三 呼応

 一角狼が牽く荷車に押し込まれ、もう幾日過ぎたのだろうか。

 唾液のしみ込んだ猿轡が不快だった。手足を縛る縄が食い込み、薄皮が剥けてひりひりする。絶えず揺れる荷車に酔いながら、目隠し越しに感じた朝日の数を数えていた。

 ひい、ふう、みい、よう──心の中で数えるうちに、荷車の動きがとまった。蝶番が軋む音がしたあとに、再び荷車が動き出す。背後から閉塞感のある重い音が追ってきたので、どうやらどこかの屋敷の門をくぐったようであった。

 再び荷車がとまったあと、乱暴に担ぎ上げられた。ここはどこだと問いただしたくても、呻き声が漏れるばかりで言葉にならない。しかしある一室にたどり着くと、不自由な拘束は唐突に解かれることになった。

 目隠しと猿轡を外されると、まず昼日中の眩さに目を眇めた。目が慣れてくると、その部屋の異様さに背に冷たいものが走った。

「なに、ここ──」

 そこは、がらんとした四畳半ほどの座敷であった。庭の向こうに大きな屋敷が見えることから、ここが離れの一室であることがわかる。異様なのは、その景色が格子で隔たれているということだ。外界と繋がるすべての出入り口には、牢屋のような格子が設えられている。

 逆印に強く背を押され、宵越よいごしは勢い余って膝をついた。「なにをする」と振り返った直後、目の前でがちゃりと錠前がかけられる。

「な……開けろ!」

 格子を掴んで揺すってみるも、錠前はびくともしない。宵越を担いできた逆印は、振り返りもせずに土間に下り、玄関扉をぴしゃりと閉めた。

「ここはどこなんだ! なあ、聞こえているんだろう!」

さえずるな。あの男にはなにも聞こえんよ」

 よく知る声に、はっとして中庭の方を振り返る。躓きながらも、慌てて庭側の格子に駆け寄った。先ほどの逆印を従えた秋霖しゅうりんが、格子のそばに立っていたのだ。

「叔父様! なんなのここ、どういうことなの!」

 「北方御所、私の別宅だ」と、背後の屋敷を顎でしゃくりながら、秋霖がさらりとそう言った。

「いくら喚こうが母屋に声は届かぬし、お前を助ける者はここにはおらん。例の従針じゅうしんの回収が済むまで、お前はここに幽閉する」

「回収? 従針は……や、山に、捨てたって言ったでしょう!」

「そんな適当な嘘を信じると思うか? あの三人を捕らえてなお楔が出てこないなら、信じてやっても構わないが」

「そんな、そんなの──っ、」

 言葉が続かなかった。叔父の推察通り、従針は野火が持っているのだ。

 膝の力が入らずに、ずるずると格子に縋りながら、その場に座り込んでしまった。陽光が燦燦と降り注いでいるはずなのに、目の前が徐々に暗くなる。

「……わからないよ、叔父様」

 暗い視界が、じわりと歪んだ。

「どうして私と母様がいたら、叔父様は王になれないの? どうして──、母様を死に追いやった従針を、母様の生家のみぎり一門が作っているの……!」

 自分には、何もかもがわからない。自分の知らないところで、自分たち家族の死を願う者がいる。姿の見えない恐怖感に、喉が締め付けられるようだ。

「……哀れな姪よ」

 秋霖はひとつ溜息を吐き、宵越の視線に合わせるように膝をついた。

「幼いお前にはわかりようもないだろうが、この国には天地大綱てんちたいこうというつまらぬ掟がある。そのせいで、小胆で脆弱な兄上が王位に就き、満足に勤めをこなすこともできず、対帝国に後れを取った。結果、……多くの兵が、死んでいった」

