ!」

伝令の武者は早く自陣に戻り、敵と戦いたいと正宗に帰陣を申し立てた。政宗はただちにこれを許した。


 白石宗実からの伝令が去ると、それと入れ替わるように狐橋の前方、青田原に布陣する泉田重光からの伝令が飛び込んできた。

「我ら青田原で佐竹、芦名の先鋒部隊を迎え撃ち、さんざんに打ち負かして、敵の首級しるし百三十余を挙げましてございまする!」

伝令はそのように報告し、味方は尚も敵を追撃中であると告げた。政宗は立ち上がって伝令の兵士に命じた。

「その方、直ちに戻って重光に伝えよ! 決して深追いはするなと、この政宗がそう申しておったと、必ず伝えるのじゃ! 良いな!」

ハッ、と答えるや否や、伝令の兵士は足早にその場を立ち去った。


 伝令が姿を消すと、政宗は小十郎を振り返った。

「小十郎、わしについて参れ」

政宗は小十郎に告げると自ら先に立って歩きだした。小十郎が後を追う。物見やぐらの前に来た。やぐらは太い丸太で組まれ、天に向かって伸びていた。上り下り用の板が渡してある。政宗は躊躇ちゅうちょなく登り始めた。最上階の物見台まで来ると、政宗はやおら腰にぶら下げていた細長い錦袋から何やら取り出した。細長い筒状のものだった。政宗はその細長い筒を左目に当て、眼前に広がる青田原をじっと見ていた。

「殿! そ、それは――」

小十郎はそれが望遠鏡であることはすぐ分かったが、まさか政宗が手に入れているとは知らなかったので、正直驚いた。

「小十郎、これは遠眼鏡と言ってな……南蛮渡来なんばんとらいの不思議な道具よ。片眼のわしでもよ―く見えるわ」

政宗はニヤリと笑って遠眼鏡を下ろした。

(――政宗様は一体いつそんなものを手に入れられたのか? 陸奥や出羽の地に南蛮人が来たなどという話は聞いたこともない。やはり、京や堺辺りの商人と……)

小十郎は想像の翼を広げながら、政宗の南蛮好みや新しい物好きに感心していた。

「やはり、敵は三手に分かれて攻めてきたぞ。物見の申す通りじゃ。一手は高倉城から瀬戸川館方面に、後の二手はいずれも狐橋に向かって進んで来るわい」

政宗は小十郎の思惑など気にも留めず、今見た青田原の様子を告げた。

「それにしても、大軍じゃ! これ程の軍勢、わしは見たことがないぞ。小十郎、そなたものぞいてみよ」

政宗は小十郎の前に片手でグイッと遠眼鏡を突き出した。小十郎はうやうやしく両手で受け取ると、すぐさま青田原の様子を覗き見た。恐るべき光景が広がっていた。佐竹と芦名の旗印を付けた大軍勢が二手に分かれて狐橋に接近しつつあった。その数、凡そ一万六千余。西側を進む一団は既に泉田重光や七宮憲光、青木修理亮らの率いる伊達先鋒部隊と激しい戦闘状態に入っていた。そして、もう一方の東側を進む一団は西側のそれら戦闘地域を迂回するようにして狐橋に近づいていたのだった。この一団こそは、佐竹義重が自ら率いる佐竹の主力部隊であった。そして、遠く高倉城方面を見やれば、五百川を渡河した敵の大軍が阿武隈川沿いに北上を続けている様子が見て取れた。無論、その先には伊達成実が守る瀬戸川館が在った。

(すごい数だ! 二万五千対七千! まともにり合ったら、我らに勝ち目はない――)

小十郎は青田原を埋め尽くすようにして進撃してくる二万五千の大軍勢を目の当たりにして、さすがに足が震えた。戦いの結末を知っていなかったら、今すぐこの場から逃げ出したい程の恐怖感であった。小十郎は今見た光景をしっかりと脳裏に焼き付け、遠眼鏡を正宗に返した。

