第13話 保春院の涙
天正五年(1577年)三月末、政宗は米沢城
茶室風に
「結構なお点前でした。母上。やはり、母上が立ててくれる茶は格別です」
政宗は思うままに世辞抜きで言った。保春院はホッホ、ホと明るく笑い、袖口で軽く
「政宗殿は
保春院は尚もおかしそうに笑った。このように明るく笑う母を見たのは何年ぶりであろうか、と政宗は思った。
(――やはり、母も小次郎のことをずっと気にかけていたに違いない。それが、田村家に養子入りする形で小次郎の身の振り方が決まった為に、母の心の重荷が取れたのであろう)
そう思うと、政宗の心も軽くなった。芦名の跡目にこだわらず、田村を選んで良かったと思った。芦名氏の家督は三月三日に、常陸の佐竹義重の次男義広が継いでいた。
「そなたと、いつかはこうして二人だけで話をしたいと、母は思って来ました」
保春院は改めて政宗を見つめ、しみじみとした口調で語りかけた。
「なれど、政宗殿は今や伊達家の御大将。戦に次ぐ戦の日々。長く米沢を留守にすることも度々なれば、永らくその願いは
保春院は政宗に向かって頭を下げた。
「母上。礼を申すのは私の方にございます。私とて、いつかは母上とじっくり語り合いたいと願うておりました。しかし、戦にかまけて叶わぬまま……面目ない次第です」
政宗は胸につかえていたものを吐き出すように、今の気持ちを正直に伝えた。保春院は軽く頭を左右に振った。
「この母の至らぬせいで、そなたには随分つらい思いをさせてきました。許してたもれ」
保春院は目を潤ませ、微かに語尾を震わせた。政宗はハッと胸を突かれた。
「何をお言いですか、母上。この政宗、母上のせいで辛い思いなどしたことは一度もございません」
「いいや。この母が小次郎を伊達家の跡取りに推したばかりに、そなたに幾度も災難が降りかかったのじゃ。全てはこの母の愚かさ故の事。重ね重ね悔やまれてならぬ。今は唯こうしてそなたに
保春院は目から涙をあふれさせ、深々と頭を下げた。
保春院の心を今日まで悩ませてきたのは、政宗と小次郎の確執であった。しかも、その原因を作ったのがもとはと言えば自分であると考えると、悩みもその分深かった。
保春院が伊達家の家督後継者に小次郎を積極的に推すようになったきっかけは、政宗の右目失明であった。政宗は
しかし、義姫は政宗を格別に嫌っていたわけでもなければ、憎んでいたわけでもなかった。まして、竺丸を当主にするために政宗を亡き者にしようなどとは、夢にも考えなかった。義姫の脳裏に常にあったのは伊達家の存続であった。その為には、政宗と竺丸、どちらが適格なのか? 義姫の関心はこの一点であった。そして、義姫は義姫なりに伊達家の行く末を考え、次男竺丸を伊達家の次の当主にするのが最善であると判断したのである。二人の子への愛情の
義姫は出羽山形城主
一旦そうと決まれば義姫は果敢に行動した。夫輝宗に自分の考えを述べて
政宗は幼少期に二度暗殺されかかった。一度目は永禄十年(1567年)、政宗元服直後の十一歳の時であった。政宗の寝所に何者かが忍び込み、政宗の首を絞めて殺そうとしたという。(この時、
二度目は永禄十二年(1569年)の冬、政宗が結婚して間もない十三歳の時である。毒殺未遂事件が起きた。仕組んだのは事も有ろうに田村家から
そして、この二つの事件のいづれにも義姫が関与しているとの噂が流れた。その事は義姫の耳にも入ったが、義姫は取り合わなかった。母子の絆の何たるかも知らぬたわけ者の言説であると
他方、政宗はいづれの事件にも母が無関係であることを、当時も今も確信していた。それは政宗にしか分からない二つの理由からであった。一つは政宗の本能的直感である。政宗はそれまで母から邪険な扱いを受けたことは一度もなかった。それは政宗が右眼を失った後も変わることはなかった。以前に比べれば疎遠にはなったが、会えばいつでも慈愛に満ちた態度で接してくれたのである。子供心にも母の愛は確かなものと本能的に確信していたのだった。
唯、不満がないわけではなかった。それは母が時々自分に対して
二つ目は政宗自身の記憶である。政宗は家督継承後にしばしば幼少期の暗い記憶を
十一歳の時、曲者に襲われた一件を思い出してみる。あの時、確かに黒っぽい装束の曲者が自分に襲い掛かってきた。しかし、その時自分の体は
又、十三歳の時の毒殺騒動も自分の未熟さ、心の弱さがもたらしたものかも知れないと思うようになっていた。あの頃、政宗は跡目争いの当事者として常に重圧を感じながら生きていた。自分を心良く思わない一派が存在することも知っていた。そのような状態の時に起きた出来事だった。お膳の吸い物を一口、二口飲んだ直後に突然吐き気に襲われた。
(しまった! 毒を盛られた)
とっさにそう思い、胃の
ところが、政宗はその後も食事中に突然吐き気に襲われたり、胃の腑のあたりがキリキリと痛み出すことがよく有った。その度に毒の有無を丹念に調べさせたが、何も問題はなかった。
「もう、過ぎたことです。母上。それに、母上が宗顕(小次郎)を推したのは、政宗の隻眼を案じての事と承知しております。伊達家の行く末を考えれば無理からぬこと。政宗は恨んではおりませぬ」
政宗は真っすぐに胸の内を伝えた。
「何と情け深いお言葉……心に刻み置きまする」
保春院はそっと涙を拭った。
「母上。伊達家はこれからが正念場です。私はいつ迄も奥羽に止まるつもりは有りません。必ず奥羽を統一し、関東に討って出る所存です。その時は
政宗は己の野望の一端を明らかにし、宗顕にも大いに期待している旨を明かした。
「真ですか? 政宗殿。今の話、小次郎、いや宗顕殿が聞いたらどんなによろこばれることか」
保春院は我が事のように喜び、表情を明るくした。
久しぶりの
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