二 再会と噂①

 朔森での件から、十日が経った。

 あのまま街道を北へと進んだ野火は、六合ノ國りくごうのくにの北端、弦ヶ丘高原の玄関口に位置する、太白たいはくという町に至っていた。人間を診る人医じんいと、一角狼を診る狼医ろうい。ふたつの医学舎で栄えてきた、医学徒たちの町である。野火の所属していた隊の中にも、この町で医術を学び、中央に派遣されてきたという者も多かった。

(静かで、穏やかな町だと聞いていたのに)

 それが今では、八十瀬衆やそせしゅうの男たちが、我が物顔で居座る町となっていた。銘々に得物を担いだ彼らの姿は、町に不穏な雰囲気を落としている。

(八十瀬衆……いや、ながれに学舎ごと接収されたのか)

 多くの医学徒を受け入れる太白学舎には、教室も、寮も、治療所やその用具も揃っている。加えてここ太白は、一角狼の根城、天座あまくら連峰の麓である。角狩りを行う八十瀬衆の拠点としては、まさしく理想的であったのだろう。

「おい、お前もしかして、野火か?」

 雑踏の中で突然肩を掴まれ、驚いたはずみに足がもつれた。倒れそうになるところを、声の主が支えてくれる。

「すまん。よもやという顔を見つけたものだから、つい」

 そう言ってにかりと笑う大柄な老翁に、野火は覚えがあった。懐かしい。白いものが混じっていた髪は今ではすっかり白髪になり、目元の皺は谷のように深くなった。けれどもカラリとした気風のいい笑い方は、昔と少しも変わらない。

磊落らいらく先生?」

「おうとも。覚えていてくれたか」

「……なぜ、先生がここに」

「太白は儂の郷里でな。まさか、ここでお前を見つけるとは。お前がふつりと都から消えて、どれくらいたった。……ほうぼう、探したんだぞ」

「そう、でしたか」

 徐々にまなじりが潤みだす磊落に、野火は罪悪感を覚えた。あとの言葉が続かず、動かぬ舌が口の中で石のように居座っている。

(……何から、伝えたらいいものか)

そう逡巡する間に、道行く人に肩を当てられた。小さな舌打ちを受け、野火はここが町の往来のど真ん中であることを思い出す。

「ここでは邪魔になる。うちへ来い。一緒に夕餉でも食おう」

 磊落に腕を引かれ、野火は重い足を動かしてあとに続いた。齢六十を迎えるはずの磊落は、その足取りに老いの気配を感じさせない。颯爽と人混みを抜け、家々が立ち並ぶ路地へと入っていく。

「……申し訳ありません。ご連絡もせず」

「気に病むな。儂はただ、お前さんが無事生きていてくれたことが嬉しいよ」

 それきり、磊落は振り向かずに歩き続けた。柔らかい口調の裏に、呆れや怒りが、混ざってはいやしないだろうか。不安に駆られたが、年の割にはすっと伸びた彼の背からは、何も読み取ることはできなかった。


 この老翁には、恩があった。

「先生、」

 六合ノ國の都、土座つちくらで生まれた野火であるが、しかし十の頃には親はなかった。妹の野風とたったふたりきり、えたにおいの貧民窟で、地を這うように生きてきた。

「先生、野風が。乾が──」

 辛酸を嘗める日々を凌ぎ、成長した野火はやがて軍属についた。そこにいて、自らの命を張ってさえいれば、腹を空かせることはなくなった。——命だ。それは金も、家も、何も持たない野火が、たったひとつ、妹のために張れるものだった。

「俺、俺が、」

 そんなくうのような野火の内に、武術と心式の才を見出してくれたのが、当時都の兵学所で指導に当たっていた磊落だ。彼の指導を受け、野火はみるみる頭角を現した。その確かな成長を、まるで自分の子供のことかのように喜んでくれた、唯一のひとであったのだ。

「野火、もういい」

「俺、守れません、でした」

「お前のせいではない」

「俺が──俺が守らなくちゃ、いけなかったのに!」

 熒惑平野けいこくへいやからの帰還後、野火は真っ先に磊落のもとへ向かった。どろどろに汚れた鎧も脱がず、土埃も、浴びた血も、何もかもをそのままに、一足飛びに駆けていった。

 赦しの言葉が欲しいわけでも、縋りたかったわけでもない。ただ、吐き出したかった。この身の内から沸き上がり、己も周囲も巻き込んで暴れ狂った、嵐のような激しい怒りを、全て、吐き出してしまいたかったのだ。


(先生とは、あのとき以来か)

 恥じ入る気持ちと共に、磊落と最後に会ったときのことを思い出す。怒りの捌け口にしてしまった。身寄りのない兄妹をよく気にかけ、可愛がってくれたというのに。吐き出せるだけの憤怒を吐き出して、最後の一滴まで絞り出したあと、逃げるように磊落のもとを去り、便りのひとつも送らなかった。

(ほんとうに……恩知らず極まるな)