「殿!間もなく佐竹の本隊が押し寄せてまいりましょう。我らは狐橋の周りを固めるのが肝要と考えまする」

「おう、その通りじゃ、小十郎。瀬戸川は天然の堀、そう易々と渡らせてなるものか。鉄砲四百挺を並べて、屍の山を築いてやるのだ!」

政宗は昂然こうぜんと言い放った。そして、急ぎ櫓を降りると、観音堂山の麓に待機していた留守政景、国分政重、白石宗親に指示を出し、軍勢を狐橋の周辺に展開させた。鉄砲四百挺は狐橋の前方に二段構えの横一列の陣形で構えさせた。


 それから程なく、佐竹義重率いる佐竹軍本隊八千余が狐橋を守る伊達軍に殺到した。伊達軍の狙いすました鉄砲が一斉に火を噴いた。一度に数十人の敵兵が倒れた。二段構えの鉄砲隊は間を置くことなく銃撃を続けた。敵がひるんだと見るや、白石宗親率いる七百余の部隊が突入し、逃げ惑う敵兵をさんざんに切り伏せた。頃合いを見てはわざと後退し、追ってくる敵にはまたもや鉄砲隊が一斉射撃を浴びせた。たちまち狐橋の前方は佐竹兵の戦死者と負傷兵で一杯になった。

 伊達勢の手ごわさを目の当たりにした佐竹軍だったが、執拗しつような攻撃の手をゆるめることはなかった。やがて、伊達軍との圧倒的な兵力差がさらに広がった。それというのは、西隣を進んでいた佐竹、芦名、相馬の混成軍が伊達の先鋒部隊を撃破し、狐橋攻防戦に加わる形になったからである。狐橋の伊達軍に向かう連合軍の兵力は今や一万六千余であった。


 その後、狐橋を挟んでの攻防戦は一刻(二時間)以上にも及んだ。互いに多大な犠牲を払いながら、橋を取ったり取られたりの白兵戦はくへいせんが続いたのである。この時、橋をめぐって多くの兵が戦死したので、後世人々はこの橋のことを〈人取橋ひととりばし〉と呼ぶことになる。

 一刻以上にも及ぶ激しい攻防は伊達勢により多くの疲労を与えた。圧倒的兵力を誇る連合軍側は、入れ代わり立ち代わり新手を繰り出して攻撃した。その度に伊達勢の死傷者が少しづつ増えていった。次第に橋を越えて攻め込まれる場面が多くなり、このままでは瀬戸川の防御線を突破されるのは誰の目にも明らかだった。


 政宗はこの様子を観音堂山の物見やぐらの上からじっと見ていた。傍らには片倉小十郎と原田宗時が控えている。狐橋の攻防戦が始まってからは、政宗は物見やぐらに上がりっぱなしであった。

「追い払っても追い払っても繰り出してくるわ、義重奴!」

政宗は苛立ち気に言い放った。敵の新手と激突するたびに伊達勢の戦力がそがれてゆく。物見台から見ていると、それが手に取るようにわかるのだ。今の政宗に取れる策はただ一つだった。それは、最後まで残された無傷の手駒を投入することだった。即ち、片倉小十郎と原田宗時の部隊、都合千五百を突入させることだった。それによって、一時的にではあっても、疲労困憊ひろうこんぱいの味方兵を休ませることが出来る。

「小十郎、宗時、見ての通りじゃ。その方らにあの者らの救援を頼む。急ぎ駆けつけて援護してやってくれ」

政宗はいつになく厳しい表情で二人に命じた。

「はっ、それでは至急に……」

そう言いながら、早くも宗時が立ち上がった。

「殿! 我ら二人、必ずや敵を蹴散らして又ここへ戻って参りまする。その間、殿も決して御油断召されぬよう……」

小十郎もそう言い残して、そそくさと物見台を後にしたのであった。今や観音堂山で政宗の身辺を守る者は、老臣の鬼庭良直おにわよしなおとその郎党六十人余りと、屋代勘解由兵衛景頼らの旗本数十人のみであった。


