二 孤独な少女②

「なあ、これ、これなんだっけ。見たことある気がするんだけどなあ」

「それは方寸匕ほうすんひ。薬を量る匙だ」

「じゃあ、こっちは? この包みはなんだ?」

「それは俺が調合した、痛み止めの粉薬が入ってる。当帰、甘草、藪人参の根とか……他にも、いくつかの薬草を混ぜてあるよ」

「野火は薬が作れるのか! それはすごいな」

 宵越は目を輝かせながら薬包を摘まみ上げ、「なあ、きっと苦いんだろ?」と、いたずらっぽく笑って見せた。

 先刻、食事の調達から帰った宵越の両手には、沢で捕まえた山女魚やまめが四匹と、赤紫色に熟した郁子むべが抱えられていた。山女魚を枝に刺して焚火で焼くあいだに、ふたりは郁子を頬張った。小刀で半分に割り開き、内に詰まった煮凝りのような果肉を、無数の細かな種ごと口に含む。果肉を舌でしごき取ると、まったりとした甘さが舌の上でとろりと蕩けた。

 残った果皮に種を吐き出しながら、野火は傷めた腹をさすった。

(刺す直前に軌道を変えたな。……細のおかげか)

 じくじくとした痛みは引かないが、命に係わるほどの深手ではなかった。短刀が刺さったのは腹の端で、幸い臓腑を痛めはしなかった。しかしそれでも、血を失った身体はだるく、魚を口にするほどの食欲はない。

 魚は細にでも食べてもらおうか──そう思っていたときに、宵越が野火の背嚢を持ち出してきたのだ。どうやら野火の腹の手当てに使った針や糸、さらしなどは、勝手に野火の荷物から拝借したようだ。その時に見つけた道具や薬の数々に、宵越の興味は尽きなかった。火にかけた魚のことなどすっかり忘れ、次々と新たなものを、背嚢から引っ張り出してくるのである。

「なあ、君はどこかの医者か、貴人の子なのか?」

 ふと問うた野火の言葉に、宵越は持っていた薬包を脇に置き、首を傾げた。

「どうして、そう思うの?」

「方寸匕を見たことがあるって言うからさ。それに、傷の縫い方を知っているだろう?」

「ああ、そっか。傷の手当てのやり方はね、母様が教えてくれたんだ」

「母様? じゃあ、君の御母堂は、医──」

「あ! ねえ野火、これ。これはなに? 鋏……にしては刃がないけど」

 荷物を漁っていた宵越が、話を聞いているのかいないのか、新たなものを引っ張り出して掲げてみせた。

「それは金鋏。刺さったやじりを引き抜く道具だ」

 途端に、宵越の嬉々としていた表情が翳った。

「……以前、群れの一頭が、おそろいの袢纏はんてんを着た男たちに射かけられたことがあった。どうやっても鏃が抜けずに、肉の中に残ってしまって……次第にまわりの肉が腐れていって、そいつは死んでしまったんだ。これがあれば、抜いてやれたのかな」

 揃いの袢纏。八十瀬衆やそせしゅうの仕業であろうと、野火には察しがついていた。そうとは知らぬ宵越は、どこか申し訳なさそうに、手垢に黒ずんだ金鋏を握りしめる。

「かわいそうなことをした。……細の息子だったんだ」

「では、昨日俺を取り巻いていた三頭も、細の子か」

「そうだよ」と宵越が頷く。

あわと、しずりと、まだら。私の家族だ」

 宵越が短い吠え声を上げると、すぐに洞の入り口から三つの顔が覗いた。並んでいるところを見ると、毛色の濃淡はあるにせよ、瞳の形や耳の付き方などは、なるほど細によく似ている。

「そうだ、怪我をしているやつがいるんじゃないか? 一昨日、その袢纏の男たちと争っただろう」

 野火がこの洞へ至ることとなったきっかけ──狼女率いる群れが、八十瀬衆と争い怪我をしているのではないか。その懸念から弦ヶ丘の奥地へと足を踏み入れ、証である血の跡を追ってきたのだ。

 野火の問いかけに、宵越は渋い顔で頷いた。

「細のつがいだったしんが捕まってしまって……新を助けようとした斑が、男たちの矢に当たって、結構血が出たよ」

 一番色の濃い灰色の顔が、くう、と喉の奥を鳴らしながら小首を傾げる。最後まで野火を襲うか決めかねていた、木陰から現れた一角狼だ。

「でも運よく、きれいに矢が抜けたから。大丈夫だと思う」

「そうか、それはいい。安心した」

 野火の安堵の言葉に、宵越は不思議そうに首を傾げた。一角狼と同じ琥珀の瞳が、僅かにきらりと色を揺らす。

「なあ、野火は、もしかして……斑のことを、心配して来てくれたのか?」

 一言ずつ、確かめるように、ゆっくりとそう問うてくる。野火が頷くと、揺れた色がわっと花開き、宵越の頬を桃色に染めた。

「ほんとうに? 偶然ここに来たわけではなく、斑が、心配で?」

「ああ。昨日言ったかもしれないけど、俺は一角狼を助けることに……死ぬ甲斐を求めていたから。あまり褒められた動機じゃないんだが──、うわっ」

 突然、宵越が野火に飛びついた。そして細が彼女に対してそうしたように、宵越は野火の頬にすり寄り、口元をぺろりと舐める。郁子むべの、かすかな甘みを唇に感じた。

「宵越! そんなことをしてはいけないと、さっき言っただろう!」

「そんなの知らない!」

 野火の肩に、宵越は顔を埋めた。野火にかけていた女物の着物を強く握りしめ、色褪せた刺繍に皺を寄せる。細い肩がふるりと震え、鼻を啜る音がした。

(……泣いているのか?)

