第13話 保春院の涙

 天正五年(1577年)三月末、政宗は米沢城東館ひがしやかたで久しぶりに母と対面した。先月、弟小次郎の田村家入りを祝ううたげの席で顔を合わせて以来であった。今回は母の方からの誘いで、「京より良い茶が届いたので一服差し上げたい。余人を交えずじっくりと話をしたいが、如何いかがか?」との伝言を、昨日保春院付きの侍女が持ってきたのだった。政宗は二つ返事で申し出を受け、今日の運びとなったのである。

 茶室風にしつらえられた小座敷の片隅で母と子は対坐している。障子越しに春らしい日差しが室内に差し込んでいた。保春院は抹茶を入れた茶碗に優雅な手つきで釜の湯を注ぎ、茶筅ちゃせんで素早く泡を立てた。その茶碗を静かに政宗の前に置いた。政宗は軽く一礼し、作法通り茶碗を回してうまそうに飲み干した。政宗が母の点前てまえで茶を飲むのはこれが二度目であった。前回は二年ほど前で、その時は弟の小次郎と一緒だった。二人並んで、母から茶の湯のたしなみ方などを教えてもらったのだった。その弟は、今事実上の田村家当主として三春にいる。政宗にとっては感慨深いものがあった。

「結構なお点前でした。母上。やはり、母上が立ててくれる茶は格別です」

政宗は思うままに世辞抜きで言った。保春院はホッホ、ホと明るく笑い、袖口で軽く口許くちもとを覆った。

「政宗殿はいくさばかりではなく、口の方も上手になられたと見える」

保春院は尚もおかしそうに笑った。このように明るく笑う母を見たのは何年ぶりであろうか、と政宗は思った。

(――やはり、母も小次郎のことをずっと気にかけていたに違いない。それが、田村家に養子入りする形で小次郎の身の振り方が決まった為に、母の心の重荷が取れたのであろう)

そう思うと、政宗の心も軽くなった。芦名の跡目にこだわらず、田村を選んで良かったと思った。芦名氏の家督は三月三日に、常陸の佐竹義重の次男義広が継いでいた。

「そなたと、いつかはこうして二人だけで話をしたいと、母は思って来ました」

保春院は改めて政宗を見つめ、しみじみとした口調で語りかけた。

「なれど、政宗殿は今や伊達家の御大将。戦に次ぐ戦の日々。長く米沢を留守にすることも度々なれば、永らくその願いはかないませんでしたが、今こうしてよい機会を得ることが出来ました。御礼を申します」

保春院は政宗に向かって頭を下げた。

「母上。礼を申すのは私の方にございます。私とて、いつかは母上とじっくり語り合いたいと願うておりました。しかし、戦にかまけて叶わぬまま……面目ない次第です」

政宗は胸につかえていたものを吐き出すように、今の気持ちを正直に伝えた。保春院は軽く頭を左右に振った。

「この母の至らぬせいで、そなたには随分つらい思いをさせてきました。許してたもれ」

保春院は目を潤ませ、微かに語尾を震わせた。政宗はハッと胸を突かれた。

「何をお言いですか、母上。この政宗、母上のせいで辛い思いなどしたことは一度もございません」

「いいや。この母が小次郎を伊達家の跡取りに推したばかりに、そなたに幾度も災難が降りかかったのじゃ。全てはこの母の愚かさ故の事。重ね重ね悔やまれてならぬ。今は唯こうしてそなたにびるだけじゃ」

保春院は目から涙をあふれさせ、深々と頭を下げた。

 保春院の心を今日まで悩ませてきたのは、政宗と小次郎の確執であった。しかも、その原因を作ったのがもとはと言えば自分であると考えると、悩みもその分深かった。

 