観音堂山を降り下った小十郎と原田宗時の部隊は、疲労困憊こんぱいの伊達勢と入れ替わるように前面におどりり出た。

「 皆の者! よ―く聞け! これから佐竹、芦名の腰抜けどもをけ散らすのだ! 日頃のご恩に報いる良い機会じゃ。存分に働くがよい!」

小十郎は馬上から配下の者たちに檄を飛ばした。

「命を惜しむな! 命を惜しめば、出世も恩賞も無いと心得よ! 今日の戦で手柄を立てたいと思う者は我の後に続け!」

小十郎は太刀を引き抜くと、左手で手綱を握り絞め、馬の腹を蹴った。真っ先に敵陣に突進して行った。ウオ―ッというときの声を挙げて五百の精兵がつづく。原田宗時の部隊千余もほぼ同時に突撃した。


 小十郎は馬上から太刀をふるい、イナゴの群れのように襲ってくる雑兵達を切り伏せた。馬を駆け寄せて敵の首を下から上にねたかと思うと、次の瞬間には別の敵兵の肩口目がけて太刀を振り下ろしていた。敵の繰り出す槍の穂先ですねや二の腕に傷を負ったが、それをものともせず太刀をふるい続けた。名のある武将とみて小十郎に挑んでくる命知らずの敵兵の首が空を飛び、刀を握ったまま切り落とされた片腕が地面に落下した。返り血を顔に浴び、赤鬼のような形相で戦場を駆け巡る小十郎の姿は、正に鬼神そのものであった。佐竹や芦名の兵は恐怖を覚えた。

「お、鬼だ! あ、あ奴は鬼だぞ!」

「お―、そうとも。奴はヒトじゃない!」

「鬼と戦うなど……俺はご免だ。――命がいくらあっても足りね―」

明らかに佐竹や芦名勢の足が止まった。それとは逆に、小十郎の勇猛果敢な戦いぶりに力を得た伊達勢はここを先途と攻め立てた。余談ではあるが、この時の小十郎の、鬼神もかくやと思わせる勇猛振りが、後の〈鬼の小十郎〉の異名を生むのである。


 後方からこの状況を見ていた連合軍の総帥そうすい佐竹義重は、直ぐに指示を出した。

「全軍で攻め上がれ! 芦名勢は伊達の先鋒を包み込むのじゃ! 我ら佐竹の本隊は伊達の先鋒などにかまうな! 一気に伊達の本陣を突け! 政宗の首を挙げるのじゃ!」

佐竹義重は決着を急いだ。この時期の奥羽の日没は早い。既にひつじの刻をうに回っていた。互いの旗印が識別できなくなるまで、そう長い時間は残されていなかった。それに、連合軍とはいっても、この時期の出陣に乗り気でない者もいれば、内心伊達と佐竹を天秤にかけている者までいるのだ。決着が長引けば連合軍の結束にひびが入りかねなかった。


 それから間もなく、小十郎の部隊は原田宗時の部隊と共に芦名の大軍に包み込まれようとしていた。小十郎の目覚ましい戦いぶりに勇気百倍を得て奮戦を続けた精兵達だったが、圧倒的な兵力差は如何ともしがたかった。じりじりと後退を余儀なくされていた。小十郎は馬上から狐橋の方を振り返った。佐竹の本隊が続々と橋を渡り、伊達勢を観音堂山へと追いつめていた。

(い、いかん! このままでは退路を断たれてしまうぞ)

今ここで退路を断たれれば、全滅の憂き目に遭う。小十郎は遮二無二しゃにむに兵をまとめ、一団となって狐橋目がけて退却した。芦名勢の手薄な箇所を選んで突破を図った。背後から芦名勢の追撃を受けながら行く手の佐竹軍に切りかかっていった。


 その頃、観音堂山の政宗に危機が訪れていた。狐橋を越え、伊達の防御陣も突破した佐竹兵の一団が身近に迫ってきたのである。佐竹兵は先頭の三十人ほどが槍を構え、他の百人余りは皆抜刀して近づいてきた。対する政宗の手勢は僅か百にも満たない数だった。意外に手薄な本陣の守りを見た佐竹兵が、一気に攻め込もうと構えたその瞬間、伊達勢の鉄砲十挺が火を噴いた。至近距離からの発砲で七、八人が倒れた。発砲を合図に伊達勢が一斉に切り込んだ。敵味方入り乱れての大乱戦となった。政宗も太刀を抜いていた。斬りかかってくる相手を右に左にかわしながら、隙を見て横に払った太刀が相手の右腕を切り落としていた。それとほぼ同時に、政宗は左肩に鋭い痛みを感じた。振り向くと、若い佐竹兵が槍を構えていた。荒い息を吐いている。

