終幕 夜明け

夜明け①

「──さあ。これでいい」

 さらしで作った胸帯を巻き終え、野火は患者の男にそう声をかけた。

「傷の手当は、これで終わりですよ。弦ヶ丘での山菜取りは、しばらくはやめたほうがいい。また一角狼の縄張りに踏み込んで、彼らを驚かせてしまうから」

「私を追ってきた一角狼はどうなりました? まさか、町に……」

「大丈夫。八十瀬衆やそせしゅうが追い返してくれましたよ」

「よかった……すみません。先生にも、ご迷惑をおかけしたようで……」

「先生? いや、俺は単なる手伝いで」

 「手当をしたのは栗花落つゆりさんですから」と、たらいで手を洗う彼女を振り返る。それでも血を失ってふらつく男は、覚束ない視線で野火を捉えては、力なく微笑んで見せてくれた。

「でも……式をかけてくれたのは、先生でしょう? やあ、とは、すごいのですね。大怪我したのに、少しも痛みを感じないなんて」

 きれいに巻かれた胸のさらしと、足の添え木に視線を流し、男は感嘆の息を漏らした。

 初夏。新緑に燃える弦ヶ丘に、この初老の男は山菜を求めて、深く足を踏み入れた。そこで迂闊にも一角狼に出くわして、命からがら逃げてきたのだ。爪に抉られ胸が裂け、険路けんろを踏み外した足は、ぽきりと折れてしまっている。

「さあ、これからが大変よ。式が解けたら、痛みが戻ってきますからね。もう少し長く効くようにしておくから、ゆっくり休むといいわ」

 手ぬぐいで濡れた手を拭きながら、栗花落がそばに戻ってくる。男を布団に横たえさせ、上掛けを肩まで引き上げると、野火に頷いて合図をした。

 男の額に、手を翳す。そこに刻まれている、角印と楔印を重ねたようなに向かい、意識の波紋を広げていく。

 心を交える心式よりも、少し深く。しかし心を蝕む伏式よりも、幾分浅く。──心のひだの細部にまで、沁み込むようにと念じながら。

「楽になります……ありがとう、先生方」

 男は目蓋を閉じ、しばらくすると、穏やかな寝息をたてはじめる。その安らかな寝顔を見届けてから、野火は詰めていた息を、ふうと長く吐き出した。

「……うん、もうよさそうね。お疲れさま、野火君。お昼にしましょうか」

 そう言って栗花落が立ち上がり、ひっつめていた髪をほどいたときである。

「栗花落、野火。入るぞ」

 言うが早いか返事も待たず、磊落らいらくが治療場へと、足音も荒く踏み込んできたのだ。栗花落が「静かにして」と眉を顰めると、ばつが悪そうに声を落とした。

「すまん、つい。……例の怪我人の様子は?」

「心配ないわ、今眠ったところよ」

「それはよかった。……しかし、これでまた八十瀬衆が大きな顔をするのう」

 苦虫を噛み潰したような顔で磊落が言えば、「仕方がないわよ」と栗花落が首を竦めた。

「一角狼と私たちの溝は深いもの。好む好まないとに関わらず、太白たいはくの人を守ってくれる八十瀬衆には、そこだけは感謝しないといけないわ」

「まあ。それは、そうだが、」

「あの……先生。急いでいたようですが、どうしてここへ?」

 釈然としない様子の磊落にそう問えば、はっと思い出したように、懐から一通の封書を取り出した。

「今さっき、都から野火宛てのふみが届いてな」

「都から、俺宛てに?」

秋霖しゅうりんからだ」

 怪訝に思いながらも、封を開き、中身に目を通す。次第に眉間の皺を深めていく野火に、内容が気になったのか、磊落と栗花落が背後から覗き込んできた。

「秋霖は、いったいなんだと?」

「……姫君が、都からいなくなったそうです。同時に、ささめも姿を消したらしい」

れいちゃんと細が? どうして」

「わかりません。ただこれには……姫君が都のほかに頼れるところは、太白だけだろうとあります。こちらに向かって来ているのかもしれません」

「細を駆ってくるのなら、飛脚より早く着いていてもおかしくないのに……そんな気配、ちっともないわ。黎ちゃんの姿、おじいちゃんは見かけなかった?」

 栗花落は心配そうに磊落を見るが、しかし磊落も同じような顔で首を振った。

「儂も見ておらん。しかし屋敷はもう八十瀬一色になっておるから、門前で諦めて帰ったのかもしれん。それか──」

 ああでもない、こうでもないと言葉を交わすふたりを背に、野火は顔を上げた。畳んだ文を栗花落に手渡すと、治療場の戸に手をかける。

「どこに行くの?」

 背に、栗花落が声をかけてくる。白い薄暑光はくしょこうの中へと足を踏み出した野火は、振り返ってこう言った。

「屋敷に来ないのなら、……ほかに一か所だけ、あの子が行く場所の心当たりがあります」


──それは、太白。玉響狼舎たまゆらろうしゃの一角の、治療場と化した離れでのことだった。

 接収が完了した玉響狼舎は、八十瀬衆の新たな屯所となった。狼舎の増築と繁殖場の建設は、滞りなく進められている。上棟式じょうとうしきを迎え、伏士ふせしがそろえば、いずれは伏式ふせしきによる交配が、予定通りに行われるのであろう。

