二 孤独な少女①

 耳が、規則的に岩を叩く、水垂の音を捉えた。

 ぴちょん、ぴちょんと、軽快に跳ねては地面に落ち、湿った土に吸い込まれていく気配がする。

(ここは……どこだ。俺は──)

 まどろむ意識の片隅で、今度は鼻が懐かしいにおいを捉えた。土埃と、水と、僅かに糞尿が混じったような、生々しいにおい。濡れた獣のにおいだ。

 ではやはり、ここは熒惑平野けいこくへいやなのだ。死してなお、悪夢が始まった場所から逃れられないということか。野火は白んでいく闇の中で浮き沈みしながら、懐かしい感触に手を伸ばした。

 雫をまとった硬い上毛。そこに手を埋めれば、人よりも高い体温にぬくめられた、柔らかな下毛が指に絡む。

(幻の中のいぬいは……温かいんだな)

 その温度に頬を寄せる。懐かしい、乾のにおいがする。

「——、」

 ふと、誰かに呼ばれた気がした。

 声の主が、頬に張り付いた髪を優しく払う。こちらは少し、ひやりと冷たい。野火は気怠さに重い目蓋を、ゆっくりと押し上げた。揺れる黒髪と白い頬が、おぼろげな輪郭で覗き込んでいる。

 ああ、お前か。迎えに来てくれたのか。

「の、かぜ……?」

「おい、しっかりしろ」

 ばしりと頬を叩かれ、野火はようやく確かな意識を手繰り寄せた。

「気が付いたか。よかった」

 野風ではない。一度見たら忘れようもない、狼のような琥珀色の目をした少女が、野火を覗き込んでいる。それは意識を失う前、明確な殺意を持って、野火を睨みつけていた眼であったはずだ。

 しかし今、そこには敵意のかけらも見当たらない。ほっとしたように頬を弛める少女の顔を、野火は呆然と眺めてしまった。

(なぜ……)

 意識の覚束ないまま、野火はぐるりと視線を巡らせた。

 木の根が這う、黒々とした土の天井があった。じとりと湿り気をはらみ、時折染み出た雫を落としては、地面に転がる石くれを叩いている。かすかな光が差し込むうろの入り口には、野火が眠っている間に降り出した雨が、斜めにしぶいて吹き込んでいた。

(……滝のそばにあった、洞窟の中か)

 暗い洞を照らす焚火の色が、顔の周りで火の粉のようにちらちらと光っている。野火を包む白い毛並みが、細かな光を跳ね返しているのだ。白。その色が、野火の心を絶望感に昏くする。

(ああ……これは、乾ではないのだな)

 乾の毛は、金の麦穂を思わせる、明るい小麦色だった。

 横たわる野火の身体は、襲撃を止めようとしていた白い一角狼、ささめの毛皮に包まれていた。伏せて丸まり、まるで子供を抱く母のように、野火を懐に抱いている。

 少女に刺された腹が、鈍い熱を持っていた。霞みがかった意識の中で、具合を確かめようと傷に手を伸ばし、はたと気が付く。腹にはさらしが巻かれており、拙い出来栄えだがきちんと手当てがされてあるのだ。野火のほつれた古衣は脱がされおり、代わりに女物の着物でくるまれている。野火の衣は雨にしとどに濡れたらしく、岩の突起にかけられて、焚火で乾かされていた。

(俺は……まだ生きているのか)

 何度も、何度も、雨の熒惑平野を夢の合間にさまよい、苦しみを反芻はんすうした。けれども未だ、野風と乾のもとに行くことは許されないようだ。

(ようやく、と、思ったんだけどな)

「なあ」

 呼びかけられ、野火は夢想に浸る意識を呼び戻した。

 野火の視線を得ると、少女は伏せる野火のそばで、かしこまったように正座をした。訝しく思ったのも束の間、次の少女の行動に、野火は唖然としてしまった。

 手を付き、額が地に擦るほどに、深くこうべを垂れたのだ。

「突然襲い掛かって、傷を負わせてしまって……ほんとうに、ごめんなさい」

 返す言葉が思い浮かばなかった。沈黙の中で、ぱきりと薪のはぜる音がする。

「私は、訳あって追われる身なんだ。だからいつものように、また逆印のやつらが襲いに来たのかと思って……」

「逆印?」

 問えば、少女は顔を上げ、前髪をかき上げた。額には、野火の額にあるものと同じ、朱墨で書かれた三角形のいんが刻まれている。

「一角狼と心を通わせるものは、皆この角の印があるでしょう? やつらはこの角の印をひっくり返したような、見たこともない逆三角形の印を額に刻んでいるんだ。だから、逆印と私は呼んでいる。でも、」