「政宗公とお見受けした! お命頂戴仕ちょうだいつかまつる!」

更に槍を繰り出そうとしたその時だった。

下郎奴げろうめ! 死ね!」

声と共に身を躍らせて、一気に上段から太刀を振り下ろした武者がいた。伊達の老臣鬼庭良直であった。斬りつけられた佐竹兵は首からおびただしい血を噴き出し、槍を握ったままドッと前に倒れ、絶命した。

「誰か! 誰か、殿をお守りしろ!」

鬼庭良直の声に応じて配下の郎党数人が駆け寄って来て政宗を囲んだ。

「殿! ここは我らにお任せいただき、一刻も早く本宮城にお逃げくださりませ!もはや日も落ちまする。暗くなってからでは、何かと難儀致します。何卒なにとぞ、何卒ご決断を!」

良直は必死に政宗に直言した。政宗とて良直に言われずとも己のなすべきことは理解していた。これ程苦戦するとは思わなかったが、目の前の現実は素直に認めざるを得なかった。このまま居続けて敵の新手を迎えることになれば、討ち死にするしかないと政宗は思った。そうなれば、伊達家は滅びることになる。政宗は天を仰ぎ、観念したように口を開いた。

「相分かった! 一先ひとまず本宮まで引くとしよう。手はずは良いか?」

「はっ! こちらにございます」

良直は自ら先頭に立って案内した。物見やぐらの裏手であった。そこから人一人やっと通れるほどの、細い獣道けものみちが麓まで続いていた。

「殿、この道を辿たどってゆけばじきに麓にたどり着きまする。この先はこの者たちがご案内仕りますゆえ、何なりとお申し付けくださりませ」

鬼庭良直はそう言って、配下の者達を目で示した。そして、

「この良直、もうひと暴れして殿のお役に立ちとうございますので、これにてご免こうむりまする」

言うが早いか、きびすを返して乱戦の場へと戻って行った。

(良直! ――死ぬなよ!)

政宗は心の中で叫んだ。夕闇が迫って来ていた。政宗は意を決して獣道を進み始めた。この後、老臣鬼庭良直は、主君政宗を安全に逃すため、敵の前に再三再四立ちはだかり、最後は多くの部下と共に討ち死にを遂げている。よわい七十三であった。


 ――どれぐらい時が経ったのであろう。小十郎が、行く手を阻む敵を切り伏せながらようやく狐橋に戻り着いた時には、辺りはとっぷりと夕闇に包まれていた。小十郎は留守政景、国分政重、白石宗親らの味方勢と合流すべく、観音堂山に向かって更に前進を始めた。と、その時だった。まるで潮が引くように敵の軍勢が退却を始めたのである。戦いを止め、囲みを解き、負傷した味方兵を抱えながら、ぞろぞろと青田原に戻り始めた。連合軍に退却命令が出たのである。日没を控え、これ以上の戦闘は無理と判断したのであろう。実際、夕闇は一段と濃くなっていた。小十郎は内心安堵した。もう少し戦いが続いたら危ういところだったと心底思った。

(殿はご無事であろうか? いやいや、ご無事に違いない。万が一の時には、鬼庭のじい殿が抜け道を案内して、殿を逃れさせる手はずになっているではないか。わしとしたことが……余計な心配であったわ。)

小十郎は一人苦笑いした。そして、馬上から大音声だいおんじょうで伝えた。

「我らはこれより観音堂山のご本陣に戻る! 皆、後に続け!」

小十郎は太刀を鞘に納め、両手で手綱を握ると観音堂山を目指して駒を進めた。


 この日の激しい戦闘は終わった。終始劣勢であったとはいえ、伊達勢は連合軍の猛攻をしのぎ切った。敵の兵力が数倍であったことを考えれば、大健闘と言ってよかろう。伊達の武将たちの討ち死に覚悟の奮闘ぶりがこの結果につながったのだった。


