一幕 枯れ葉
一 角狩り
野火は伏せた一角狼の傍に立ち、慎重に角へと手を伸ばしていた。見た目は硬くざらついていそうなのに、指先に感じるのは、蝋燭のように滑らかな手触りだ。
(触れさせてくれるか)
一角狼にとっての角は、知性を司る繊細なものである。触れられて嫌がる素振りを見せないのは、良い兆候であった。
「これから、お前にとって嫌なことをする。噛みついてくれるなよ」
そう言って、野火は伏せる一角狼の身体を、丁寧に触り始めた。掌で触れてみれば、硬い上毛に隠された綿のような下毛と、そのさらに下に潜む、しなやかな筋肉の隆起がわかる。
「どこが痛む。背か、それとも脚か?」
身体を検める野火の手が、一角狼の臀部に触れたとき、掌に筋肉の強張りを感じた。
「ここか」
突然の痛みに驚いた一角狼が、野火を振り返り、訴えるような視線を向ける。月に錦を引いたような、うらうらと輝く鬱金の瞳が、野火をじっと見つめていた。
「驚かせてすまない。よく見せてくれ」
深い毛をかき分けると、灰色の毛並みを汚している、赤黒い血の塊があった。その真ん中で何か硬いものが、皮膚からわずかに飛び出している。
(毛が絡んで、よくわからんな)
背嚢から小刀を取り出すと、手早く傷の周りの毛を刈り取った。水筒の水で血の塊を洗い流すと、ようやく隠れていたものの姿が現れる。
(……これは)
現れたものを見て、野火は不快感に目を眇めた。
矢だ。折れた矢が、ぐさりと臀部に突き刺さっている。だがよくよく見れば、そう深くはなさそうだ。深い毛皮に守られたのか、
(よし、これなら抜けそうだ)
野火は鏃の端を金鋏でしっかり挟むと、ひと思いに引き抜いた。同時に強く地面を蹴り、一角狼から距離を取る。
一角狼の太い牙が、がきりと空を噛んだ。つい先ほどまで、野火が立っていた場所でのことだった。予想していたこととはいえ、さすがに背筋が粟立った。その牙に捕まれば、人間など小枝の如く砕かれる。
「どう、どう。落ち着いてくれ」
興奮する一角狼に語りかけながら、野火は意識を額に集中させた。頭の中で、集約した感情の雫を作り上げる。角に向かって雫をこぼせば、水面に広がる波紋のように、静かに想いの輪が広がっていく。──
低く唸っていた一角狼が、徐々に警戒を解き始める。元のように地に伏せると、再び野火の手を受け入れた。ほっと、安堵の息をつく。知らぬ間に噴き出した冷や汗が、背中の衣を湿らせていた。
「すまないな。できるだけ早く終わらせよう」
そこから先は、もう手慣れたことだった。血を拭ってから傷口を縫い、
「舐めるなよ。痛みが増すぞ」
そう言って鼻筋をひと撫でしてやると、一角狼は満足したように目を細めてから、颯爽と森の奥へと去って行った。
秋めく紅葉に燃え茂る、深い森でのことだった。かさつく枝葉の隙間から、瑞々しい陽光が落ちてくる。木洩れ日と落ち葉が舞い遊ぶ、静かな森の
「はいよ、お待ちどお!」
給仕娘から盆を受け取ると、野火は礼を言って軽く会釈を返した。「あらまぁ、丁寧な御仁だこと」と、娘は嬉しそうに笑い、店の奥へと去っていく。
『ちはや』という名のこの茶屋は、宿場町で人気の店のようで、店内は多くの客で賑わっていた。団子を食らう者や、茶を啜りながら談笑する者たちが、銘々の昼のひと時を過ごしている。
野火はそんな店内を避け、店の
「いただきます」
小さくそう呟いてから、野火は団子を手に取った。軽く焼き色の入る団子は歯触りがよく、あんこの甘さを引き立てる。頬張った団子を咀嚼しながら、野火はふと、先ほどの折れた矢を取り出した。
(竹の
この作りは、我が
(……あれから、六年か。この国は、ずいぶん変わったものだ)
額の印を掻きながら、野火は虚ろな面持ちで、過去の戦を思い出す。月日は流れ、季節は幾度も廻ったけれど、当時の記憶は焼き付けたかのように、己の脳裏に鮮明だった。
六合の魂、ここに在り。そんな陳腐な言葉に首根っこを掴まれて、軍の
その最たる犠牲者は、一角狼だった。狼士と絆を結んだ一角狼──
積み重ねられた、死の偏り。それはいつしか、両者の間に深い溝を作っていった。
「やあやあ、そこのあんちゃん。その矢をどこで見つけなすった?」
問われ、野火は矢から視線を上げた。目の前に刀や弓で武装した数人の男たちがおり、野火の持っている折れた矢を注視している。
野火は咄嗟に頭を掻いて、「さて、どこだったかな」と惚けるふりをしながら、額の印を長い前髪でさっと隠した。男たちが羽織っている
(
「今朝方、ここから北の
言いながら、男たちは野火をじろじろと無遠慮にねめつけていた。くたびれた旅装と大きな背嚢は、どう見ても余所者の出立で、問うてはいるが信頼に足る者なのか、値踏みをしているようである。
「ああ、そうそう思い出した」と、野火はいかにも純朴そうに装いながら、一角狼に治療を施した森とは真逆の、南の方角を指差した。