 少女が野火の額に手を伸ばす。長い前髪をかき上げ、その下にある角の印に、冷えた指先でそっと触れた。

「お前は、逆印じゃなかった。ただの狼士だった。私が、はやとちりして間違えてしまったんだ」

 少女の冷えた指先から、強い後悔の念が伝わってくるような気がした。

(この子は、)

 ふつふつと、野火の胸の奥にも、後悔の念が沸き上がる。

(一角狼では……獣などでは、ない)

 生に疲れ、死に魅入られるがばかりに、そんな当たり前のことすら、曇った両目は見えていなかった。少女の純粋な優しさに触れて、ようやく野火は気が付いたのだ。

(こんな幼い子に、俺は、死ぬ甲斐を……押し付けようとしたのか)

 過ちを認め、心から悔いる。言葉でもって赦しを請い、真心を込めて相手を介抱することができる。

 それはまごうことなく、人のさがではないのか。

(この子は、心優しい──人間だ)

 うなだれる少女の眦に、自責の念で涙が光る。痛む腹をかばいながら、野火は上体を起こして見せた。

「君が謝ることなんてない。俺は大丈夫だ」

「でも、ひどく痛むだろう?」

「俺が無謀なことをしていただけだ。君は悪くない」

「……どうして怒らないんだ? 私はお前に憎まれても、仕方がないと思っていたのに」

「怒ったりなんてしないよ。だって──、」

 出かかった言葉を、すんでのところで飲み込んだ。

(野風と乾が死んだときに……怒りはこの身からすべて吐ききってしまったんだ、なんて。この子に言ってもわからないか)

 熒惑平野から帰ったあの日、己の内の怒りというものを、磊落らいらくの前ですべて搾り出してしまったように思う。あれ以来、感情の起伏に乏しくなった。国を放浪する最中、流浪者への心無い言葉や行いを受けたことは幾度かあった。けれども野火のがらんどうとなった内側は、ただ害意ある風を素通りさせ、心の何をも刺激することはなかったのだ。

「俺の方こそ、謝らなくてはいけないんだ」

 この少女とは、互いに行き違いがあったのだ。しかしそれも、真心でもって助けられた。ならば。

(俺も、そうあらねばなるまい)

 本懐は、遂げられなかった。野風と乾の幻は、夢想の中に溶けていき、野火の指をすり抜けた。その代償を、野火のことなど何も知らない、この子に背負わせてはならないのだ。幼い彼女の自責の念を、取り払ってやらなくては。

「俺はずっと……死に場所を、探していた。だからひとりで、一角狼の手助けをする旅をしていたんだ」

 腹が痛む。言葉を発することがよほどに辛く、額には玉の汗が浮かんだ。

「俺は、大きな間違いを犯してしまって……その償いをするには、己ができることを、最大限しなくてはならないと思った。そうして、俺ができることをこなす中で、その果てに命が潰えたなら、」

 次第に増していく痛みに、視界が霞んでいく。途切れそうな意識の片隅に、放浪を始めたころに出会った、傷ついた一角狼を思い出していた。傷が癒えた狼は礼だとばかりに、温かな舌で舐めてくれた。あの温度、あの感触。それらをつなぎ、守ることができるならば。

「ようやく、亡くした家族に……会いに、いけるのだと──」

 己の過ちが。傲慢が。許されるのではないかと思った。そんな僅かながらの慰めとともに、ここ至るまでたったひとり、無謀な旅を続けてきたのだ。

 それでも、ふたりのもとに行くことは叶わなかった。手にし損ねた望みの影が、心の内を焼かれるような、強い追慕の念をいだかせる。

(会いたかった。ああ──、会いたかった)

 目を閉じる。目蓋の裏の暗闇が、じわりと熱を持っていた。

「その、自分勝手な、死に甲斐を、俺は、君に──」

「わかった。もういい、しゃべるな」

「すまな、かった。だから、君が気に病む必要は、」

「いいから」

 少女の手が、やんわりと肩を押す。細の腹に横たえさせると、野火の額に浮かんだ汗を、そっと優しく拭ってくれた。

「私の名は、──宵越よいごし。目が覚めたら、また少し話をしような」

 身体を包む細の心音が、とくり、とくりと、一音刻むごとに、野火のそれと混ざり合う。

「眠れ。それまで、私と細がそばにいる」

 少女の声が、優しく鼓膜を揺らす。痛みに霞む意識の中、かすかに甘やかな感触が、心地よく耳に残った。


 心音が聞こえる。野火の内まで響いてくる、力強い、命の音だ。

(あの……白い一角狼か)

 名は確か、細といったか。覚めきらぬまどろみの中で、野火は乾と同じ感触を求めて、無意識に手を伸ばした。深い毛並みに指が埋もれる──はずだったのだが。

(……、?)

