四 大事なひと①

 小さな従針じゅうしんを細の角にあてがいながら、磊落らいらくは低く唸った。

「きれいに打ち込めば、従針は完全に角にうずめられよう。遠目では刺さっていることもわからんくらいに」

 わなわなと震える手で、野火に小さな従針を突き返す。受け取ると、野火はそれをまた白い錦の袋に入れて懐にしまった。

 玉響狼舎、柿を吊るした縁側でのことだ。

 事のあらましを野火が説明する間、宵越は無事を喜ぶ栗花落つゆりのそばに立ちながら、風に揺れる柿の並びを眺めていた。

 縁切りが仕組まれたものであったこと。母を殺した逆印が秋霖しゅうりん配下のながれであり、王族に深い関わりのあるみぎり一門が、それに加担していたこと──明確な言葉をもってなぞられる自らを取り巻く呪縛を、宵越は黙って聞いていた。時折、「簒奪者めが」と磊落が吐き捨てるたびに、視線がどこか遠くを向くのが、野火には痛々しく見えてならなかった。

 雲は低く、昼間だというのにあたりはぼんやりと薄暗かった。慣れない人間を避けて遠くに佇むしんが、雨の気配に天を仰ぐ。高く上げた鼻先に、いよいよ雫が落ち始めた。

「俺と宵越は、ここを去ります。先生たちならまだ、知らぬ存ぜぬで通せるはずです」

 雨が走った。乾いた枝にしがみ付いていた楓の葉が、濡れそぼって地に落ちる。くしゃりと皺つく葉のおもては、話を聞き終えた磊落の顔とよく似ていた。

「狼女のことを聞かれたら、すべて俺が手引きしたことだと伝えてください。自分も遠縁の子と言われて騙されたのだと」

「なにを、馬鹿なことを! それではお前にすべてを押し付けることになるだろう」

「そうしてくださいと言っているんです」

 野火の説得にも、磊落は「できん」と首を振る。

「儂かて、宵越がくだんの狼女だと知って匿ったのだぞ。わが身可愛さに他人を売るようなこと、できるはずがなかろうが!」

「それに、狼舎にはささめの痕跡が残ってる。私たちだって言い逃れなんてできないのよ」

 栗花落が濡れた前髪をかき上げながら、ふんと鼻を鳴らした。

「どうせこの屋敷も、明日には秋霖様に接収されてしまうもの。逃げるなら一緒に行かせて」

「しかし……それではふたりまで、お尋ね者になってしまいます」

「真実に目を瞑るよりは数段ましよ」

 磊落が「野火よ、お前は──」と言いさしたところで、細が耳をぴんと立て、鼻を上げた。強まり始めた雨足が、低い地鳴りを運んできたのだ。

「来よったな」

 かんぬきを閉めた門の向こうで、大勢の足音がとまる。直後、門が強く叩かれた。

「御用改めである。磊落殿、門を開けよ!」

 男が声を張り上げる。返事も待たずに「開けぬならこの門、破ることになるぞ!」とがなり立て、次第に扉を叩く音を強めていく。

「裏門へ。山に逃げ込むしかあるまい。よいな、野火」

 磊落の有無を言わさぬ口調に、野火も渋々頷き返す。しかし、ふたりの後について数歩足を進めたところで、はたと異変に気が付いた。

「……宵越?」

 もといた場所から一歩も動かず、宵越が立ち尽くしているのだ。ほとんど崩れてしまった結い髪をほどき、六合菊りくごうぎくがあしらわれたかんざしを握りしめている。「なにをしている」と声をかけても、宵越は力なく微笑むばかりで、その場を動こうとはしなかった。

