三 野火の本懐②
いつしか小径は途絶えた。時折低木の枝に目印の紐を結びながら、道なき道を歩いていく。落ち葉の隙間、茸の笠の端、苔むす岩のくぼみの中——ともすれば見落としてしまいそうなかすかな赤い痕跡を、野火は辛抱強く探し当てた。
(あれは……、
そうして歩き続けていると、野火の耳が水の音を捉えた。川縁に向かって緩く下る斜面の底に、細いせせらぎが見える。その上流には、切り立った巌の上から枝分かれしながら落ちる、銀糸のような滝があった。翡翠色に揺らめく滝壺へ厳かに注ぎ、細かな泡沫を含みながら、せらせらと野火のいる下流へと流れてくる。
(なんだ、……洞窟?)
滝を背負う巌の端の暗がりに、ぽっかりと口を開けた穴を見つけた。目を凝らしてみれば、それは案外広い空間がありそうで、一角狼でも入れそうなものだった。
調べてみるか。そう思い、野火が止めていた足を踏み出した、そのときだ。
遠吠えがした。森のしじまを鋭く穿ち、驚いた鳥たちが羽を散らして飛び上がる。
これは、合図である。
狩りが始まるのだ。
背後の茂みから、がさりと葉擦れの音がした。振り返ると、いつの間にこんなに近くにいたのか、薄灰色の一角狼が、ぎろりと野火を睨みつけていた。一頭だけではない。右手の木陰にも一頭、川縁の低木の傍からも一頭、いずれもしわがれた唸り声をあげながら、唇を捲りあげて太い牙を見せつけてくる。
そんな状況であっても、刀に手は伸ばさなかった。道中の護身用にと佩刀してはいるが、一角狼に対しては決して抜かないと、この旅を始めたときから決めているのだ。
額の印に意識を集中させた。練り上げた感情の雫が波紋を広げ、一角狼の心の芯に、じかに語りかけていく。
(落ち着け。俺は、敵ではないよ)
「なんだこの男は」と、背後の茂みから顔を出した一角狼が、はて、と小首をかしげた。捲りあげていた唇を戻し、黄みの強い琥珀の瞳で、注意深く野火を見つめてくる。
(お前たちの誰かが怪我をしているんじゃないかと、確かめに来たんだ)
川縁の一角狼は、耳をぴんと立て、野火の心式に心を傾けている。一方、木陰の一角狼はいまだ鼻先に皺をよせ、警戒を解く気配はない。野火はもう一度濃く練った感情の雫を、警戒気味の狼の角に向かってこぼしてみた。より深く、彼の心に届くように。
(お前たちを助けたい。怪我をしていないか、みせてくれ)
野良である彼らと話すのは、骨が折れる行為だった。何層にも重なる警戒心や猜疑心の膜を丁寧に剥がし、やっと開いた糸のように細い隙間から、心の芯にそっと語りかけるのだ。噴き出した玉のような汗が、つうと
(通じるか──?)
そう期待した矢先、もう一度遠吠えがした。同時に、野火が作り出した感情の波紋が乱されるのを感じた。誰かの強い心式で、野火の心式が相殺される。
(誰だ、)
決まっている。
(狼女──!)
