三 従針と逆印②

 男たちが、一斉に弓を引き絞る。誰かの「打ち落とせ!」の一声で、甲高い弦鳴りが重なり響いた。

 咄嗟に伏せた野火たちの上を、矢の一群が通り過ぎる。細は軽やかに避けて塀から降りると、野火たちを守るように、かつてのつがいと向き合った。一足で間合いを詰められる距離を保ちながら、睨み合い、唸りを返す。細の唸りは敵意ばかりではなかった。正気を保て。そう呼びかけるような、かすかに甘やかな響きを帯びている。

「勢子はいつもの陣を取れ。打子は飛び移る頃合いを見極めよ」

「な……あれを狩るんですかい、秋霖様!」

「わざわざこちらの陣地に飛び込んできてくれたのだ。あの雌は──良物だぞ。殺すな。必ず生け捕れ」

 秋霖が男たちに指示を出すと、屯所の中が慌ただしく動き始めた。弓や刀を構える者、鉤縄を用意する者、従針と鎚を構える者が、それぞれの位置に付こうとしている。

 角狩りが始まるのだ。

(逃げるなら、今だ)

 包囲が完全になる前に抜け出さなければ、細もろとも捕らえられてしまう。野火は宵越を抱え上げ、細の背に乗せようとした。そのまま自分も乗り込んで、塀を飛び越えて逃げ出そうと思ったのだが──

「いやだ!」

 宵越は身を捩り、野火の腕をするりと抜け出してしまった。強固な瞳で野火を見据えて、駄々をこねるように首を振る。

「新を置いてなんていけないよ!」

「そんなこと言っている場合じゃないんだ。逃げるなら今しかない」

じゃない! 新は。新は、私の──私の、家族なんだよ」

 琥珀の瞳が、必死に涙をこぼすまいと耐えている。しかしそこに秘めた意志は強く、梃子てこでも動かぬ様相だ。

 野火はひとつ、長い息を吐いた。ばつが悪そうに頭を掻くと、群がる男たちに向き直る。

 ぴりりと、庭の空気が張り詰める。細の包囲が完了したのだ。半円を描いて向けられる刀と弓。合間には鉤縄を構える男が立つ。その後ろには鎚を構えた打子が控え、それぞれ舌なめずりでもしそうな形相で、秋霖の指示を待っていた。

(家族、か)

 野風の顔を思い出す。妹がこうして敵陣の中にひとり取り残されたまま、仲間に逃げようなどと言われたら。果たして自分は、そんなことと言って、逃げ出したりなどできるだろうか。

(逃げるなら、ともに。……と、言うだろうな)

 賭けでもいい。腹を括れ。

 生に、欲張れ。

「……好機は、一度きりだ」

 血濡れた刀を、宵越に手渡した。その代わりに、自身は迅汰から奪った鎚を握りしめる。

「鉤縄が細の動きを封じ、その隙を狙って打子がよじ登ってくる。角に従針じゅうしんを打ち込まれる前に、縄を切って細を守れ」

「従針?」

「一角狼の自由を奪う。打ち込まれれば、細もやつらに奪われる」

「野火はどうするの」

「俺は、新に飛び移る」

 言って、野火は細の背によじ登った。戸惑う宵越を引き上げ、心式を展開する。意識の波紋が広がって、細の心の芯に触れた。

(あまり博打は好まんのだが)

 秋霖が手を上げている。

 息を吸い、刹那、溜める。

(伸るか反るか。よろしく頼むぞ、細──!)