  伊達政宗は無事本宮城に退却した。その夜、政宗は城の守備に当たっていた瀬上景康ら将兵全員に酒をふるまい、明日の決戦に向けて士気を鼓舞した。観音堂山を再び伊達勢が取り戻したことや、伊達成実が瀬戸川館を死守していることなども各陣営からの報告で把握していた。又、連合軍側の戦死者や負傷兵の数が伊達軍の数倍に達していることも分かっていた。                    

(――明日の一戦こそがこの戦の勝敗を決める)

政宗は勝つ気でいた。勝ちたかったのだ。父輝宗亡き後、初めて伊達全軍を率いて臨んだ戦であった。父の後ろ盾がなくとも立派に戦えることを示したかったのである。


 しかし、世の中それ程甘くはない。普通に考えれば、戦は兵の数が多い方が有利なのである。三倍以上の兵力の敵と戦って勝ちを得るなど至難しなんわざであった。それが証拠に、今日の戦いなども日没で救われたと言えなくもなかった。もう半刻はんときも戦いが続いていたら、伊達勢は総崩れになっていただろう。

したがって、明日再び激突することになれば、今度こそ政宗の命がどうなるかわからなかった。政宗は今正に累卵るいらんの危機を迎えていたのである。


 ところが、である。その日の夜に、政宗にとって僥倖ぎょうこうとも言うべき出来事が起こるのだ。出来事が起こったのは佐竹義重の本陣内であった。

 その夜、本国常陸から届いた緊急の密書がとんでもない知らせをもたらしたのである。かねてより緊張関係にあった安房国あわの里見義頼と常陸国水戸ひたちみとの江戸重通が、まるで示し合わせたように佐竹領内に侵攻を始めたとの知らせであった。相模さがみの北条氏政が裏で糸を引いているようだとも書いてあった。

 佐竹義重は一読して顔色を変えた。この度の遠征は伊達政宗を一挙にたたつぶすための出陣であり、その為に佐竹の全兵力を率いて乗り込んできていた。よって本国常陸は今、空き家同然であった。侵略する方にとっては、これほど好都合な機会は滅多にないだろう。更に気がかりなのは北条である。義重にとって安房国の里見や常陸水戸の江戸よりも、その背後にいる相模の北条の方が不気味であった。もしや、伊達とのいくさが長引くのを見越して、本格的に侵攻をくわだてているのではあるまいか? 義重の脳裏に疑心ぎしん暗鬼あんきが広がった。

「我らは常陸国に戻る! 夜明けと共に全軍出立じゃ! よいな、者共!」

義重の鶴の一声で撤退が決まった。

 翌朝早々、佐竹軍は兵をまとめ、本国常陸目指して撤退していった。連合軍の盟主であり、全兵力の半分以上を占める佐竹軍がいなくなり、他の同盟諸国は動揺した。もはや戦いを続ける雰囲気ではなかった。連合軍は解散状態となり、同盟諸侯は先を争うようにしてそれぞれの本国に戻っていった。昨日まで青田原を埋め尽くしていた連合軍の大軍勢が一夜にして消えてしまったのである。


 かくして伊達政宗は危機を脱したが、決して強運だけがこの結果をもたらしたのではなかった。その陰には政宗の策謀があったのである。政宗は佐竹義重が大軍を率いて出陣すると知るや、すぐさま相模の北条氏政や安房国の里見義頼、常陸水戸の江戸重通に密書をを送り、空き家同然の佐竹領への侵攻をすすめたのである。その甲斐かいあって、里見義頼と江戸重通が動いた。決しておおかりな侵攻ではなかったが、佐竹義重は二人の背後に北条氏政の影を見ておびえたのである。政宗の狙いは当たり、佐竹義重は兵を引いた。最後の最後に政宗の作戦が功を奏したのであった。


 政宗は兵を小浜城に戻し、そのまま年を越した。九死に一生を得た政宗ではあったが、二万五千を超える連合軍相手に一歩も引かぬ戦いぶりは、周辺の諸大名に政宗の力量を改めて強く印象付けたのだった。この時、政宗は未だ十九歳の若さであった。奥羽に誕生した若き龍が、今正に天に向かって駆け上ろうとする瞬間であった。
























                       




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