二 再会と噂②

「あんな者らが六合軍を気取るなど、なんと嘆かわしいことか」

 味噌汁の椀を取り上げながら、磊落は深い溜息をついた。

「八十瀬衆は、どこの町でもああなのでしょう」

「大義は我らにあり、とな。秋霖が角狩りの手としてやつらを使う以上、横柄な態度は改まらんだろうな」

(秋霖、か)

 聞き拾った言葉の端に、野火はふと、口元を緩めた。

 「なんだ?」と磊落が怪訝そうにするが、その顰めた眉の上、以前と変わらず刻まれたままの角印に、野火は不思議と安堵感を覚えていた。

「先生は、角狩りに否定的なのですね」

「無論だ。秋霖の進める角狩りになぞ、賛同できるものか。あれは……誇り高くうつくしい獣を、家畜へと貶めるものだ」

 鼻息も荒くそう言い捨て、磊落はぐいと味噌汁を飲み干す。苛立ちの収まらぬ箸先を、小葱を散らした揚げ出し豆腐に突き刺した。

「おぬしはどうだ。賛同できるというのか」

「まさか」

 徐々に表情の険しくなる磊落によく見えるよう、野火は長い前髪をかき上げ、隠れていた額を晒して見せる。前髪の下から現れた角の印に、磊落の怒気が静まるのが感じられた。

「俺が……いぬいを死に至らしめたこの俺が、角狩りに賛同など、できるはずがありませんよ」

 言葉もなく頷いて、磊落は「すまん、そうだな」と小さくこぼし、肩を落とした。怒気で一回り大きく見えていた老翁の身体が、潰れた紙風船のように、しょんぼりと萎んでいってしまう。

(しまったな。先生が悪びれる必要などないのに)

 配慮に欠いた言い方だったか。どう取り繕うかと考えているとき、居間の障子がすっと開かれた。

「おじいちゃん。秋霖秋霖と、廊下まで響いているわよ。呼び捨てにしては無礼にあたるでしょう。秋霖様は、陛下の弟君であらせられるのだから」

 徳利と盃を乗せた盆を運んできた栗花落は、呆れたように祖父を窘めた。「どうぞ」とふたりに盃を渡すと、とくとくと酒を注ぎ入れる。熱された濃い酒の香りが、野火の鼻をくすぐった。

「今夜は天座あまくらの峰々から冷たい風が吹き降りて、ここ一番の寒さになりそうよ。燗にしてあるから、きっと身体がよく温まるわ」

 そう言って、栗花落はふわりと柔らかく笑った。

(……変わらないな。先生も、栗花落さんの、この優しさも)

 口に運んだ燗の酒が、ほどよい口当たりで喉を潤す。それは胃の腑と胸に留まって、野火の中の冷えた何かを温める。許されるような気がするのだ。狭量で、変わることができない自分自身を、このふたりは無条件に迎え入れてくれる。

 温かい。そう感じるならこそ、六年前のように、逃げてはならないのだと思う。

「磊落先生、栗花落さん」

 野火は居ずまいを正し、二人に向かって頭を下げた。

「おふたりには、ほんとうに良くしていただいたのに……六年前、突然何も告げずに都を出てしまい、申し訳ありませんでした」

 「そんな、いいのよ」と、栗花落が野火の頭を上げさせる。

「野火君が無事で過ごしていたのがわかっただけで、こんなに嬉しいことはないわ」

 野火の手を取り、真っ直ぐに目を見ながら、栗花落はそう言った。目頭が熱くなる。この優しい友人を、野風は姉のように慕っていたのだ。熒惑平野けいこくへいやへの出兵前、「怪我したって大丈夫よ、栗花落ちゃんがいるんだから。六合軍のお医者の中で、一等優秀なんだって、みんな言ってる。人だって、一角狼だって、あっという間に治してくれるわ」と、心配性な兄を勇気づけるために、明るく褒めそやしていた。

 栗花落は、どう思ったのだろうか。帝国が熒惑平野から撤退した後、物言わぬ妹を抱えて本陣へ帰還した、兄の憔悴しきった様を、どう見ていたのだろうか。磊落のもとへ走り、吐き出せるだけの憤怒を吐き出す、狂ったような野火の姿を──どう、感じたのだろうか。

 野火はいっさい胸の内を明かさずに、彼女の前から姿を消した。けれども栗花落は、なにも聞かない。ただただ無事を喜んで、こうして受け止めてくれている。

「……あのあと、俺は都を離れ、各地を放浪していたんです」

 栗花落の手を放しながら、野火はぽつりと呟いた。背を丸めていた磊落が、顔を上げて野火の言葉へ耳を傾ける。

「帝国兵から野風を守りきれず、それどころか、怒りに我を忘れて不用意に敵陣に突っ込んだ俺をかばい、乾は死にました。俺だけが生き残ってしまったことが虚しくて、寂しくて……しばらくは、何を考えることもできず、風に流されるがまま放浪しておりました。そんな折に──野良の、若い一角狼に出会ったのです」