 玉響一門のふたりの生活も、変わらざるを得なくなった。栗花落はながれの治療班に籍を置き、八十瀬衆やそれにまつわる怪我人を診て回った。磊落は若手の八十瀬衆の武術師範として、稽古に精を出す日々である。

 押し寄せる大波に飲み込まれるが如く、時代という奔流に押し流され、彼らの声はかき消された。それは秋霖派の者らからすれば、すべてが秋霖の思惑通りに、進んでいるように見えるのだろう。

 けれども、ひとつだけ。

 あの晩秋のできごとで、大きな流れを逸れた、細い支流が生まれたのだ。


「やっぱり、ここにいたか」

 半年前。野火は狼女の噂を追って、枯れ葉の敷き詰められた、死出の道を歩いた。それが今では、燃える若葉は光を透かして輝いて、芽吹いた命を謳っている。青々しい緑の香り。無数に舞う虫の群れ。芳しさを増す風が、うっすら汗ばむ身体を包む。

 そうして辿り着いた玻璃川はりがわの源流のほとりに、彼女はひとり、膝を抱えて座っていた。

黎里れいり

 呼べば、眺めていた翡翠の滝壺から目を離し、野火のほうを振り向いた。

「野火? どうして、ここが」

「秋霖から、君が都から消えたと文が届いた。太白に行くだろうとあったけど、屋敷には訪ねてこなかったから。ここにいるんじゃないかと思ったんだ」

「……そっか。叔父様も、野火も、なんでもお見通しだなあ」

 そう言って苦笑すると、黎里は再び口を閉ざし、滝壺を見るともなく眺めていた。あでやかな色糸を織り込んだ豪奢な着物は、泥に汚れて黒ずんでいる。長い髪は結いもせず、風に流されるがままだ。

 野火は黎里の隣に腰を下ろし、同じように滝壺を眺めた。銀糸の滝がしぶく巌の上に、細の白い尾と、しんの灰褐色の尾が見える。どうやら愛しのつがいと再会し、仲睦まじく過ごしているようだ。

「夏の初めは、毎年少し、寂しくなる」

 聞き逃してしまいそうなほど微かな声で、黎里がぽつりと呟いた。

「母様が死んでしまった季節だから」

「そうか……縁切りが起きたのは、初夏だったもんな。もう、七年も前になるのか」

「うん。私の……七つの誕生日に。母様の命日には、どうしてもこの山に来たかったんだ」

 野火に身体を寄せ、甘えるように凭れ掛かる。昔のような獣のにおいではなく、甘い香油がふわりと香った。伏し目がちの表情は憂いを帯び、半年前の彼女よりも、ずいぶん大人びたように見える。

「……都では、みんな私のことを、亡霊を見るような目で見てくる。それなのに、九霄きゅうしょう派だっていうひとたちは、気味の悪いおべっかを使ってくるんだ。笑えるよ。いい大人が、十四になったばかりの、出来の悪い姫にだぞ? ……叔父様と王位を争う気なんて、ちっともありはしないのに」

 母はなく、父は病。後見人になったとはいえ、諍いのあった叔父は頼れない。ため込んでいた思いを吐露する黎里は、自身を取り巻く思惑の渦に、疲れ戸惑っているようであった。

 おそらく、秋霖派の台頭で失脚した九霄きゅうしょう派の者たちが、蘇った姫君におもねり始めたのだ。いずれ姫君こそが正当な王位継承勝者なのだと担ぎ上げ、昔の地位を取り戻さんとしているのであろう。

 秋霖であれば、十分に予想し得たことである。それでも彼は野火との取引に応じ、肉片を姫君と認定したのは誤りであったとして、奇跡の生還を遂げたのだと公に知らしめたのだ。

 その見返りとして、炎に巻かれた座敷牢で、秋霖に差し出したものがある。懐の内側にあるそれを、野火は衣の上から触れた。

「なあ、手伝ってほしいことがあるんだが」

 そう言って野火は立ち上がると、黎里に手を差し伸べた。

「今朝方、太白の人間が弦ヶ丘に踏み入って、一角狼と八十瀬衆の間でひと悶着あってね。お互い怪我をしてしまったんだ。俺はこれから、その一角狼を探しに行こうと思っているんだが、……君も一緒に来てくれないか?」

「……私も?」

「ああ。君に、見せたいものがあるんだ」

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