「かかれ!」

 秋霖の手が降り下ろされた。

 跳躍した新が、細の首を狙った。牙を突き立てられる寸前、避ける。弦鳴り音。細の臀部に矢が突き刺さる。動きが鈍ったところに、鉤縄が飛ぶ。背に、ももに、鉤が食い込み、細が苦悶の声を上げる。

「切れ!」

 叫んだ。宵越がえいやと刀を振り、縄を切る。縄を伝って細に乗り移ろうとしていた打子が、足場を失い地に落ちた。細の背の上に立つ。鎚をくわえ、両手を空ける。行け、と念じれば、細が心得たと痛む足に力を込め、しなやかに、一足。

 新に向かって、細は体当たりをした。

 巨体がぶつかり合う反動に体を乗せ、野火は細の背を蹴った。手を伸ばし、新の首元にしがみ付く。不快なのみを振り落とすかのように、新がしきりに身を捩るが、野火は必死でしがみ付いた。頭までよじ登り、角に手をかける。目の前には、その根元を貫く、従針。

──弱けりゃ刺さらねえし、強けりゃ角が折れちまう。折狼せつろうにしちまったら、残念ながら討伐対象だ。

 他ならない、この従針を打ち込んだ迅汰が言ったのだ。

(強く打てば、角は折れる。従針が抜ければ、)

 鎚を握り、振り上げる。

(伏式から解放される!)

 力の限り、従針の頭を打ち据えた。キィンと高い金属音が跳ね返り、ひびが深まり、そして。

 新の角が、砕けた。

 どかりと折れた角が地面に落ちたとき、取り巻いていた男たちがどよめいた。蜘蛛の子を散らすように、さあっと新から離れていく。

「なんということを……!」

 縁側に立つ秋霖が、青筋を立てて怒っていた。

「早急に殺せ! 従針なくば、手が付けられなくなる──」

 慌てて男らが矢を放つが、新の覚醒が早かった。怒りの咆哮を上げると、大きく身震いをし、襲い来る矢を弾き返す。そのはずみで振り落とされた野火は、地面に強かに身体を打ち付けた。

「野火!」

 宵越が細から飛び降り、野火に駆け寄って助け起こした。

「けがはない?」

「ない。大丈夫だ」

「新、どうしちゃったんだ? 今度は急に暴れ出して」

「混乱しているんだろう。急に自我を取り戻したから」

 落ち着かせようと心式で語りかけるも、やはり心式を受容する角が折れているせいか、意識の波紋は広がるばかりで、受け取ってはもらえなかった。

「君の声真似は、心式がなくても一角狼に通じるのか?」

「簡単なことなら。でもあんな状態の新とは、やっぱり心式がないと無理だ。視界に入っただけで、邪魔をするなと噛みついてきそうだもの」

 「人間わたしの身体じゃ、新の反論を受け止められない」と、試しに子狼が甘え鳴くような細い声を上げてみる。しかしいくら鳴こうが梨の礫で、怒れる新の耳には届かなかった。

(人の発するものは、やはり乱心する折狼には届かないか。ならば──)

「細」

 呼べば、細は素直にそばに寄ってきた。野火は細の鼻先をひと撫でしてやり、「頼めるか」と問いかける。細はひとつ瞬きをして答えると、痛む臀部をかばいながら、ゆっくりと新に近づいていった。

 怒り狂う新が暴れる縁側は、阿鼻叫喚のちまたと化していた。噛みつかれ、胴に穴を開けた者。強く蹴り飛ばされて、顔を潰した者。武器を構える間もなく蹂躙された者たちが、血溜まりの中に折り重なっている。

