四 取引①

 秋霖しゅうりんが立ち去ったあと、宵越よいごしはひとり、座敷牢に残された。

 錠前付きの出口のそばに、寝具一式と替えの衣が置かれている。その隣には水差しと、火の灯されていない行灯あんどんが。そして部屋の隅を仕切る衝立の向こうには、真新しい便壺が用意されていた。

 もの寂しい、狭い部屋。ぐるりと見まわし、血の気が引いた。あの恐ろしい叔父は、これからここで、最期の時を過ごせという。あの優しい三人を捕まえて、小さな従針じゅうしんを回収するまで、指を咥えて待てという。

 そうして回収し終えたのち、縁切りの秘密を知ったあの三人を、叔父は、きっと──

「いやだ……諦めるもんか!」

 溢れた涙をぐいと拭い、宵越は庭側の格子を鷲掴んだ。

「ねえ、開けてよ!」

 もう一度、外に向かって声を上げた。

「ここから出して! 叔父様と話をさせて!」

 秋霖が見張りとして残していった、逆印に向かってそう叫ぶ。何度も何度も叫ぶうちに、次第に声は嗄れ、喉がひりついた。しかしどれだけ大声を上げようと、──男は少しも、動かなかった。


 囚われたその日から、秋霖が牢を訪れることはなかった。日に三度の食事が運ばれて、夜にはたらいに張った湯と、着替えの衣が届けられる。日が昇れば見張りが障子を開いて光を入れ、日が暮れれば閉じられた。

 確かに秋霖の言った通り、牢から出られないということ以外、不自由することはなにもなかった。しかしそれは、いつ来るかも知れない最期の時を、ただ待つだけの日々である。時間ばかりが無為に過ぎ去るが、心をませるわけにはいかなかった。

 ここから逃げなくてはならない。叔父との和解が難しいのなら、せめて野火から従針を返してもらい、自分をいう足枷を取り払ってやりたかった。

 見張りの交代は何度あるのか。自分の世話のために、何度この牢の扉が開くのか。どんな些細なことでも覚えておこうと、逆印の動きをくまなく観察し続けた。

 そうしてようやく、三日目の夕餉のあと、宵越は行動を起こした。

「ごちそうさま」

 米粒一つ残さずたいらげ、そう呟いて箸を置く。立ち上がる直前に、酢の物が乗っていた小皿を一枚、さり気なくたもとに忍ばせた。

「ねえ、食べ終わったよ」

 素知らぬ顔で扉をコツコツと叩き、見張りの逆印に合図をする。するとすぐに開錠され、ふたりの男が入って来た。この三日間、彼らは決まった動きしかしなかった。ひとりが宵越をそばで見張り、もうひとりが下げ膳のために、牢の奥へと進むのだ。

 今日もこれまでと同じように、男が下げ膳をしようと、背を向けて身を屈めたとき──宵越は素早く袂に隠した小皿を取り出し、背後の格子へと叩きつけた。

 パリンと、硬い音が響いた。そばに立っていた男の手を避け、臨戦態勢の獣が如く、畳に低く身を屈める。半月に割れた欠片を握り、そばに立つ男の足首を斬りつける。腱が裂ける、鈍い手ごたえ。自分の手にも尖った割れ目が食い込むが、歯を食いしばって痛みに耐えた。

 あとひとり。下げ膳をしていた男が振り返る。伸びてきた手に思い切り噛みついて、怯んだ隙に距離を詰める。そうしてするりと背後に回り、すれ違いざまに男の膝裏へと、皿の欠片を突き刺した。

 動きの鈍った男らを背に、宵越は牢を飛び出した。しかし土間に下り、玄関扉に手をかけた、まさにそのとき。

 甲高い呼子笛が、無情にも鳴り響いたのである。

 振り返れば、足首を斬られた男が覆面を外し、呼子笛を咥えていた。一瞬、感情の在りかが読み取れない、硝子玉のような男の瞳と視線を交わす。どこかで見たような瞳であったが、その違和感に向き合う余裕は、今はない。玄関扉をがらりと開き、茜に染まる日暮れの庭に、裸足のままで飛び出した。