「──おい、何を呆けておる。着いたぞ」

 声をかけられ、野火ははっとして前を向いた。

 路地を抜けた北の外れ、弦ヶ丘高原に連なる木々の並びにめり込むように、その大きな屋敷は建っていた。屋根にかかるしわがれた枝葉が、さわさわと瓦を撫で、乾いた音をたてている。背の高い正門は、経年の風化で木っ端が毛羽立ってはいるが、作りは厚く、堅牢な護りで聳え立ち、また屋敷を囲う塀の上には、先を尖らせた木槍が、ずらりと列をなしていた。自宅というには、些か物騒な外観だ。

 門柱にかかっていた、ある表札が野火の目にとまった。

玉響たまゆら塾? ここが、先生のお宅ですか」

「ああ。退役後、儂はここで町の子供たち相手に、読み書きや心式を教えておったのだ」

「しかし、塾というには、なにやら……」

「物騒か? まあ、仕方がなかろう。元は狼舎ろうしゃだった屋敷だからな。玉響狼舎といってな、ひと昔前までは太白学舎と連携して、狼医の育成と傷ついた軍狼の治療に務めておった場所だ」

「存じております。かつて同じ隊に、玉響狼舎で朋角を得たという者がおりました。先生のご生家は、あの高名な玉響一門でございましたか」

「高名かどうかは、眉唾物だと思うがの。まあ立ち話もなんだ、中へ──」

 野火を招き入れようと、磊落がくぐり戸を開けようとしたところで、急に内側から勢いよく開かれた。咄嗟にふたりが脇によけると、鼻息を荒げた三人の男たちが、慌てた様子で飛び出してきたのだ。みな八十瀬衆の印半纏をまとい、それぞれ腕や足に怪我をしているのか、真新しい包帯が巻かれている。野火たちには気付かぬまま、くぐり戸の内に向けて息巻いた。

「なぜ協力を拒むんだ! これほどの屋敷をただの塾の一室とするなんて、宝の持ち腐れじゃねえか」

「その件につきましては、祖父は只今不在にしておりますゆえ、どうかお引き取りくださいませ」

 男たちの間から中庭を覗くと、薙刀を構えたひとりの女が、その切っ先を男たちに向けて立っていた。怒気をはらんだ声色と、研ぎ澄まされた刃の硬質な光が、男たちを威圧している。

「私は、皆様の傷のお手当だけ、というお約束で門の内へとお招きいたしました。屋敷の明け渡しについてお話しするためではございません!」

「今どき朋角の講義をしたってなあ、耳を傾ける者などいるもんか。このまま俺たちを拒むのであれば、八十瀬、流、ひいては秋霖様に反意ありと訴えて、お前のような阿婆擦あばずれと老いぼれのじじいなんぞ、ぽいと摘まみだしてやってもいいんだぞ!」

「この屋敷は第十五代九霄きゅうしょう陛下より賜り、我ら玉響一門が代々営んできた、由緒正しき狼舎にございます。そのような野蛮な所業、陛下がお許しになりません」

「そんな強情張ったってなあ、病に伏して久しい王の助けなんぞ、来るはずがねえぞ」

「無礼者! 陛下を愚弄するか!」

 憤る女が怒りのあまり、薙刀を持った手の内を硬くする。

(あれでは、だめだ)

 あんなに力んでは、まともな一撃を繰り出せず、返り討ちにあってしまう。男たちも意固地な女に苛立って、腰の刀に手を伸ばした。

(危ない──)

「この愚か者どもが!」

 磊落は一番手近にいた男を掴むと、えいやと一息に投げ飛ばした。残る二人は野火が足を払って倒し、立ち上がる前に喉元に刀を突きつける。

「ら、磊落殿。いつからそこに」

「婦女子に刀を抜こうとしよったな」

 太陽を背負った磊落の顔は暗く陰り、それを見上げる男たちには、さぞ鬼の形相と見えることだろう。

「その傷の手当は、あの子にしてもらったのではないのか。恩を仇で返すとは何事か」

「それは……しかし、磊落殿、あんたが頑迷にこの屋敷を手放さないから、」

破落戸ごろつきまがいのおぬしらなどに、くれてやるものなどひとつもないわ!」

 「立ち去れ!」と磊落の雷のような怒声を受け、男たちはあとずさり、やがて逃げるように町の方へ駆けて行った。

「おじいちゃん、帰ってたのね」

「怪我はないか」

「大丈夫よ。あいつら、「角狩りで大怪我したから診てくれ」って門の前で泣くものだから、仕方なしに手当に応じたのに。結局はこれが目的で──あら?」

くぐり戸から出てきた女が、ようやく野火に目をとめた。はじめは戸惑い、しかしそれが誰なのかに気が付くと、次第に目を瞠り、幻ではないのかと確かめるように、野火の着物に細い指を伸ばす。長い睫毛を震わせ瞬けば、雨上がりの湖面のような瞳から、溢れた雫が一筋、静かに頬を伝い落ちた。

指が触れるか触れないかのところで、野火は一歩退いて、深々と頭を下げた。

「お久しぶりです。……栗花落つゆりさん」

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