 宵越のどこにも触れまいと、握りしめた細の毛が手汗に湿る。圧し掛かられて増す腹の痛みですら、野火の狼狽を抑えてはくれない。

「私はうれしい。ただ、うれしいんだ」

 肩に感じる宵越の涙の温度に、野火ははっとする。

 そろいの半纏の男ら八十瀬衆と、彼女を襲うという逆印の者。宵越の周りには、どうやら心を許せる人間は、長いこと存在しなかったようである。細らを、彼女は家族と呼んだ。けれども己を一角狼の群れの一員だと位置付けたところで、やはりすべての孤独が癒されるはずがないのだ。

(なぜ、この子はこんな暮らしをしているんだ?)

 彼女の小さな着物は、いたるところが擦り切れて、相当な月日の経過を感じさせる。着丈は短く、幼子が纏うような代物だ。足袋も草鞋も履いていないのは、身体の成長に伴って、履けなくなったからであろう。

(いったい……何年?)

 握っていた細の毛を、殊更強く握りしめた。細はそんなことなど気にも留めず、野火に凭れかかる宵越の背を、何度も舐めては鼻にかかるような高い声で甘え鳴く。

「宵越」

 呼べば、宵越は素直に顔を上げた。真っ赤な目をして「ごめん、鼻が」と言いながら、汚してしまった野火の肩口を、手の甲で咄嗟に拭おうとする。そのくしゃくしゃの顔や、どうしようもなく溢れてしまった感情に戸惑ういとけない様が、野火の胸に懐かしい出来事を思い出させた。

 野風もよく、こんなふうに涙と鼻水で兄の衣を汚しては、「ごめんね、ごめんね」と謝りながら、一生懸命に手で拭っていた。大丈夫。そう言って頭を撫でてやれば、真昼に開いた花のように、ぱあっと明るく笑うのだ。

 頑なに握りしめていた手が──いつの間にか、宵越の頭を撫でていた。

「……なぜ、一角狼の群れで暮らす。傷の手当を教えてくれたという、君の御母堂はどこへ?」

 問えば、野火の肩口を拭っていた手が止まった。言葉を探しあぐねている口が、二、三度開いては閉じられる。

「母様は、……殺された」

 やっと返された言葉に、野火は息を飲んだ。

「殺されただと。なぜ、」

「そんなこと、私が知りたいくらいだ!」

 激昂した宵越は、やにわに立ち上がった。辛い記憶がそうさせるのであろう、宵越はきつく握った腕に爪を立て、白む肌が痛々しい。

「あいつらは、逆印のやつらは私と母様を襲った! 一角狼の群れに襲われて、必死で逃げたのに、でも私は、母様と細に守られて──」

「宵越。宵越、落ち着け」

 溢れる怒りを鎮めようと、宵越に手を伸ばそうとしたとき、掛けられていた着物がずり下がる。

「この着物は……母様の着物だ」

 再び膝を折り、宵越は母の着物を大切そうに掬い上げた。母の残り香を求めて、頬をそっと生地に寄せる。

 その着物は、宵越の衣と同じように古びてはいるが、元は仕立ての良いものであるようだった。経年に色褪せてはいるが、刺繍糸はおそらく絹。艶やかな色糸を織りこまれた豪奢な柄は、家柄の良さが窺える。

「誰か、君を探しに来る者はいなかったのか?」

「来たさ。逆印のやつらがな」

「そうじゃない。君を迎えに家の誰かが、」

「そんなもの──」

 宵越が、くっと下唇を噛みしめる。あとの言葉が続かない。

(──! 馬鹿か、俺は)

 こんな山奥にひとりでいる。それが、答えではないか。

「すまない。しかし、自分で町に下りようとは思わなかったのか? この山の麓には、太白があるだろう」

「町には……、母様が、下りてはいけないと」

 母の着物を抱えて蹲りながら、消え入りそうな声で宵越は答えた。

「息を引き取る直前の母様に、言われたんだ。私の、……名を呼び、細が信頼を示すものが現れるまで、決して山を下りてはいけない。細とともに隠れていなさいと。でも、来るのは細を傷つけ、私を殺そうとする逆印のやつらばかり。私を心配し、無事を喜んでくれる者は、誰も来なかった」

 引いたはずの涙が、再び頬を伝い落ちていく。洞にはもう、宵越の憤怒ではなく、行き場をなくした寂寞感に満たされていた。

「誰も、来なかったんだよ……母様」

 搾り出すようなその言葉は、今まで何度、彼女の口からこぼれたのだろうか。道端に落ちた石くれかのように転がって、そのまま誰にも拾われることはなかったのだ。

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