第10話 二本松城攻防戦

 天正四年(1576年)四月、片倉小十郎は政宗の命に従い、伊達勢の一翼をになって二本松城を攻めた。攻める伊達勢は一万余。ほぼ全軍と言ってよかった。総攻撃である。激しい戦闘が数日間続いた。

 しかし、城は落ちない。城方の守りは恐ろしく固く、戦闘意欲も極めて旺盛であった。小十郎は思った。

(恐らく、前年の戦いで連合軍が伊達勢をあと一歩のところまで追いつめたとの知らせが、城兵達をふるい立たせているのであろう。そして今度も又、佐竹や芦名の援軍が駆けつけてくるものと信じているのだ)

実際城兵達の戦いぶりには、政宗軍何するものぞの気概きがいが満ちあふれていた。

 小十郎の脳裏に長期戦の三文字がよぎった。同時に、佐竹や芦名の大軍が悪夢のように目に浮かんだ。二本松城攻めにてこずっていれば、再び佐竹義重率いる大連合軍が押し寄せて来るかも知れぬのだ。それを考えると小十郎の気は休まらなかった。

(殿は……政宗様は如何いかにするおつもりか?)

小十郎は政宗の顔を思い浮かべ、陣所の空を見上げた。春の空にはいつの間にか夕焼雲が一杯に広がっていた。


 その後、小十郎が心配した通り、城攻めは再び長期戦の様相を見せ始めていた。しかし、この後間もなく、小十郎は政宗の戦国武将としての非凡さを思い知らされることになる。


 政宗にとって二本松城を落とすことは父輝宗の敵討かたきうちそのものだった。二本松城を攻め落とし、畠山の係累を討滅しない限り、敵討ちは終わらなかった。

 しかし、政宗も二本松城攻めにずるずると時を費やすことの危険性は分かっていた。やはり、いつ何時佐竹らの大軍が襲来するかもしれないという不安があったからである。政宗は力攻めで城を落とすことにはこだわらなかった。方法はどうでもよかった。要は二本松城が完全に政宗のものになればよい良いだけの話であった。政宗は既に手を打っていた。


 政宗は、年明け早々から畠山陣営に対して内応工作を始めていたのである。そして、すでにその成果は現われていた。三月中に箕輪玄蕃みのわげんば等畠山の重臣数名が寝返りを約束し、政宗に人質を差し出してきたのである。彼らに従う地侍の数も千を超えていた。

 これ等寝返り工作に加えて、政宗は密かに和議工作も進めていた。政宗は伊達成実の父実元に、相馬義胤そうまよしたねに和議の斡旋あっせんを依頼するよう命じた。更に岳父田村清顕きよあきにも、相馬義胤に同じ趣旨の依頼をしてくれるよう頼み込んだ。政宗が交渉人としてこの二人を選んだのは、どちらも相馬氏との姻戚いんせき関係を考慮した上でのことだった。義胤にとって成実の正室亘理御前は義胤の妹の娘、即ち姪に当たり、田村清顕の正室は義胤の父の妹、即ち叔母であった。二つの親戚筋しんせきすじから同時に頼み込まれれば、義胤も無下には断れまいとの政宗の読みであった。


 五月下旬、政宗の思惑通り、相馬義胤が調停に乗り出してきた。政宗の和議条件は単純明快であった。「城を明け渡すならば、城主国王丸以下全員の命は助ける」というものであった。これに対して城側は最初徹底抗戦を主張する者と和議条件を吞むべきと主張する者との二派に分かれたが、結局は和議条件を吞むことであっさりと決着が着いた。期待していた佐竹や芦名の援軍も今回は形ばかりの少数部隊で終わりそうだったし、身内の中から幾人もの重臣たちが寝返っていることも薄々知れ渡っていた。こんな状態で、勢いのある伊達勢相手にいつまで持ちこたえられるか、誰もが不安に感じていたのだ。

そして、とどめを刺したのが「和議をって、あくまでもいくさを続けると言うのであれば、で斬りを覚悟せよ!」との政宗の一言だった。前年に小手森城で行った撫で斬りを再びやるというのだ。小手森城では捕らえた男女八百人を一人残らず、牛馬もろとも皆殺しにしている。南奥羽の諸大名を震撼しんかんさせた出来事なだけに、人々の記憶も未だ生々しかった。城側の将兵達の動揺は激しかった。その為、政宗の決心が伝えられると、後はとんとん拍子に事が運んだのだ。


 七月十六日、二本松城は和議条件通り明け渡された。畠山国王丸は少数の家臣共々会津の芦名氏を頼って逃れていった。

政宗は遂に宿敵畠山氏を倒し、念願の二本松城を手に入れた。そして、父輝宗のとむらい合戦もこの日を境に終わりを告げたのである。


 数日後、小十郎は陣所の宿舎に居た。朝からじりじりと照り付ける日差しは湿気を多く含んで、たちまち肌をべとつかせた。小十郎はもろ肌脱ぎになって、井戸から汲んだばかりの冷たい水で手ぬぐいを絞り、上半身を拭いた。爽快だった。頭の中にも何やらいい風が吹き抜けるような気がした。二本松城を開城させた後だけに尚更清々しさを感じたのかもしれない。そして、いい風が吹き抜けた直後に政宗の顔が不意に浮かんだ。以前よりも大人びた顔つきをした政宗がこちらを見ていた。

 小十郎は二本松城をめぐる政宗のいくさぶりを思い出した。何度思い返しても見事と言う他なかった。

(――あの若さで、あそこまでお出来になるとは……末恐ろしいお方よ)

小十郎は二本松城開城までの政宗の采配ぶりにいたく感心していた。力攻めをする前に既に内応工作を成功させていたり、長期戦が不利と判断すればすぐ和議に切り替える行動力。そして、おどし文句の「撫で斬り」宣言もここぞという時に使われ、劇的効果を発揮した。やることなすこと手際の良さが光った。大したものだと小十郎は思った。とても自分とおない年とは思えなかった。ちなみに天正四年(1576年)のこの年、政宗も小十郎も二十歳はたちの年を迎えていた。

 政宗の非凡さや急激な成長に目を見張る小十郎ではあったが、小十郎とて武将としての成長、変貌へんぼうぶりでは政宗に負けてはいなかった。実際、「人取橋の戦い」以来、「鬼の小十郎」の異名が付くほどの大変貌を遂げている。ただ、本人はあまりそのことを自覚していないのだ。

(殿はどんどん大きくなっている。置いて行かれぬよう、心せねば……)

小十郎は一息吐いて遠くを見た。やがて、体を拭き終えると再び小袖こそでに腕を通した。身も心も心地よかった。


 政宗は米沢に凱旋がいせんする前に戦後の論功行賞を行った。この時片倉小十郎重綱を大森城主とし、信夫郡三十一郷と名取郡二郷を所領として与えた。ちなみに、伊達成実はこの時安達郡三十三郷(およそ三万八千石)を与えられ、二本松城主となっている。


 八月上旬、政宗は米沢に戻ると直ちに、父輝宗の菩提寺ぼだいじ建立こんりゅうに着手した。やがて米沢郊外に完成した菩提寺は覚範寺かくはんじと名付けられ、政宗の生涯の師とも言うべき資福寺の僧虎哉宗乙こさいそういつ開山かいさん(寺の創始者)とした。ここに於いて、政宗はようやく己の心にけじめをつけることが出来たのだった。





 







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