「野良の?」

「はい。森の中で、怪我をして蹲っているのを見つけたのですが……おそらくは角狩りにあったのでしょう。明らかな刀傷と、六合軍の矢が刺さっておりました」

 心式で警戒心を解き、手当を施した。幾日か傍で野宿をしながら過ごすうちに、一角狼は徐々に快方に向かった。別れの時、その一角狼は礼を述べるかのように、野火の手をひと舐めしてから、木々の奥へと走っていった。

(あの舌の温かさ、今でもよく覚えている)

 掌を見て、当時の感覚をなぞるかのように、軽く拳を握ってみた。

 生にぬくもったその温度は、今も変わらず、野火の道しるべとなっている。

「天啓を得たのだと思いました。これこそが、がらんどうとなった俺ができる、唯一のことなのだと。彼らを守り、癒すことが、ふたりへの償いになるのではと……」

「それでおぬしは額の印を消さず、ずっとこの国を流れておったというのか」

 磊落は野火の悲愴な決意に心痛しているのか、どこか物憂げに目を伏せる。

 しかし盃に残った酒を勢いよく呷ったあと、磊落は湿っぽい雰囲気を吹き飛ばすかのように、にかりと満面の笑みを浮かべてみせた。

「辛い時の中にあっても……おぬしは、己が生きる道を得たのだろう。それはまことに、良いことよ」

「今の六合では、多少肩身が狭くはありますが」

「違いない。陛下を支持する狼士は、今は極めて少数派となってしもうた。生きづらい世となったものだなあ」

 言って、磊落は沢庵を口に放り込む。こりこりと小気味よい音を立てながら、「なあ栗花落よ」と、孫娘に言を振った。

「ほんとうに。あの昼間に来た八十瀬の男たち、最近は何かと理由をこじつけて訪れては、屋敷の明け渡しを迫ってくるのよ。嫌になっちゃう」

「八十瀬衆の拠点に、この町は打って付けのようですからね」

「故郷に帰る一角狼を、弦ヶ丘で待ち伏せて狩るのだろう。悪趣味にもほどがある。そんな蛮行に儂の屋敷を使うなど、この目が黒いうちは許さんわい」

 磊落の鼻息が再び荒くなり始める。八十瀬衆への愚痴が溢れそうになる寸前、栗花落が「そうだわ」と、何かを思い出したかのように言葉を挟んだ。

「おじいちゃん、野火君。今夜は少し、用心したほうがいいかもしれない」

 怪訝そうにするふたりに、栗花落は不快感を込めた息をつく。

「昼間の男たちが言っていたの。今朝方、弦ヶ丘を流れる玻璃川はりがわのほとりで、角狩りを行ったそうよ。雄を一頭捕らえて従針を打ち込んだのだけど、下流に仲間の群れがいたみたいで……仲間を取り戻そうとする一角狼から、命からがら逃げて来たらしいの。太白に入る直前に、群れは諦めて弦ヶ丘の木立に引き返したみたいなんだけど……」

「仲間を奪った敵の根城が、この太白だと知れたか」

 打ち解けた雰囲気の中、一瞬だけ磊落の眼光が険しさをはらんだ。

「それでは……もしかしたら今夜、報復があるかもしれませんね」

「そうなのよ。野火君、今夜はうちに泊まっていきなさい。町の旅籠はたごよりは、ここの方が安全だから」

「そんな……ご迷惑はかけられません」

「迷惑なものか。久方ぶりに会うたのだ、この老いぼれの酒に付き合ってもらわなくては」

「だから、用心してって今言ったじゃないの。今夜は冷えるからと思って少しだけ出したけど、もうこの徳利以外出さないわよ」

「つれないのう」と、磊落が残念そうに眉を下げる。そんな磊落をつんと黙殺しながら、栗花落は碗を取り上げ、冷めてしまった味噌汁を静かに啜った。

(一角狼が、町を襲うかもしれないのか)

 箸を持つ手が止まる。

(八十瀬衆に傷つけられる一角狼を、指を咥えて見ていることになるのか?)

 それとも町の守り手として、戦いに参加することになるのだろうか。

 野火には、選び難い選択だった。放浪してからというもの、九霄きゅうしょう王と秋霖の派閥争いになど関わりもせず、自分がしたいことだけをしてきた野火には、どちらの立場にも立てるはずもない。しかし勢いを増す秋霖派の八十瀬衆の目の前で、一角狼をかばいたてるならば、相応の沙汰が下るだろう。

(そうか、)

 夕餉をつつきながら談笑する磊落と栗花落を見て、野火は不意に、頭が下がる思いがした。

(ふたりは、八十瀬衆への協力をはっきりと拒んでいた。秋霖派には属さないと、明確な立ち位置を貫いているんだ。おそらくは、俺がふらふらしている間……熒惑事変けいこくじへんから徐々に世論が移り変わる間、ずっと──)

「──なんだと? それはまことか」

 磊落の声に、野火は内へと沈んでいた意識を戻した。

「ええ、八十瀬の男たちが、確かに見たって言っていたもの」

「しかし、群れを率いる長が、そのような……一角狼を恐れるが故の、幻ではないのか」

「嘘を言っているようには聞こえなかったけど」

 続く栗花落の言葉で、野火は磊落の訝しむ様に、ようやく納得がいった。

 しかし同時に、己の耳を疑った。

「女の子が──狼女が一角狼の群れを率いていて、群れが町に雪崩れ込むのを、その子が止めたんですって」

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