二 再会と噂①
朔森での件から、十日が経った。
あのまま街道を北へと進んだ野火は、
(静かで、穏やかな町だと聞いていたのに)
それが今では、
(八十瀬衆……いや、
多くの医学徒を受け入れる太白学舎には、教室も、寮も、治療所やその用具も揃っている。加えてここ太白は、一角狼の根城、
「おい、お前もしかして、野火か?」
雑踏の中で突然肩を掴まれ、驚いたはずみに足がもつれた。倒れそうになるところを、声の主が支えてくれる。
「すまん。よもやという顔を見つけたものだから、つい」
そう言ってにかりと笑う大柄な老翁に、野火は覚えがあった。懐かしい。白いものが混じっていた髪は今ではすっかり白髪になり、目元の皺は谷のように深くなった。けれどもカラリとした気風のいい笑い方は、昔と少しも変わらない。
「
「おうとも。覚えていてくれたか」
「……なぜ、先生がここに」
「太白は儂の郷里でな。まさか、ここでお前を見つけるとは。お前がふつりと都から消えて、どれくらいたった。……ほうぼう、探したんだぞ」
「そう、でしたか」
徐々に
(……何から、伝えたらいいものか)
そう逡巡する間に、道行く人に肩を当てられた。小さな舌打ちを受け、野火はここが町の往来のど真ん中であることを思い出す。
「ここでは邪魔になる。うちへ来い。一緒に夕餉でも食おう」
磊落に腕を引かれ、野火は重い足を動かしてあとに続いた。齢六十を迎えるはずの磊落は、その足取りに老いの気配を感じさせない。颯爽と人混みを抜け、家々が立ち並ぶ路地へと入っていく。
「……申し訳ありません。ご連絡もせず」
「気に病むな。儂はただ、お前さんが無事生きていてくれたことが嬉しいよ」
それきり、磊落は振り向かずに歩き続けた。柔らかい口調の裏に、呆れや怒りが、混ざってはいやしないだろうか。不安に駆られたが、年の割にはすっと伸びた彼の背からは、何も読み取ることはできなかった。
この老翁には、恩があった。
「先生、」
六合ノ國の都、
「先生、野風が。乾が──」
辛酸を嘗める日々を凌ぎ、成長した野火はやがて軍属についた。そこにいて、自らの命を張ってさえいれば、腹を空かせることはなくなった。——命だ。それは金も、家も、何も持たない野火が、たったひとつ、妹のために張れるものだった。
「俺、俺が、」
そんな
「野火、もういい」
「俺、守れません、でした」
「お前のせいではない」
「俺が──俺が守らなくちゃ、いけなかったのに!」
赦しの言葉が欲しいわけでも、縋りたかったわけでもない。ただ、吐き出したかった。この身の内から沸き上がり、己も周囲も巻き込んで暴れ狂った、嵐のような激しい怒りを、全て、吐き出してしまいたかったのだ。
(先生とは、あのとき以来か)
恥じ入る気持ちと共に、磊落と最後に会ったときのことを思い出す。怒りの捌け口にしてしまった。身寄りのない兄妹をよく気にかけ、可愛がってくれたというのに。吐き出せるだけの憤怒を吐き出して、最後の一滴まで絞り出したあと、逃げるように磊落のもとを去り、便りのひとつも送らなかった。
(ほんとうに……恩知らず極まるな)
「──おい、何を呆けておる。着いたぞ」
声をかけられ、野火ははっとして前を向いた。
路地を抜けた北の外れ、弦ヶ丘高原に連なる木々の並びにめり込むように、その大きな屋敷は建っていた。屋根にかかるしわがれた枝葉が、さわさわと瓦を撫で、乾いた音をたてている。背の高い正門は、経年の風化で木っ端が毛羽立ってはいるが、作りは厚く、堅牢な護りで聳え立ち、また屋敷を囲う塀の上には、先を尖らせた木槍が、ずらりと列をなしていた。自宅というには、些か物騒な外観だ。
