序幕 熒惑事変

熒惑事変

「いくな」

 地に伏せていた身体を、力いっぱい掻き抱いた。胸から流れ出る血潮を、強く強く、抑え込む。

「俺を置いて、いかないでくれ」

 漏れるな。溢れるな。そうどんなに願っても、大きく開いた傷口から、それは滾々と湧き出した。一方、吐息と胸の鼓動の音は、次第に力を失っていく。

 ああ、命の潰える、音がする。

「だれか──」

 誰でもいい。ひたすらに、誰かに縋りたかった。たった一人の肉親を、黄泉の淵から救ってほしかった。しかし視線を上げ、野火は改めて思い知るのだ。

 ここに、救いなどありはしない。

 刀剣擦りあう硬い音が、すぐそばで鳴り響いている。鍔迫り音を伴奏に、人と獣の悲鳴が織りなす、不気味な歌が流れていた。

 その中の、たったひとつにすぎない。野火の腕の中で消えいらんとする、か細い呼吸の音などは、この憤怒の蜷局とぐろの只中において、取るに足らない些末な音だ。

 けれどもそれは、野火のびにとっての、すべてであったのだ。

野風のかぜ。いくな。一緒に、都へ帰るんだろう」

 出兵前、お前はそう言ったじゃないか。夜明け前の瑠璃の空を背負い、大きな瞳に星々の名残をきらめかせながら、にかりと笑って言ったじゃないか。

──やあね。この私が、やられるわけないじゃない。兄さんは自分の心配しなさいよ。絶対一緒に、生きて帰るんだからね。

「野風」

 名を呼ぶ。

「野風」

 繰り返し、繰り返し。けれども放り出された肢体の主から、返事はついぞ得られない。

 代わりに、獣の唸り声が聞こえた。川底から地上の音を聞くかのように、それは酷く聞き取りにくい、くぐもった音に感じられた。敵兵と騎馬を怯ませ、士気を奪うその唸り声は、野火が駆る一角狼いっかくろういぬいが発したものであった。聡い相棒が、敵兵が迫っているぞと、無防備に佇む野火に知らせているのだ。

 抱きかかえていた身体を、再び地面に横たえた。ことりと落ちた細い手首が、血の気を無くし、うすら白い。その姿は野火の中に、ひとつの事実を落とし込む。

 野風は、いってしまった。妹は黄泉の深淵へと滑り落ち、二度と現世うつしよには戻らない。

 身体を寄せてきた、乾の背に飛び乗った。五尺八寸の野火を軽々乗せる大きな獣は、相棒の心をよく解する。動かぬ野風に背を向けて、争い激しい最前線へと、疾風はやての如く馳せていく。

 獣の咆哮が木霊した。それが乾のものであったのか、復讐心に駆られて夜叉と化した、野火のものであったのかは定かでない。

 それは、梅の蕾がふくりと膨らむ、ある早春のことだった。花蕾からいを散らし、天を仰いだ枝を折り、戦場となった熒惑平野けいこくへいやは、梅の満開よりも少し早く、血の花が咲き乱れた。

 不気味な戦場歌が鎮まるころ、太陽が朝靄にかすむ山の稜線を越えた。高みから注ぐ眩い光が、薄闇に紛れていた、累々たる死屍を暴き出す。いつからか、はらはらと銀糸の小雨が舞っていた。悲嘆にくれる天女の涙のような日照雨そばえは、死屍への最期の手向けのようであり、また地を馳せるものたちの愚かしい行いに落胆するような、細い溜息のようでもあった。

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