三 野火の本懐①
一角狼の報復に備え、野火は用意された布団ではなく、壁に背を凭れて座り、刀を抱えて浅く眠った。雲の垂れ込めた月のない夜を、木々のざわめきと、時折聞こえる虫の音を遠くに聞きながら、睡気に混濁する意識の狭間をさまよった。
しかし──長い夜は穏やかな静けさのままに、朝を迎えることになった。
「取り越し苦労でよかったわ」
朝餉の席で、
「さすがに目が冴えてしまって、よう眠れんかったわ。こりゃあ今日は皆で昼寝だの」
「だめよ。今日はこのあと、塾の生徒さん方が来る日じゃないの」
「ならば、今日は昼寝の極意を伝授してしんぜよう」
からからと笑いながら、磊落は栗花落の入れた茶を手に取った。
眠れぬ夜を過ごしたとはいえ、ここしばらく野宿が続いていた野火にとっては、沁みるほどに平穏な朝であった。冬の足音に背を叩かれそうな昨今、焚火で過ごす野宿は骨の髄まで凍えるほどで、屋内で迎える朝はこんなにも安らぐものだったのかと、栗花落の用意した朝餉を噛みしめながら、野火はほっこりとした気分に浸っていた。
「ごちそうさまでした」
米粒ひとつ残さず平らげ、箸を置いた。「おそまつさまでした」と、栗花落がすぐに野火の分の茶を淹れて、冷めぬうちにと手渡してくれる。
「このあと、少し出かけてきます」
火傷しないように、ゆっくりと茶を啜りながらそう告げた。
「こんな朝からどこへ行くのだ?」
「弦ヶ丘へ、行ってみようかと思いまして」
「今日行くのか? 昨日の角狩りで、一角狼らは警戒しているはずだ。危険すぎる」
「承知の上です。しかし
「そうか。ならば儂も行こう」
磊落が「散歩にでも行こう」と言うような気軽さで言ったものだから、野火は一瞬、返す言葉を忘れてしまった。磊落はうっすらと生える胡麻塩のような髭をかきながら、栗花落に「弁当をこさえておくれ」と声をかけている。
「いけません、先生」
ようやく出た言葉は、声が裏返りそうだった。
「危険とわかっているところに、先生をお連れするなんてできない」
「危険? 侮るなよ小童、儂はまだまだ現役だ」
「こっ、……俺、もう二十六ですよ」
「その程度なぞ、儂からすればまだまだ小童だ。それに、儂も気になることがあるからな」
「狼女……、ですか」
「真か偽りかわからぬが、ちいと気にはなるのでな。なに、おぬしのことはそのついでだ」
どっこいせと重い腰を上げ、磊落は伸びをして身体をほぐし始めた。
(ついで、か)
そのほうが、野火が受け入れやすかろう。そう思っての、優しさから出た言葉であったにちがいない。けれど。
(そう言ってくれるなら……辞退するのは、容易い)
「それなら、そちらも俺が調べてきますよ。先生のお手を煩わせるまでもありません。聞けば、先生はこれから塾があるそうじゃないですか。ねえ、栗花落さん」
「ええ。そうだけど、」
「なら、先生は子供たちに、先生の叡智を授けてやってください。俺は、この六年ずっとひとりでやってきたことです。慣れていますから」
心配無用。そう伝わるように、野火はくしゃりと微笑んで見せる。
「先生も俺と同じように、今己が成していることに生きる甲斐を見出しているのでしょう。それぞれの場所で、それぞれに」
「それは、そうだが、」
「それに、先生。俺は昔、先生の授業が好きだったんです。とても楽しみでした。だから、」
お為ごかしのようだな──心の片隅に、そんな後ろめたい思いが蹲っているような気がした。
「きっと、今日来る生徒さん方も、先生の授業を楽しみにしていると思うんです。期待を裏切ってしまうのは、かわいそうですよ」
野火の説得に観念したのか、磊落はもう一度座布団に腰を下ろした。