門柱にかかっていた、ある表札が野火の目にとまった。
「
「ああ。退役後、儂はここで町の子供たち相手に、読み書きや心式を教えておったのだ」
「しかし、塾というには、なにやら……」
「物騒か? まあ、仕方がなかろう。元は
「存じております。かつて同じ隊に、玉響狼舎で朋角を得たという者がおりました。先生のご生家は、あの高名な玉響一門でございましたか」
「高名かどうかは、眉唾物だと思うがの。まあ立ち話もなんだ、中へ──」
野火を招き入れようと、磊落がくぐり戸を開けようとしたところで、急に内側から勢いよく開かれた。咄嗟にふたりが脇によけると、鼻息を荒げた三人の男たちが、慌てた様子で飛び出してきたのだ。みな八十瀬衆の印半纏をまとい、それぞれ腕や足に怪我をしているのか、真新しい包帯が巻かれている。野火たちには気付かぬまま、くぐり戸の内に向けて息巻いた。
「なぜ協力を拒むんだ! これほどの屋敷をただの塾の一室とするなんて、宝の持ち腐れじゃねえか」
「その件につきましては、祖父は只今不在にしておりますゆえ、どうかお引き取りくださいませ」
男たちの間から中庭を覗くと、薙刀を構えたひとりの女が、その切っ先を男たちに向けて立っていた。怒気をはらんだ声色と、研ぎ澄まされた刃の硬質な光が、男たちを威圧している。
「私は、皆様の傷のお手当だけ、というお約束で門の内へとお招きいたしました。屋敷の明け渡しについてお話しするためではございません!」
「今どき朋角の講義をしたってなあ、耳を傾ける者などいるもんか。このまま俺たちを拒むのであれば、八十瀬、流、ひいては秋霖様に反意ありと訴えて、お前のような
「この屋敷は第十五代
「そんな強情張ったってなあ、病に伏して久しい王の助けなんぞ、来るはずがねえぞ」
「無礼者! 陛下を愚弄するか!」
憤る女が怒りのあまり、薙刀を持った手の内を硬くする。
(あれでは、だめだ)
あんなに力んでは、まともな一撃を繰り出せず、返り討ちにあってしまう。男たちも意固地な女に苛立って、腰の刀に手を伸ばした。
(危ない──)
「この愚か者どもが!」
磊落は一番手近にいた男を掴むと、えいやと一息に投げ飛ばした。残る二人は野火が足を払って倒し、立ち上がる前に喉元に刀を突きつける。
「ら、磊落殿。いつからそこに」
「婦女子に刀を抜こうとしよったな」
太陽を背負った磊落の顔は暗く陰り、それを見上げる男たちには、さぞ鬼の形相と見えることだろう。
「その傷の手当は、あの子にしてもらったのではないのか。恩を仇で返すとは何事か」
「それは……しかし、磊落殿、あんたが頑迷にこの屋敷を手放さないから、」
「
「立ち去れ!」と磊落の雷のような怒声を受け、男たちはあとずさり、やがて逃げるように町の方へ駆けて行った。
「おじいちゃん、帰ってたのね」
「怪我はないか」
「大丈夫よ。あいつら、「角狩りで大怪我したから診てくれ」って門の前で泣くものだから、仕方なしに手当に応じたのに。結局はこれが目的で──あら?」
くぐり戸から出てきた女が、ようやく野火に目をとめた。はじめは戸惑い、しかしそれが誰なのかに気が付くと、次第に目を瞠り、幻ではないのかと確かめるように、野火の着物に細い指を伸ばす。長い睫毛を震わせ瞬けば、雨上がりの湖面のような瞳から、溢れた雫が一筋、静かに頬を伝い落ちた。
指が触れるか触れないかのところで、野火は一歩退いて、深々と頭を下げた。
「お久しぶりです。……
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