「俺は流れの薬売りなんですが、ついさっきまで南の
折れた矢を男の一人に手渡しながら、野火は人懐っこく微笑んだ。続いてすぐに眉を顰めて、気遣わし気な顔を作り上げる。
「一角狼とやりあったんでしょう。
背嚢に仕舞っていた薬箱から、薬包や小瓶を取り出して、野火はせっせと縁台に並べ始めた。
「石灰。猪脂。
「いや、結構だ。怪我人はさほど出ていないし、薬は上から支給されている」
「そうですか。それは残念……おっと、失敬、怪我人がいないのはいいことですね」
取り繕うように笑いながら、残っていたあん団子を、ぱくりとひとつ、口に含む。その邪気のない様と、八十瀬衆を気遣う言動に、男たちの野火への警戒が、緩んでいくのが感じられた。
「ああ、ところで捕らえた雌の一角狼には、『
さりげなく角狩りの首尾を訪ねると、男のひとりが誇らしげに頷いた。
「もちろんだ。がつんと一発、やつの角に打ち込んでやったさ。今頃は『
「そうですか、それはいい」
安堵を伝える言葉とは裏腹に、野火の胸の奥底は、すうと冷えていくようだ。
「それではここいら一帯は、しばらく安全になりましょう」
「ああ、そのはずだ。人里を襲う一角狼が減れば、お前さんのような流浪者の旅路も安全になるだろう。なに、
「だから安心して薬草採りに励むがいい」と、男のひとりが胸を張る。
(……ああゆう手合いは、きっと、己の正しさを信じて疑わないのだろうな)
照る陽のぬくもりが、張り付けていた笑みを徐々に溶かす。
(確かに、間違ってはいない。……秋霖を支持する輩の中では)
狭量だ、という思いと、仕方のないことだ、という思いが、胸の内で交錯する。わだかまる不快感の波は、野火の口から溜息となって、あてもなく宙を漂った。
(いや、)
街道の土埃を巻き上げて、びゅうと木枯らしが吹き抜ける。
(狭量なのは、俺のほうか)
彼らは変われた。対して俺は──どうなのだ。
妹と朋角を失った六年前の熒惑事変から、野火は太陽をも失ったようだった。目を閉じて心の深淵を覗き込めば、いつだって、血と、煙る雨と、芳しい梅の香りとが混ざり合う、凍てついた春の夜明けが、野火の内に影を落とす。
(……野風、乾)
ふたりとも、俺を置いて、行ってしまった。今もまだ、夜が明けぬ熒惑平野の片隅で、己の傷を反芻しながら、俺は無益な足踏みをひとり続けるばかりなのに。
そんな野火とは真反対に、あの夜を越えた彼らの頭上には、ひとつの輝かしい太陽が昇ったのだ。
それが、秋霖という男であった。
かくして秋霖は、護国の英雄となった。しかし一方で、命を顧みないような苛烈な特攻は、戦の収束ののちに、別の火種を生んだのだ。
一角狼の反乱である。
(……あいつは、無事に
射かけられた一角狼の行方が気がかりだった。きな臭い人間の住処を避けて、一角狼の長が住まうという、天座連峰の山奥に帰る一角狼が増えている。秋霖一派の角狩りから、逃れるためなのであろう。
(それとも、捕らえられた仲間を探して、まだこの辺りをうろついているのかな)
茶屋で出会った彼らは真逆の南へ行かせたけれど、見つからなければ再びこちらへ、捜索の手を伸ばしてくるに違いない。
野火は再び、街道から朔森へと分け入る、
(あいつは……人間に、傷つけられた。天座に帰る前に、人里を襲うのだろうか)
熒惑事変ののち、一角狼は人里を襲うようになった。彼らは言葉を持たないため、その理由など定かでないが、それが熒惑事変を境に起き始めたことだけは確かであった。それでも一時、一部の者は一角狼をかばっていたが、王妃と姫君が一角狼の群れに食い殺されるという事件が起きて以降、擁護の声もほとんど聞かなくなってしまった。
『縁切り』。
そう呼ばれた事件から、もとより脆弱な身体であった王は心をも病み、民の前から姿を消した。代わりに
──聡いといわれる一角狼でも、獣は所詮、獣なのだ。これからは国が管理し、育て、人を襲わぬよう、調教せねばなるまいぞ。
そのために、八十瀬衆は一角狼を捕らえ、従針を打ち込むのだ。特別なまじないを施した楔で一角狼の角を貫き、粗暴な自我を奪い、人間に服従する家畜とするために。
(……あいつの気配は、やはりないか)
一角狼の治療を施した場所から、さらに奥深くへと森を分け入ったあたりで、野火はほっと胸を撫で下ろし、足を止めた。中天にかかる陽が洩れ差す朔森は、穏やかな木々のさざめきが満ち、心地よい時が流れている。遠くに、沢のせせらぎが聞こえた。あれは、
(無事に、帰り着けるといい)
目元に差した木洩れ日が眩く、野火は手で
朱墨で描かれた、三角形の角の印。それは
それでも、野火はその印を消さない。
消せないのだ。
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