 言葉を紡ぐうちに、秋霖の眉間には深い皺が刻まれていく。

「兄春霖しゅんりんに、王の資格はあらず。そう言って弟の私を王に据えようとする一派が、みぎりの中にも生まれ始めたのだ。しかし──『王たるものは御霊を交わし、久遠の縁を結わうべし』という天地大綱の一説が、それを阻んだ。ならば、心式が使える王位に近しい者さえいなくなれば──」

 その先の言葉に、もう耳を塞いでしまいたかった。

「王弟である私に、ようやくその機会が巡ってくる。従針は、そんな国の行く末を憂うみぎりの術者が生み出した、救世のすべだ」

 項垂れる宵越の頭をぐしゃりと撫で、秋霖が立ち上がった。

「最期の時まで、不自由がないよう手配はする。……ここから出られは、しないがな」

「ま……待って!」

 宵越は格子の隙間から手を伸ばし、秋霖の衣の裾を掴んで引き留めた。

「父様は、父様はどうしているの? 心を壊したって聞いたんだけど、それって──」

 最後まで、言葉を発せられなかった。振り返った秋霖の、憤怒を宿した瞳に射竦められたのだ。

「兄上は……、箱庭に飾った人形に妃とお前の名を付けては、ままごとを繰り返しているよ」

 衣から宵越の手を引きはがし、腹の底で滾る怒りの熱を、溜息とともに吐き出した。

「己の失政のせいで、戦で家族を失った民が、ごまんといるというのに……己の心痛にしか、目を向けることができないとはな。……最早、殺す価値もない。あのまま生き恥を晒すといい」

 そう言い捨て、秋霖は見張りの逆印の男を残し、母屋の方へと去っていく。

「待ってよ、まだ聞きたいことがたくさんあるんだ──叔父様ってば!」

 格子を叩き、喉を擦り切らすほど声を上げても、秋霖は振り向きもしなかった。格子の向こうで輝くうららかな陽の光が、ひどく遠いものに感じられる。

「父様……」

 山に籠っている間、父のことが気がかりだった。無事でいるのか、自分を探してくれているのか。しかしそのどちらでもなかったことが、宵越の心を大きく挫く。

「おじいちゃん、栗花落つゆり、──野火。ごめん。……ごめんなさい」

 自分が関わったことで、取り返しのつかない迷惑をかけてしまった。

 格子に縋りながら俯いていると、ぼろぼろと涙がこぼれ出た。栗花落が着付けてくれた着物の裾に、涙の染みが幾つも散る。

 自分は、愚かだったのだろうか。山の獣の姿を捨て、人として自らの罪を顧みて、叔父と和解を望むことなど、夢物語だったのだろうか。

「私……これから、どうすればいいの?」

 溢れる涙で、視界が歪む。いつも問いに答えてくれた存在は、今はもう隣にいない。迷惑をかけたくない一心で、この手で突き放してきたのだ。なのに──もう一度、あの腕に、胸に、縋りたくなってしまう自分がいる。そんな資格など、ありはしないというのに。

 それでも。

「お願い。……教えて、野火」

 名を呼ばずには、いられなかったのだ。


     *


「よし。これで、いいはずだ」

 一点を凝視し続け、疲れた目元を抑えながら、磊落がふうと息をついた。新たな式を刻んだ小さな楔を、野火の掌へと乗せる。まじまじと観察してみるも、野火にはそれが、以前となんら変わりないように見えた。