 指先に感じたのは、なにやら柔らかく、すべらかな手触りだった。額に感じるかすかな寝息に、はっとして目を見開くと、目の前には細の毛ではなく、衣を寝崩した宵越の胸元があった。どうやら野火に寄り添って、ともに細の懐で眠っていたようである。

 まどろみの欠片すら、一瞬で飛び去った。野火は慌てて身を引こうとしたが、しかし何かが邪魔をする。

(……まいったな)

 宵越の腕が、しっかりと野火の頭を抱えているのだ。規則的な寝息が野火の額をくすぐって、揺れる前髪がこそばゆい。

抱擁を解こうと、控えめに身を捻ってみた。起こさないように気を遣ったつもりだったが、野火の身じろぎに気が付いたのか、宵越は「ううん」と小さなうめき声をあげた。

 鼻と鼻が触れそうなほど近くで、宵越が目を開けた。野火が起きていることに気が付くと、寝惚けまなこに笑みが浮かぶ。

「目が覚めたか」

 解こうとしていた抱擁に、再び力が込められる。彼女のはだけた胸元に抱き寄せられると、頬に熟れたすもものような柔さを感じた。

「こ、こら。よしなさい」

「なぜ」

「女の子が、そんなことをしてはいけない」

 宵越の肩を押して身を放すと、彼女は野火に窘められる意味がわからないのか、きょとんとした顔をしていた。

「もう、悲しくはないか?」

「悲しい?」

 宵越の細い指が、野火の前髪を払い、目元をなぞる。

「昨日、泣いていたから」

「……俺が?」

「うん。眠りにつく前、少しだけ」

 かあっと、両耳の奥から火が付いたように、急に頬が火照り出した。

(泣いた? 俺が?)

 ああそういえばと、おぼろげな記憶を手繰り寄せる。彼女と話をしている途中、目蓋の裏が熱かったような気がしないでもない。沸き上がった追慕の念が、まさかそんな形で漏れ出してしまうとは。

(……不覚だ)

 ずっと誰にも、磊落や栗花落、野風にさえ、涙など見せたことはなかったのに。内に秘めていたものを吐露したことで、心の堰に不具合でも生じたのか。

「男の人の涙は、初めて見たからびっくりした」

 悪気もなく、宵越は言う。火照りを増す野火の頬を、涙の跡を拭うかのように、優しく両手で包み込んだ。

「昔な、私が泣いていると、母様がよくこうしてくれたんだ。そうすると、不思議と気持ちを落ち着けることができた。だからお前もそうなるようにと、思ったんだけど」

 宵越の声に、きらきらとした期待の色が光る。

「なあ、よく眠れただろう?」

「あ、ああ。そうだな、ぐっすりだった」

彼女の胸を細と間違えるほどに、深く眠ってしまっていた。その事実に恥じ入ってしまい、どうにもこうにも居た堪れない。早く抱擁から解放してほしくて、野火が強めの肯定を示してみせると、宵越は満足したらしく、「よかった」と言って身を起こした。

「何か食べ物をとってくるから、もう少し横になっているといいよ」

 そう言い残し、着崩れていた衣もそのままに、宵越はさっさと洞を出て行ってしまった。

 宵越の見えなくなった背を追うように、細が首を上げた。強張った寝起きの身体をほぐしたいのか、もぞもぞと身じろぎをしている。

「重いか。すまない、起き上がるか?」

 身体を起こそうとするが、しかし鋭い痛みが腹に走った。見れば、血の滲んださらしは寝崩れており、傷口が見えてしまっている。

 その傷の姿に、野火はふと、眉を顰めた。

(……縫ってある?)

 縫い目は荒い。傷口もうまく合ってはいない。けれど、これは治療の基本を知っている者の、手当の仕方であったのだ。

(あの子は……何者だ?)

 陽光差し込む洞の入り口に、宵越の気配はすでにない。涼やかな川のせせらぎと、時折響く百舌もずの高鳴き。そうした山の息吹らが、木々に紛れた少女の気配を、すっかり隠してしまっていた。

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