「……十分に、気を付けるのだぞ」
「お気遣い、痛み入ります」
野火は残った茶を飲み干し、ふたりに頭を下げてから立ち上がった。傍らに置いていた刀を佩き、居間の障子を開ける。透明な朝の陽光が降り注ぐ庭で、夜露に湿る苔むした庭石が、きらきらと光を跳ね返していた。眩い。そう思いながら、一歩、廊下へ踏み出す。照る陽にぬくもった廊下が、野火の重さを受けぎしりと軋んだ。
「野火君」
つと、栗花落が呼び止める。
「気を付けていってらっしゃいね。──ちゃんと、帰ってくるのよ」
ふうわりと、しかしどこか哀愁のある笑みを浮かべながら、栗花落は野火を送り出す。
(……、気のせいか)
なぜだろう。栗花落の笑みは、じくりと、胸の奥に爪を立てられるようだ。
「日暮れまでには帰ると思いますから……ええと、あの。夕飯、お願いしてもいいですか?」
思わず、帰宅を約束する言葉が口を飛び出した。野火がそう言うと、栗花落はほっとしたように頬を緩め、「任せてちょうだいな」と胸を張った。
屋敷の裏手から弦ヶ丘の深みへと続く
(……帰る、か)
その言葉のなんと、胸にすとんと落ちぬことか。喉のあたりでわだかまり、どうにも飲み下せぬ魚の小骨のようである。
──絶対一緒に、生きて帰るんだからね。
心の奥深くに仕舞っていた声が、栗花落の声に引き上げられ、野火の脳裏でだぶって聞こえた。
何層にも降り積もった腐れた落ち葉が、足を踏み出すたびに柔らかな音を立てた。森の深みへ進むにつれ、足元に届く日差しは薄らいでいく。腐った倒木。獣の糞。幹の合間を風が嘆き声をあげながら、腐敗のにおいをはらんだ手で、野火の頬をなぜていった。
不快な風の向かう先、今にも枯れんとしている、萎れた
虚ろを体現したような竜胆の姿は、暗澹たる思いを野火の心に蘇らせる。しかしそれが、野火の本来の居場所なのだ。屋敷での穏やかな一夜が過ぎ去り、振り返っても屋根瓦さえ見えない森の懐に至ってようやく、野火はそのことを思い出した。
(……無責任なことをしたかな)
栗花落との、夕餉の約束。軽々にでた言葉を、野火は後悔し始めていた。
しばらく歩き続けると、次第に木々がまばらになり、小径の勾配が険しくなった。上り坂の頂上付近の木が日差しを背負い、黒々とした細い陰影を幾本も浮かび上がらせている。その影の後ろから射す光芒が眩く、目を眇めながら白の直中へと足を踏み出した。
光の帯を潜り抜けると、開けた場所に出た。ぽっかりと開いた空の高みでは、ざらついた鱗雲が、天の青を波立たせている。木々の下生えの並びには、黄色い花弁を付けた
薄のすぐそば、倒木のささくれ立った樹皮の上に、野火は探していたものを見つけた。
血痕だ。
(やはり、怪我をしているか)
屈んで軽く触れてみれば、乾いた手触りがした。当たりを注意深く見回してみると、雑草の葉にひとつ、石くれの上にふたつと、森の奥へと続くような、連なる血の跡を見つけることができた。
立ち上がろうと自身の足元に視線を落とした時、野火はそこにあるもうひとつのものに気が付き、眉を顰めた。
(これは、……足跡だ。人間の)
雑草の薄い土の上に、足跡が残されていたのだ。それは野火のものより一回りは小さく、子供のものであるようだった。
(ほんとうに、狼女がいるのか?)
八十瀬衆の見間違いではないのか。野火は内心、そう思っていたのだ。しかしこんな山奥に子供の足跡がある理由など、他に思い当たらない。ずり下がった背嚢を背負い直し、野火は血の跡を追って、再び弦ヶ丘の奥地へと歩みを進めた。
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