「これでもうこの楔には、例の式が刻まれたのですか?」

「ああ。間違いなく、王妃殿下の遺した式を刻んだぞ。これで宵越の……、否、多くの命が救えるようになるかもしれない」

 「かもしれない、じゃないわ」と、部屋に散らばる槌やのみ、磊落が慌てて溢した朱墨の壺を片付けながら、栗花落が自信に満ちた声で言った。

「この式が広く知られるようになれば、六合は大きく進歩する。秋霖様だって、きっとこの価値をわかってくださるはずよ」

 楔を乗せた野火の手に、栗花落が手を添えた。願いを、希望を、託すように、そっとその手に力を込める。

「ねえ、野火君……お願いよ。宵ちゃんを、きっと助けてあげてね」

 栗花落の細い指が、ほんの少し、震えていて。

「大丈夫ですよ。必ず、一緒に帰ってきますから」

 安心させるように、野火は落ち着いた声色でそう告げた。

──それは、太白。玉響狼舎たまゆらろうしゃの、磊落らいらくの書斎でのことだった。

 天狼一行を引き連れてきた野火は、滝の洞で待っていたふたりを拾い、急ぎ山を駆けおりた。屋敷はすでに八十瀬衆に占拠されていたが、構わず一角狼を雪崩れ込ませると、男たちは慌てて応戦の動きを見せた。

 しかしある者は鼻先で突き上げられ、またある者は咥えて宙に放り投げられ、屋敷の塀の向こう側へと、手足をばたつかせて落ちていく。虚を突かれた男たちを蹴散らしながら、つるぎを携えた狼の波は、瞬く間に屋敷を奪還したのだ。

 そうして静けさを取り戻した書斎に籠り、磊落と栗花落があの小さな従針へと、亡き小鳥遊たかなし王妃の遺した式を刻み入れたのである。

(……俺だけでは、こうはいかなかったな)

 野火は懐に仕舞っている、白い錦の袋に触れた。

 今はひとり、天狼の群れの先頭で、しんの背に揺られている。山籠もりに疲労を見せた磊落と栗花落は、あわしずりまだらを護衛に、屋敷へと残してきたのだ。白昼堂々町を駆け抜け、屋根瓦を踏み砕くたびに、足元から人々の悲鳴が沸いた。

 獣たちの中、人間は自分ひとりだけ。けれどもそれは、けして孤独な行軍ではなかった。栗花落の叱咤、磊落の知恵。ささめと新の信頼が、風を切るようにして走る、野火の胸の内に在る。

(よくもまあ、ひとりで宵越を守ろうとなんて考えたもんだ。ほんとうに……どこまでも傲慢だな、俺は)

 宵越に出会い、自分でも知らぬうちに、あの真っ直ぐな立ち姿に導かれていた。死を望み、昏い足元ばかりを見ていた自分が、顔を上げて歩いていた。

 それでも結局、野風を喪ったあの日から、自分はなにも変わってなどいなかった。宵越が去り、栗花落に叩かれてようやく、そのことに気づかされたのだ。

──私だって、兄さんを守りたい。

──私も野火のこと、すごく大事だ。だから……私も、お前を守りたい。

 自分の力を過信して。失うことの恐怖に囚われて。

 自分を大事に思ってくれたひとの心に、思いを馳せてなどいなかった。

(馬鹿だな。いまさら気がつくなんて。ごめん、野風。……宵越)

 自分の心ばかりを見つめるのは、──もう、たくさんだ。

 新の鬣を掴む手が、熱を帯びる。太白の町並みの中に、屯所の屋根が見えてきたのだ。

「皆、あそこへ」

 心式を展開する。細と六出むつでの動きに倣い、新が屯所の屋根へ飛び移ろうと、後ろ脚に力を込めた。足場にした屋根瓦が砕け、道に落ち、また悲鳴が沸き上がる。敵の接近に気づいた屯所の中から、矢の雨が放たれる。

 それをものともせず、野火が導く一角狼らは、屯所の屋根へと飛び移った。


 玉響狼舎のときと同じく、野火が率いる天狼一行は、瞬く間に屯所を占拠した。地に伏せる者、物陰に隠れる者。そのほとんどが早々に得物を投げ出して、戦う意思を放棄した。

 しかしその中で、ひと際敵意を放ってくる男がいた。

 迅汰じんたである。

「死にさらせ、この裏切り者が!」

 そう威勢よく刀を振りかざしては来たものの、しかし細が前足で弾き返し、あっという間に踏みつけ抑えた。それにも臆さず、迅汰は「大嘘吐きめ、詐欺野郎め」と喚いては、顔を真っ赤にして細の足を殴りつけてくるのである。仕方なしに野火が刀を喉元に付きつけると、迅汰はようやく、暴れることをやめたのだった。