「細、お願い……!」

 難を逃れた者が反撃の体勢を取り始める中、新に近づく時を計る細を見ながら、宵越は固唾を飲み込んだ。

「ちゃんと細の呼びかけが通じるといいんだけど……野火がまさか、新の角を折っちゃうなんて思わなかった」

「従針を抜くには、そうするしかなかったんだ。そうすれば新が自由に──、……どうした?」

 返事がない。新の折れた角を見つけた宵越は、ある一点を見つめて固まっていた。野火のそばを離れ、角の隣に転がっていた、五寸釘大の長細いものを拾い上げる。

「野火」

 戸惑うように、縋るように、琥珀の瞳の色が揺れた。

「これ、なに」

 震える指が持っているのは、一本の楔。その鈍色の表面に、朱墨で楔を模したふせのまじないが刻まれている。

「それが従針だ」

「従針? これが刺さると、新みたいに自分を失くしてしまうの?」

「そうだ。伏士の意のままに操られてしまう」

「操る……人の、意のままに?」

 宵越の顔色は、今や蒼白だった。拾った従針を握りしめて、野火のそばへと戻ってくる。そうして消え入りそうな小さな声で、野火にこう問いかけた。

「これを作ったのは誰」

「……、宵越?」

「誰なの」

「……みぎり一門の術士だ」

「砌一門? 母様の生家の、あの砌一門?」

 言って、宵越は苦しそうに胸を押さえた。怒っているような、泣き出しそうな、様々な感情をないまぜにしながら、顔をくしゃくしゃに顰めている。瞳も、表情も、どう在ったらいいのかわからないようであった。

 そうしておもむろに、帯に挟んでいた白い錦の袋を取り出した。封をしていた紐をほどき、その中から取り出したものを、野火の眼前に突きつける。

「『あなたを見つけ出してくれたひとに、これを渡しなさい』……母様の遺言だ。ねえ、野火はこの意味がわかる?」

 宵越が取り出したのは、彼女の掌に収まるほど小さな、鈍色の楔であった。

 足元から、ぞろりと怖気が這い上がる。

 それは宵越の反対の手に握られている従針と、作りが小さいだけの──全く同じものであったのだ。

「御母堂は、これを、どこで」

「私と母様が……一角狼の群れに襲われたとき。しつこく追いかけてきたやつの角が、細と争った拍子に折れたんだけど……折れた角のそばに、これが」

「落ちていたのか」

「うん。母様を殺した逆印も、細が倒したんだけど……懐に、これを何本も持ってた」

 宵越は手に持つ大小の従針を見比べながら、愕然としたように言葉を漏らした。

(縁切りを起こした一角狼の角から、従針だと?)

 すぐそばで起こっているはずの命のやり取りが、ふと遠くの出来事のように感じられた。悲鳴も咆哮も鳴りを潜め、自分の心音ばかりが鼓膜を打つ。

(縁切りが……この国の在り方を変えた事件が、)

──聡いといわれる一角狼でも、獣は所詮、獣なのだ。これからは国が管理し、育て、人を襲わぬよう、調教せねばなるまいぞ。

(覆るぞ)

 そのとき、ひとつの死体が飛んできた。

 新に噛み千切られた無残な上半身が、どちゃりと野火の足元に転がった。血濡れた羽織には、ながれの証である流水紋様。顔にまかれた覆面は外れ、耳に引っかかっていた。

 宵越が、声にならない呻きを漏らす。

 その額。あらわになった額に刻まれているのは、角の印をひっくり返したような、逆三角形の印であった。

「これだ」

 震える指が、指し示す。

「これが逆印だよ、野火」

 

──いつの間にか蒼天は翳り、雲が垂れ込め始めていた。轟々と吹く風は冷たく、湿気た雨のにおいをはらんでいる。

 ひやりと、一筋。時雨しぐれる空よりも早く、野火の頬を濡らす雫があった。それは触れ合う頬の間をすべり落ち、野火の衿へと吸い込まれて消えていく。耳元でしゃっくり上げる宵越を抱きかかえながら、野火はもう片方の手で、細の鬣を強く握りしめていた。

 賭けには、勝った。

 どうにか宥めることに成功した新とともに、八十瀬衆の刃を潜り抜け、ふたりと二匹は屯所の塀を飛び越えた。太白の家々の屋根を蹴り、風となって疾駆する。

 振り返れば、今は遠くなった屯所が見えた。その後方には、不穏を象ったような暗雲が、雲足も速く迫っている。

 冷風。冷たいはずなのだ。なのに感じる雨の足音は熱く、じりじりと野火の背を焼くようだった。

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