 皿で痛めた手が痛む。足裏に砂利が突き刺さる。けれども走るその足を、止めたりなどはしなかった。

「今、帰るから。私がなんとか、してみせるから……!」

 野火も、ささめも、母も。縋れる者は誰もいない。縋る資格も、きっとない。心の支えだった父の顔すら、今は心の片隅で、幻影のようにうつろうだけ。たったひとりの逃走が、怖くて、不安で、仕方がなかった。

 そんな挫けそうな心を奮い立たせることができたのは、野火が失くした名を呼んで、山の獣と化していた自分を見つけてくれたからだ。

──君は生きて、こうして俺の目の前にいるじゃないか。宵越、いや……

──大丈夫。俺は、君がここにいるのを知っている。

 あの言葉に、どれだけ勇気をもらったか。どれだけの安心をもらったのか。

「私、まだなにも返せてないよ。だから──」

 だから。どうか無事でいて。

 これ以上、迷惑をかけたくない。

 御所の出口を探して辺りを見回したとき、離れと母屋の間に茂る、庭木の影がゆらりと揺れた。鳴り合う呼子笛の連鎖が、ひとり、またひとりと、見張りの男を呼び寄せたのだ。彼らの手にした刀の切っ先が、真っ赤な茜を照り返し、血濡れたようにぎらりと光る。

 囲まれる。闇雲に突破しようとした宵越に、男たちが一斉に飛びかかった。


「──あら、まあ、かわいそうに。痛かったわね」

 声を上げて泣く幼い自分は、膝と掌をひどくすりむいていた。細と鬼ごっこをしていたときに、庭石に蹴躓いてしまったのだ。赤く滲む血が怖くて、ひりひする痛みが嫌で、大声で泣き喚いているのである。細がしきりに傷を舐めるが、刺激で痛みが増すばかりだ。

「かあさま、いたい。いたいよう」

「泣かないのよ。もう大丈夫だからね」

 母が矢立を取り出して、筆の先に朱墨を付ける。なにかを額に書き込まれ、優しい甘やかな声で、いつものおまじないを唱えてくれた。

「痛いの、痛いの、飛んでいけ!」

 涙で濡れた真っ赤な頬を、母の柔らかな手が包んでくれた。そうすると、なぜだろうか。いつの間にか痛みがなくなって、とても楽な心地がするのである。

「さあ、傷の手当をしましょうか。膿むといけないから」

「うむ? うむって、なあに?」

「傷がじゅくじゅくして、黄色っぽい臭い汁がでるのよ。もっと傷の痛みが増すわ」

「ええ、やだよ! うむの、やだ!」

「そうね。だから、ちゃんときれいにするのよ。傷の手当の仕方、また教えてあげるからね」

 そう言って微笑みながら、母が手を差し伸べてくれた。袖で涙を拭い取ると、その手を取って、歩き出す。

 昼下がり。陽光煌めく、王宮の庭。ふたりを先導する細の白い尾が、誘うように揺れている。

 そんな過去の一場面。急に視界がぐらついた。

 幸せな思い出が、暗転する──


「お前を侮っていたようだ」

 目が覚めたのは、夜半も過ぎた頃だった。薄ぼんやりとした行灯の光が、格子の向こうで唇の端をつり上げる、叔父の顔を照らしている。

「だが牙は鈍ったな、狼女よ。足を狙うなど生ぬるいことをするから、こうしてまた捕まったのだ」

 そう声をかけられ、宵越は牢の暗がりで身を捩った。夢から覚めた身体は痛み、起き上がることはかなわない。しかしざらつく畳に頬を擦りながらも、懸命に叔父のほうへと顔を向けた。

