四 大事なひと②
湿った巌を打つ雨垂れの合間に、耳をつんざく鋭い金属音が響いていた。
「野火君……もうやめて」
栗花落の声にも、野火は振り返らない。刀を振り上げ、刃毀れするのも気に留めず、力の限り岩肌を叩きつけていた。
細と新は、宵越と隠れ住んでいた、滝の洞へと帰り着いた。
(細は、あの子の嘘を疑いもしない)
獣である細には、人の嘘が理解できない。しかし理解できる
(俺は……肝心なところで、どうしてこうも、不甲斐無い!)
壁を叩く。刃が欠け、岩が鳴る。完全な八つ当たりだとわかっていた。わかっていても、怒りが堰を切ったように溢れ出て、手をとめることができなかった。
闇雲に振り上げた手に、急に鋭い痛みが走った。磊落に刀を叩き落されたのだ。
「やめんか」
「……先生」
「当たり散らしたとてどうにもなるまいよ」
「そんなこと──」
声が震えた。己の奥底で、何かが切れる音がする。
「そんなこと、わかってますよ!」
かっとなって、拳を振り上げた。磊落はそれを真正面から受け止めると、そのまま強く握り込む。
「落ち着け、野火」
「野風のときと同じだ」
「違う」
「また大事と思った人が死ぬ。俺が不甲斐無いせいで」
「お前のせいではない。儂らと離れたのは、あの子の意思だ」
「意思? 意思だって? 命を捨てるような意思など、聞いてどうするんです! そんなもの聞かなければ、野風は死ななかった! 宵越だって──」
「いい加減にして!」
ずいと、栗花落がふたりの間に割り込んだ、次の瞬間。
ばしりと、頬を叩かれた。
「そんなものですって? 驕らないで。宵ちゃんも、野風ちゃんも、野火君の所有物ではないわ」
風が吹き込み、ごうごうと洞の中で渦を巻いた。野火の真っ白になった頭の中に、風と混じった栗花落の言葉が、痛いほどじかに流れ込んでくる。
「誰かと関わるとき、それは鏡と向き合うことと心得なさい。あなたが誰かを心から大事に思うのなら、そのぶんきっと、相手もあなたに思いを返す。それをそんなものと否定するなら、あなたが守っているのはただの自尊心よ」
膝の力が抜け、その場に座り込む。沸騰した頭の芯が、頬の疼きを伴って冷えていくのがわかった。
「こうと決めつけたり、考えることをやめてしまったりしては、誰と関わってもすべては独りよがりになる。だから……、宵ちゃんがあなたを大事に想う気持ちそのものを、否定してはだめ」
顰め面をしていた栗花落が、ふっと表情を和らげる。そうして励ますように、野火の肩に手を置いた。
「お願いよ。宵ちゃんのこと、諦めてなんてしまわないで。一緒に、なんとか助け出してあげましょうよ」
「……助ける?」
頷くと、栗花落は指をすっと下にすべらせて、野火の懐をつついた。手を入れる。指先に触れたものに、野火ははっとした。
「頭、冷えた? こういうことを考えるのは、私より野火君のほうが得意なはずよ」
白い錦の袋。その中には、あの小さな従針がある。
「それは秋霖の最も隠したい、影の部分の象徴であろう。紛失に気付かぬはずもない。その所在を突き止めるまで、宵越を無下に殺せんのではないかな」
──私刑は許さぬ。
屯所の庭で、秋霖は八十瀬衆が宵越を殺すことをとめた。姫君の存在が邪魔なだけならば、その場で仕留めてしまえばよかったはずなのに。
真っ白になった頭に、ひとつ、希望の火が灯る。
磊落が隣に腰を落とした。皺ついた掌が、息子を諭すかのように、湿った野火の髪をぐしゃりと撫でた。
「すべては、
静まり返った洞の中で、磊落の言葉が朗々と響く。反響の残滓が、胸に沁み入るようだった。
「野火よ。お前は、ひとりで抱え込みすぎる。この馬鹿者が」
俯き、顔を覆う。己の小ささに、愚かさに、嫌気がした。しかしそれでも、磊落は受け止めようとしてくれる。今も、六年前も。──何度でも。
「……面目無いです。取り乱しました」
「なんの。素直でよろしい」
からからと笑う磊落が、もう一度野火の髪をかき乱す。一度頭が冷えてしまえば、顔から火が出そうなほど恥ずかしかった。
「宵越にも、同じことが言えよう。助け出した暁には、抱え込むなと、言うてやろうじゃないか。なあ?」
「……はい」
「まあ、その方法が問題なのだがな。急いで知恵を絞らねば」