 保春院が伊達家の家督後継者に小次郎を積極的に推すようになったきっかけは、政宗の右目失明であった。政宗は梵天丸ぼんてんまると呼ばれていた五歳の時に疱瘡ほうそう(天然痘)にかかり、それがもとで右目を失明した。丁度その頃に生まれたのが次男の竺丸じくまる(小次郎)であった。保春院がまだ義姫と呼ばれていた頃のことである。そして、この頃にどうした訳か、政宗の失明した右目の眼球が飛び出し始めたのである。後に守役もりやくの片倉景綱が、政宗に懇願されて小刀しょうとうでえぐり取るまで、醜い容貌のままであった。このような状況に直面した義姫(保春院)は、真剣に伊達家の跡目問題を考えるようになり、急速に竺丸擁立へと舵を切るのである。義姫は、夫である伊達輝宗があくまでも政宗を次の当主にと考えていることを知りながら、「奥州探題の要職は、五体満足な竺丸でなければ務まるまい」などと広言してはばからなかった。当然、義姫と政宗の間は疎遠そえんになっていった。又、伊達家中においても、政宗が隻眼せきがんであることを以て、当主としての能力に疑問を挟む者も現れていた。彼らの多くは、伊達家の次の当主は政宗よりも竺丸(小次郎)の方が相応ふさわしいと考えていた。そのような勢力にとって、義姫は力強い味方であった。両者が接近し、手を組むのは自然な流れというものである。こうして、伊達家中に竺丸派と呼ばれる一つの勢力が誕生したのだった。

 

 しかし、義姫は政宗を格別に嫌っていたわけでもなければ、憎んでいたわけでもなかった。まして、竺丸を当主にするために政宗を亡き者にしようなどとは、夢にも考えなかった。義姫の脳裏に常にあったのは伊達家の存続であった。その為には、政宗と竺丸、どちらが適格なのか? 義姫の関心はこの一点であった。そして、義姫は義姫なりに伊達家の行く末を考え、次男竺丸を伊達家の次の当主にするのが最善であると判断したのである。二人の子への愛情の多寡たかで決めた訳ではなかった。

 

 義姫は出羽山形城主最上義守もがみよしもりの娘として生まれ、十七歳の時に隣国の伊達輝宗のもとに嫁いだ。幼少の頃から、父義守や兄義光よしあきの戦国武将としての生きざまを間近に見て育った。それだけに、戦国の世を生き抜く厳しさを知っている。たとえ五体満足な武将であっても、ひとたび戦場に立てば、ほんのわずかな過ちが命取りになるのである。まして、隻眼の者が戦場で敵と相まみえればどうなるか? そう考えた時、義姫は政宗に伊達家の家督を背負わせるのは酷であり、あえて行えば伊達家の滅亡にもつながりかねないと危惧きぐしたのだった。ここはやはり、身体に欠陥けっかんもなく、賢さも政宗にそう劣ってはいない竺丸が適当であると考えたのであった。   

 一旦そうと決まれば義姫は果敢に行動した。夫輝宗に自分の考えを述べてひるむことはなかった。又、家臣達にも機会あるごとに、次の当主に相応しいのは竺丸であると説いた。このような義姫の男勝りの行動が、後々の政宗暗殺未遂事件において、義姫黒幕説を誘発したのかも知れない。

 

 政宗は幼少期に二度暗殺されかかった。一度目は永禄十年(1567年)、政宗元服直後の十一歳の時であった。政宗の寝所に何者かが忍び込み、政宗の首を絞めて殺そうとしたという。(この時、曲者くせものを取り逃がしている)

二度目は永禄十二年(1569年)の冬、政宗が結婚して間もない十三歳の時である。毒殺未遂事件が起きた。仕組んだのは事も有ろうに田村家から愛姫めごひめに随行してきた乳母うばと侍女らであるという。にわかには信じがたい話である。この時政宗は首謀者と見なした乳母を自ら手討ちにしている。大勢の侍女たちも死罪に処された。

そして、この二つの事件のいづれにも義姫が関与しているとの噂が流れた。その事は義姫の耳にも入ったが、義姫は取り合わなかった。母子の絆の何たるかも知らぬたわけ者の言説であると一蹴いっしゅうした。


 他方、政宗はいづれの事件にも母が無関係であることを、当時も今も確信していた。それは政宗にしか分からない二つの理由からであった。一つは政宗の本能的直感である。政宗はそれまで母から邪険な扱いを受けたことは一度もなかった。それは政宗が右眼を失った後も変わることはなかった。以前に比べれば疎遠にはなったが、会えばいつでも慈愛に満ちた態度で接してくれたのである。子供心にも母の愛は確かなものと本能的に確信していたのだった。