「ねえ、栗花落。これ貰ってもいいかな? ──思い出に」

 濡れた黒髪から、雨の雫がしたたり落ちる。

「宵ちゃん、なにを言って、」

「栗花落が作ってくれたごはん、おいしかったよ」

 「おじいちゃん」と、磊落を見る。

「細に優しくしてくれてありがとう。藁の寝床、とても温かかった」

 雫が頬をすべる。それが雨なのか、涙なのかはわからない。銀糸の雨がけぶり、宵越の姿を遠くに見せるのだ。

 宵越に何かを囁かれ、細が新を伴って、磊落たちのほうへと歩いてきた。嫌な予感に、野火は宵越のそばへと駆け戻る。

「はやく来い」

 差し出しされた野火の右手に、宵越は手ではなく頬を寄せた。大きな掌に頬擦りをする。ともすれば、その首を緩く振る動作は、野火の言葉を拒むようにも見えた。

「あのね、野火。山をおりて、色々なことを知って……私、今すごく、つらい。胸が張り裂けそうだ」

 握り締めていた簪を帯に挟むと、野火の手にそっと触れる。色を失った青白い爪先は、氷のように冷たかった。

「でも、いい。知らなくちゃいけないことだった。知って、それを飲み込むことから、私は始まるんだから」

 彼女がまとった笑みの鎧が、刹那、苦しそうにくしゃりと歪む。

 そうして、ひとつの決意を口にした。

「私……やっぱり、叔父様のところに行く」

「なんだって?」

「行って、話をしてくる。叔父様のこと、知らなくちゃ」

「話など聞いてもらえるわけないだろう! やつが今まで、何度君を、」

「やってみなくちゃわからない! それに嫌なんだ! 私がいると……野火たちまで追われることになってしまう」

 門を叩く音が強まる。道具を用いて破壊しようとしているようで、重い打撃音が轟くたびに、門はみしみしと嫌な音をたてている。

「私は、罪人つみびとだった」

 宵越の頬に触れる野火の掌に、ぬるい雫が伝った。

 雨では、ない。

「袢纏のやつらに仇だと責められて、気付かされたんだ。山の獣になりきることで、自分のしたことから目を反らしていただけだ。逆印や袢纏の男たちだって、きっと誰かの大事なひとだった。それを殺めた私は、人の世ではやはり罪人で……ちゃんと謝って、償わなくちゃいけないんだ」

 宵越が野火の手を放し、一歩近づく。

 しとどに濡れた髪から、栗花落が塗りこめてやった香油の、梅に似たかおりが濃く薫った。

「君のせいじゃない。そうしなくては生きていけない状況に追い込んだ、秋霖の責任じゃないか」

「そうなのかもしれない。だから、どうして叔父様がそんなことしなくちゃいけなかったのか、聞きたいんだ」

「そんなの──」

 無謀すぎる、と、最後までは言えなかった。

 不意に宵越が手を伸ばし、野火の衿を強く引いて。瞬間。

 唇が、触れた。

 それは、以前野火の口元を舐めた、獣のような親愛の示し方ではなかった。ひとひらの花弁を落としたように軽く、柔らかく。人の親愛の情を示す、くちづけであった。

「大事だって言ってくれて、嬉しかった。私も野火のこと、すごく大事だ。だから……私も、お前を守りたい」

 トン、と、野火の胸を強く押し、突き放す。

「細、先にねぐらに帰ってくれる? 私もすぐ……追いつくから」

 野火が言葉を発する前に、宵越は急かすような短い吠え声を繰り返した。広がった心式の波紋に促され、細が磊落に身を寄せる。

「三人とも、細に乗って!」

 宵越の叫びと同時に、閂が弾け飛んだ。大槌を振りぬいた男の後ろから、八十瀬衆が雪崩れ込んでくる。

 伸ばした手は、宵越には届かない。新だ。野火の衣を食んで、早く来いとばかりに引っ張ったのだ。新はそのまま野火を咥え上げ、磊落らを乗せた細を追って走り出した。

「放せ、新! なぜお前が止める!」

 折狼。心式は届かないはずなのだ。つがいの行動に倣ったとでもいうのか。

 宵越が、ひとり振り返る。群がる印袢纏が、彼女の姿を隠してしまう。

「──いくな」

 どれだけ大事に思っても、どれだけ守ってやりたくても。

 それが己の手の届かない場所へ行ってしまう感覚が、ただただ恐ろしかった。

──私だって、兄さんを守りたい。

 宵越の声と、野風の声が重なって聞こえる。

(まだた)

 身を打つ雨が。梅の香りが。濡れた獣の息遣いが。野火の心を、六年前の熒惑平野けいこくへいやに連れ戻す。

(また俺は、守れないのか)

 五感を襲うすべてのものが、過去と今の境を、曖昧にしていく。

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