「狼女って、呼ばないで」

「首を掻っ切るべきだった。山で八十瀬やそせを屠ったようにな。そうすれば笛を吹く隙など、与えはしなかったろうに」

「そんなこと、もうしない!」

「きれいごとを。そんな甘い考えだから、逃げる好機を逸したのだ。なにかを為そうとするならば、それ相応の覚悟を持て」

「覚悟? 人を殺す覚悟なんて、持ちたくないよ!」

「散々追手を屠って逃げ回ったお前が、どの口でほざく」

「……っ、私、死にたくなくて、必死だった。でも、……誰かの命を奪うなんて、もうしたくないんだよ──」

 尻すぼみになった言葉が、夜の満ちた牢の中、空しく響いて消えていく。

 峰打ちされた背も、殴られた腹も、地に擦った頬も。どこもかしこも痛んでいた。けれども叔父の言葉に抉られる、心のほうがよっぽど痛む。

 叔父の言う通り、殺してしまえばよかったのだろうか。相手の命など顧みず、目的を達するための単なる障害として、切り捨てればよかったのだろうか。

 もう、なにもかもがわからなかった。叔父とわかり合うこともできず。自分のせいで野火たちに降りかかっている、火の粉を払うこともできず。向き合うと決めたはずの、人を殺めた罪ですら、言い訳を並び立てる始末である。結局は叔父の言う通り、きれいごとに縛られて、身動きが取れないままだった。

(私、間違ってた? ……どこから? どうすれば、よかったっていうの)

 ああ、目の前を、深い夜が蝕んで。

(野火、──暗いよ)

 秋霖のそばの行灯が眩しく感じる。自分が佇む闇の濃さに、身体が沈んでいくようだ。

「私の王位を揺るがすな。……お前も王族の端くれなら、その身をもって国の礎たれ」

 行灯の光が揺らぐ。秋霖が踵を返し、牢のそばを去っていく。

「諦めよ。さすれば、静かな余生は過ごせよう」

 動けなかった。叔父を引き留める声すら、もう出ない。

 頭の芯が痺れているのだ。叔父の言うように、自分がすべてを諦めれば、六合りくごうは叔父の導きのもと、安らかな国になるのだろう。今この国にとって、姫などという存在は、最早邪魔な遺物でしかないのだ。

 諦めないと決めたはずの、心の灯が消えかける。瞬きすら忘れた瞳から、ほろり、ひとしずくの涙が零れたときだった。

「──、」

 地を這うように訪れた地鳴りとともに、まさかと思った声を聴いたのである。

 秋霖が足を止め、弾かれたように母屋を仰いだ。宵越も必死で身を起こし、格子の外に目を凝らす。しばらく見据えて目が鳴れると、月夜に淡く照らされた母屋の屋根が、蠢くなにかに覆われていくのが見えた。その大きななにかには、つるぎのような一本の角が生えている。

「なんだ──あれは」

 蠢く影が母屋を飲み込み、津波のように押し寄せてくる。地を蹴る荒々しい低音。数多の獣の息遣い。月明かりを照り返し、鬱金の瞳がずらりと浮かぶ。

 一角狼の大群である。

 その黒い津波の先頭には、闇夜を穿つ真白い一角狼と、角の折れた一角狼が駆けていた。見間違うはずもない。細と、新。そして、こちらへ真っ直ぐ駆けてくる新の背に、焦がれた男の影を見た。

「──うそ、」

 舌がもつれる。言葉が上手く出てこない。震える喉を叱咤して、宵越は力の限り声を上げた。

「野火!」

「伏せろ!」

 返された野火の叫びに、宵越は咄嗟にその意味を悟った。細と新は牢を目の前にしても、疾駆の速度を落とさないのだ。秋霖も舌打ちをしながら、逆印に守られて地に伏せる。宵越も部屋の隅に身を屈めた、その直後。

 疾駆の勢いを乗せたふたつの巨体が牢に体当たりし、格子や壁が砕ける音が轟いたのである。

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