 唯、不満がないわけではなかった。それは母が時々自分に対して憐憫れんびんの情を示す時だった。「ただでさえ危険な戦場いくさばに、そなたのような隻眼の武者がおもむくかと思えば、不憫ふびんでならぬ」などと哀れむのだった。この時ばかりは、自分の能力を否定されたように感じて悲しかった。しかし、これも自分の身を案じていてくれるからこそと政宗なりに納得していたのだった。したがって、政宗はこの母が自分に危害を加えることなど絶対に有り得ないと、本能的に知っていたのだった。

 二つ目は政宗自身の記憶である。政宗は家督継承後にしばしば幼少期の暗い記憶をよみがえらせた。夜中に不意に思い出しては自責の念に駆られることもしばしばだった。そもそも、暗殺の企てなど本当にあったのだろうか? あれは単なる自分の思い過ごしではなかったのか? 

 十一歳の時、曲者に襲われた一件を思い出してみる。あの時、確かに黒っぽい装束の曲者が自分に襲い掛かってきた。しかし、その時自分の体は金縛かなしばりにあい、ピクリとも動けぬままだった。必死にもがいているうちに金縛りが解けたので、大声で警護の者を呼び、賊に襲われたことを告げたのだった。しかし、あれは単に自分が寝ぼけていただけだったのではないのか? 年を追うごとに、その疑念を強くしていった。

 又、十三歳の時の毒殺騒動も自分の未熟さ、心の弱さがもたらしたものかも知れないと思うようになっていた。あの頃、政宗は跡目争いの当事者として常に重圧を感じながら生きていた。自分を心良く思わない一派が存在することも知っていた。そのような状態の時に起きた出来事だった。お膳の吸い物を一口、二口飲んだ直後に突然吐き気に襲われた。

(しまった! 毒を盛られた)

とっさにそう思い、胃のの中身をすべて吐き出した。命を狙われたことに狼狽した政宗は冷静さを失っていた。政宗は料理にかかわった愛姫の侍女達の仕業しわざと思い込み、首謀者と見なした乳母をその場で手討ちにした。多くの侍女たちも死罪に処した。

 ところが、政宗はその後も食事中に突然吐き気に襲われたり、胃の腑のあたりがキリキリと痛み出すことがよく有った。その度に毒の有無を丹念に調べさせたが、何も問題はなかった。ちなみに、家督相続後は食事中に吐き気や腹部に痛みを感じるという事は無くなっていた。してみると、あの時、吸い物の中に本当に毒など入っていたのであろうか? 自分の未熟さが有りもしない敵を作り出し、その幻影に怯えて自ら醜態しゅうたいさらしてしまったのではないのか? 政宗のこうした疑問は年々深まり、家督を相続した頃には自らが過ちを犯したことを確信したのだった。夜中に曲者に襲われた件も、毒殺されそうになった件も全ては己の未熟さ、弱き心が作り出した幻影であった。襲撃も毒殺未遂も実際はなかったのだ。事件そのものがなかった以上、義姫が無関係であるのは当然であった。


「もう、過ぎたことです。母上。それに、母上が宗顕(小次郎)を推したのは、政宗の隻眼を案じての事と承知しております。伊達家の行く末を考えれば無理からぬこと。政宗は恨んではおりませぬ」

政宗は真っすぐに胸の内を伝えた。

「何と情け深いお言葉……心に刻み置きまする」

保春院はそっと涙を拭った。

「母上。伊達家はこれからが正念場です。私はいつ迄も奥羽に止まるつもりは有りません。必ず奥羽を統一し、関東に討って出る所存です。その時はむねあきにも大いに働いてもらいまする。そのつもりで、田村に入ってもらったのですよ」

政宗は己の野望の一端を明らかにし、宗顕にも大いに期待している旨を明かした。

「真ですか? 政宗殿。今の話、小次郎、いや宗顕殿が聞いたらどんなによろこばれることか」

保春院は我が事のように喜び、表情を明るくした。

久しぶりの母子おやこの対面は、互いに残っていた多少のわだかまりを完全に拭い去っていた。その後も途切れることなく続いた会話は二人の間の大小さまざまな誤解を取り除いていった。やがて昼食ちゅうじきの膳が運ばれ、母子おやこ水入らずの食事となったのだった。

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