眉間に皺を寄せた磊落の向こう、滝の洞の入り口に佇む細の毛が、きらきらと輝いていた。毛についた雨粒が照り返す、幾千もの光の粒だ。いつの間にか、雨雲は走り去っている。
雲間を抜けた陽光が、斜めに洞に差し込んだ。ふと光の帯に手を翳してみると、爪先が白く透ける。その下を流れる血潮のうねりまでもが、透けて見えるようだった。
──目が覚めたか。
この洞で、宵越の力強い、命の音に触れた。
──母様、ごめんなさい。宵越は、母様の言いつけをやぶります。
胸に抱いた細い肩は、籠った殻を破り、変化への一歩を踏み出そうとしていた。
──知って、それを飲み込むことから、私は始まるんだから。
どんなに辛くとも、自分の足で大地を踏みしめ、明日を見据えていた。
そんな彼女の立ち姿は、野火の沈んでいた夜に、曙光が如く、一筋の光をもたらしたのだ。
「……俺、行きます」
立ち上がる。もう、身の内を焼くような怒りはない。
今はただ、この雨上がりの空のように。心は冴え冴えとして、為すべきことの形が見えていた。
「どこへ行くのだ。まだ策も何も考えとりゃせんだろう」
「考えがあります。それで、栗花落さんと先生には……ひとつ、お願いがあるんですが」
野火は白い錦の袋を取り出すと、磊落の掌の上で逆さにした。一本、二本と、小さな従針が転がり出る。
「万が一俺が失敗したときのために、何本か持っていて──、?」
従針のあとに出てきたものに、野火はつと言葉をとめた。
宵越から袋を受け取ったときには気が付かなかったが、ところどころに赤黒い染みをつけた、着物の切れ端が出てきたのだ。くしゃくしゃになったそれを開いてみれば、そこには血文字で、とある式が描かれていた。隣に書かれた注釈は途中で掠れ、文字が崩れてしまっている。
「『角と楔の狭間に
「いや……これでも、十分だ」
言って、磊落が瞠目する。続いて布を覗き込んだ栗花落が、あっと声を上げた。
「おふたりは、この意味がわかるのですか?」
「……おそらくこれは、伏式に準ずるもの。でも、
「まずはもとの伏式を削り取り、それから朱墨、筆──、道具がいる。屋敷に戻らなくてはならん」
「先生、ここに描かれた式とは、いったい―?」
野火が尋ねると、磊落は武者震いする手を握りしめながら、血文字の式について語り始めた。
聞くうちに、野火の内に灯った希望の灯が、より大きな炎となる。
「──それなら、この件はおふたりにお任せしてもいいでしょうか? 俺は、屋敷に戻るための手筈を整えます。すみませんが、数日ここで待っていてください」
「ひとりで行くつもりか」
「細と駆けます。長く。おふたりには、厳しい道程となりますから」
「しかしなあ、」
「野火君なら、きっと大丈夫よ。手助けしたいのはわかるけど、足手まといは本意じゃないでしょう」
「それともこんな山の中に、女一人置いて行くつもり?」と、渋る磊落を小突いて見せる。
「野火君」
呼ばれ、振り返れば、栗花落は柔らかく微笑んでいた。
「あなたを信じます。私たちはここで待っているから──ちゃんと、帰ってくるのよ」
いつだったか、同じ言葉をかけられた。あのときは、気遣う言葉に嘘で返し、胸がつかえるような思いがしていた。けれども、今は。
「帰ります。必ず」
もう、後ろめたく思うこともない。本心から、そう返すことができる。
そうして、野火は光差し込む洞の出口へと、足を踏み出したのであった。
「……おまじない、か。そういうことだったんだな」
──母様みたいにおまじないが使えたら……野火の痛みを、取ってあげることができるのに。
この滝の洞で、宵越がそう歯痒そうに言っていた。その言葉の意味が、ようやく胸にすとんと落ちる。
洞から出ると、湿気た腐葉土のにおいがした。せらせら流れる沢の音、水泡踊る翡翠の滝壺。きらめく滝の飛沫を足元に受けながら、帰らぬ宵越を心配する、細の頬を撫でてやる。「行くぞ」と語りかけると、太い尾が嬉しそうにぱたぱたと揺れた。
これから、王弟に対して反攻に出る。けれども味方は、たった三人きりなのだ。どれだけ声を上げようとも、周囲の人間の理解など、得られる望みはないのであろう。そんな戦力では、宵越どころか、屋敷の奪還すらできるはずもない。
ならば、為すべきことはひとつである。
「
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