「狼女とぐるだったんだな、この狼男め」

「秋霖はここにいないのか? どこだ。答えてくれれば開放する。一角狼たちも、なにもしない」

「なにもしない? そんなの、信じられるもんか!」

 瞳だけをぐるりと巡らせ、迅汰は自分を取り囲む一角狼たちを見上げて叫んだ。

「そら、一思いにやりやがれ! 狼男なんぞに、命乞いなんてしねえからな!」

 興奮状態の迅汰には、野火の言うこと為すことすべてが、神経を逆なでてしまうようだった。話を聞く耳など持たず、自棄ばかりを声高に叫び始めてしまう。

 脅すのは逆効果。そう悟った野火は刀を収め、細に合図して迅汰を解放した。包囲だけは解かぬまま、腰を落として同じ目線で語りかける。

「頼む、迅汰殿。秋霖がどこにいるのか教えてくれ」

「いやだね。教えたら、てめえは秋霖様を襲うんだろう」

 威勢のいい喋り口だが、しかし足はがたがたと震えてしまっている。生まれ育った村が一角狼の襲撃を受け、壊滅してしまったという過去が迅汰にはあるのだ。親の仇。友の仇。それらがずらりと並んで見下ろしてくる様が、恐ろしくて仕方がないのだろう。

「絶対だ。俺になにをしても、秋霖様の居場所は絶対吐かねえからな!」

 なけなしの勇気を振り絞り、迅汰は大声で吠えたてる。頑なな抵抗に、野火は内心焦れていた。こうしている間にも、宵越になにかあったなら──不安に駆られ、無意識に刀の柄を握りしめてしまう。

「手荒なことは、したくないんだ」

「刀握ってなにを言いやがるか」

「狼女には、狼女にならねばならなかった理由がある」

「うるせえ、あいつが八十瀬やそせのダチを殺したことに変わりはねえ。言い訳なんざまっぴらごめんだ!」

「あの子は罪の重さを自覚している。狼女じゃない。人として話し合うために、秋霖のもとに行ったんだ。頼む。あの子を、助けてやりたい」

「助けたい? ──はっ! そりゃあ無理な話だな!」

 意地悪くにやりと笑い、迅汰は野火の胸倉を掴んだ。

「狼女は、死んだ」

 言葉を区切り、強調し、野火の心を抉ってやろうと意気込んで。

「死んだんだよ。ざまぁねえな!」

 そう言い捨てたのである。


 六合菊りくごうぎくをあしらったかんざしが、陽の光を鋭く跳ね返していた。

 人っ子ひとり歩いていない、町を貫く目抜き通り。ひしめく一角狼の先頭に立つ野火の目元に、白い照り返しが煌めいている。

「『誅殺、狼女』──」

 立札に記された説明を、野火はぽつりと読み上げる。

 晒し台の上に置かれた首は、男か女かも判別できないほど痛めつけられていた。しかし乱れた黒髪に飾られた、物言わぬ簪が語りかけてくるのである。

 この首は、『私』だと。

 この簪を『私』が身に付けていたのを、よく知っているでしょう、と。

「銀の六合菊……栗花落さんの、簪」

 この簪を、宵越は気に入っていたのだ。屋敷でも、狼舎でも、町でも、屯所でも。挿し飾ってもらってからずっと、彼女の豊かな黒髪に、天のしずくのような銀の光を落としていたのに。

 今はただ、惨憺たる顔貌を皮肉に彩っている。

 立ち尽くす野火の隣で、細が晒し台に鼻を寄せた。知ったにおいと混ざる死臭に戸惑うように、細かく鼻をひくつかせている。その鼻先が菊の透かし彫りを掠めると、簪は髪からすべり落ち、晒し台を跳ね、カランと地面に転がった。

「宵越──」

 簪を拾い上げながら、野火は小さく、名を呼んだ。

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