「
遠吠えがした辺りから怒声が聞こえた。滝がしぶく巌の頂上、幹のひしゃげた楓の傍らに、その少女は立っていた。
まだ十代の半ばもいかないくらいか。鳥の巣のように絡まった長い黒髪を靡かせ、琥珀色の鋭い眼光で野火を見下ろしている。着物は体に不釣り合いに小さく、短い裾から華奢な白い足が覗いていた。それに頓着することなく、少女は巌の上で仁王立ちし、よく通る声で一角狼らを叱りつけた。
「なぜ迷う! 噛み砕け!」
物騒な言葉を吐き、少女は口元に手を翳して遠吠える。それは野火が聞いても、本物の一角狼の遠吠えかと思うほど、獣然とした声であった。先ほどから響いていた遠吠えは、この少女のものであったのだ。遠吠えと同時に、少女の心式が波紋を広げた。津波のように激しい心式に反応し、一角狼らが野火を再び敵と見定める。四対の双眸に射竦められ、胃の腑が縮むような息苦しさを覚えた。
(これは、──殺されるな)
野火は瞬時にそう悟る。
それは心の奥に秘めていた、ある本懐を呼び起こした。
(ああ……ようやくだ)
ずっと、この
心の奥底から沸き上がる、震えるような高揚感。四対の殺意ある双眸に射竦められたとき、それは正しく訪れるはずの死への恐怖を、遥かに凌駕してしまっていた。
しかし、少女の指示通り三頭が野火に飛びかかろうとしたそのとき、少女の後ろからもう一頭の一角狼が現れた。雪のように白い毛並みをしたその一角狼は、少女の隣で天を仰ぎ、高く長い吠え声を上げる。予期せぬ邪魔立てに動揺し、三頭の一角狼らはたたらを踏んで立ち止まった。
「
かっとなった少女は、白雪の一角狼——細を突き飛ばした。細はびくともしなかったが、赦しを請うかのように耳を伏せ、甘えるように少女の口元をぺろりと舐める。細の
「自分でやる」
少女は巌を這う楓の根を伝い、器用に岩壁を降りると、真っ直ぐに野火の方へと向かってきた。手には抜身の短刀が握られている。逆手。強く突き立てる気だ。
野火は、殺意に突き動かされる少女を、ぼうっとしながら迎えていた。普段ならば子供の振るう短刀など、避けようと思えば容易く避けられる。けれども野火の両足は、地に深く打ち付けられた杭かのように、少しもその場を動けない。
抗いようもなく、魅力的だったのだ。
怒れる少女に触発され、
(あれは、獣だ。人の形をした、狼だ)
少女が、目前に迫る。
(ならば俺は、──一角狼に殺されるんだ)
ぎらりと光る金眼も、喉元に噛みつかんとする歯も、むき出しの感情も、握られた刃も。
全て。
この身で受け、この身を滅してしまえばいい。
「──、なぜ」
少女が野火の腹に突き立てた短刀から手を離した。どろりとした赤い血が、小さな手を汚している。
「なぜ、笑う」
視界に暗幕が引かれる前に、野火は少女の戸惑いに揺れる金眼を見た。
気に病むな。俺が望んだ結末だ。
そう伝えたかったけれど、口からは掠れる息が漏れるだけ。
そして、何も見えなくなる。
──……十分に、気を付けるのだぞ。
(先生を連れて来なくてよかった)
磊落に「生きる甲斐を見出している」などと、よく言ったものだ。
──ちゃんと、帰ってくるのよ。
(守る気のない約束などして、すみません)
真逆なのだ。たったひとり、一角狼との対峙を繰り返すこの無謀な旅は、死ぬ甲斐を求めての行いなのだ。
ふたりとも、野火の白々しい言葉の羅列を信じただろうか。一抹の不安を抱くからこそ、磊落は同行を申し出、栗花落は野火の胸中に爪を立てたのではないのか。
(……すみません。俺は結局、恩知らずのままでした)
今にも消えそうな記憶の灯が、ぐるりぐるりと、廻っては消えていく。そしてついに、求める声が廻ってきた。
──絶対一緒に、生きて帰るんだからね。
(野風、)
ようやくだ。
(俺も、お前と乾のもとに行くよ)
ここへ至る道すがら見かけた、萎れた竜胆の姿が、ふと意識の片隅に蘇った。あれは、己の姿だ。幾千幾万にも降り積もる、
次第に花の輪郭が曖昧になり、鬼火のようにうつろって、じわりと闇に溶けだした。
色は、すべて消えた。
野火は本懐を遂げた。
安息を得たのだ。
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