二幕 狼女

一 未明の悪夢

「私も朋角ほうかくを得たの。狼士になったのよ。兄さんと同じ、双角隊そうかくたいに入れるわ!」

 嬉しそうに報告してくる野風に、野火は渋い顔をした。

「お前が? うそだろう」

「ほんとうよ! これで、私も守られるだけじゃない。強い女になった証拠だわ!」

(強い女だと? そんなもの──勘違いも甚だしい)

 そう言いかけたが、野火は口を噤んだ。妹が心底嬉しそうに、目を輝かせていたからだ。今まで生活の多くを頼ってきた、兄の負担を減らすことができる。野風はそれを誇りに感じ、隣に立って力になれることを喜んでいた。

 種族の垣根を越え、無二の相棒となる朋角は、新たな群れを得ようとしている野山の一匹狼か、もしくはすでに相棒と死別してしまった狼と、新たな絆を結ぶことで得ることができる。友人である軍医の栗花落つゆりのもとへ、野風は暇さえあれば足を運び、傷付いた軍狼の治療の手伝いをしていた。そこで、幸か不幸か、連れを喪った一角狼に、気に入られたのだという。

 六合軍の中で数の少ない朋角を得た者狼士たちは、必ず従軍を命ぜられ、戦うことを余儀なくされた。それは狼士の武術の腕如何よりも、一角狼を人間の戦に交えることを可能とする、心式の腕こそを重視されるということだ。双角隊──人間と一角狼の合同軍。一騎当千を誇る精鋭部隊といえば聞こえは良いが、常に戦に駆り出される、致死率の高い隊であった。

 野火のこの純真な妹は、理解しきれていないのだ。強さから狼士へ抜擢されるのではない。一角狼という軍部の宝が付いているから、武術に未熟な者でも抜擢されてしまうのだ。

「……駄目だ。断ってきなさい」

 野火が反対の意を示しても、野風は首を立てには振らなかった。

「いやよ。私にだってできる」

「危険すぎるよ。一角狼に振り回されて、背にしがみつくのが関の山だ」

「馬鹿にしないで。できるったら!」

 顔を林檎のように真っ赤にして、野風は声を荒らげた。

「兄さん、わかってない。私は、もう守られるだけは嫌なの! 私だって──兄さんを守りたい」

「でもな野風、双角隊はそんな甘いところじゃ、」

「知ってるわよ! 子供扱いするのはもうやめて!」

 高ぶった感情を抑え込もうと、胸元の衿を握りしめている。

「双角隊入りの手続きは済ませたんだから。兄さんが何を言っても駄目よ。私は、私の意志で一角狼を駆るの」

 見据えてくる野風の眼光が、野火を一途に射竦める。そこには、幼い頃に瞳に住まわせていた、優しさや憧れといった、きらきらとした光はない。成熟した、強い意志の光があった。

(野風も……もう大人だ。俺がどうこう言う権利も、ないのかもしれない)

 本当は早く誰かいい人と結ばれて、いわゆる普通の幸せを手にして欲しかった。秘密にしていたけれど、白無垢を着て幸せそうに笑う妹を見ることが夢だった。けれどもそれは野火の夢であって、野風の夢ではない。己の夢を押し付け、妹の人生の道を敷いてしまうことが、おこがましいように思えた。

「……お前の決意は、わかった。好きにするといい」

「兄さん! わかってくれると思ったわ」

 野火の腰に抱き着き、野風は満面の笑みを浮かべる。その愛くるしい様に、自然と頭を撫でていた。

「だけど、これだけは約束してくれ。必ず俺の傍にいるんだぞ。遠くに行ってはいけないよ」

「過保護ね」

「違うよ。俺を守ってくれるんだろう? 傍にいないとできないじゃないか」

 「それもそうね」と、野風はくすくすと笑みをこぼした。

──のちに、思う。この時、強く反対していればと。野風の意志など突っぱねてしまえばよかったと。

 野火は、傲慢だったのだ。野風が軍属を強く望み、それを己の道とするならば、俺が傍にいて守ってやればいいと思っていた。そうやって、個の意志を尊重する理解のある兄を演じ、妹をひとりの大人と認めるふりをして──その実、庇護下を出す気など、さらさらなかった。自分の力なら、妹ひとりくらい守れるのだと、己の力を過信してさえいた。

 その報いを受けたに違いない。

 野風は死んだ。野火が危惧した通り、一角狼の背から落ちたところを、帝国兵の剣に胸を一突きされたのだ。野火が見ている、目の前でのことだった。

 泥にまみれて転がる、白い手首が恐ろしかった。流れ出る血潮が、うつろな瞳が。断片的に脳裏に焼き付く幾つもの光景は、野火の中の何かを壊す。我を失い、目につく帝国兵をいぬいとともに片っ端から斬りつけて走った。斬って、斬って、斬って──

 どっと、肩と腿に衝撃を受け、我に返った。帝国兵の矢が、己の身体から生えている。激痛に蹲る野火を、乾が覆いかぶさるようにして守った。

「乾、どけ」

 帝国兵の矢が、雨のように降ってくる。

「俺を置いて、早く行け!」

 乾は、頑として野火の上からどかなかった。

「俺なんて置いて逃げてくれよ。なあ、乾──!」

 覆いかぶさる相棒の胸を、何度も拳で殴った。けれども乾は矢の雨が止まるまで──否、止まってからもずっと、野火の上から動かなかった。

 乾の下からやっとの思いで這い出すと、既に帝国兵の姿もなく、周囲は静まり返っていた。東の山の稜線が朱に染まり、暁光が薄闇を照らし始めている。はらはらと降り始めた日照雨そばえが、背から数え切れないほどの矢を生やした乾の身体を、音もなく洗い流していた。

(なぜ……俺が、生きているんだ)

 冷たく、硬くなってしまった乾に、そっと触れる。濡れそぼった毛に顔をうずめると、明度を増す暁光も、野火の瞳には届かなかった。

(──暗い)

 真っ暗だ。きっともう、この夜が明けることはない。

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