三 従針と逆印①

 咄嗟に、迅汰じんたの腕を掴んだ。

 引き寄せる。驚きに身体を竦めた彼の鳩尾を、すまん、と心の内で謝りながら、思い切り殴りつけた。ぐらついた隙に、腰に吊っていたつちを奪い取る。群がる男たちに向かって迅汰を蹴り飛ばせば、男たちはたたらを踏んで、襲いかかる勢いを乱した。

 野火は宵越の手を引き、庭に飛び降りた。体勢を立て直した男たちが、血相を変えて追ってくる。その先頭にいるのは、腕に宵越の歯型を付けた髭面の男だ。「捕らえろ!」「ぶっ殺せ!」などと後ろから飛ぶ怒号に煽られて、刀の柄に手をかけている。

「あの蔵に向かって走れ」

 庭の奥に建つ蔵を指差して、宵越の背を強く押す。そうしてひとり、野火はくるりと振り返った。

 髭面の男が抜刀した。荒い剣筋を避け、低く屈んで間合いを詰める。目の前の無防備な男の膝頭を、鎚で力の限り打ち据える。パキリ、骨が砕ける音がした。

 激痛にもんどりうった男から刀を奪い、追いかけてくる男らを、二人、三人と斬り伏せる。四人目の腕を斬り飛ばしたところで、不用意に野火に近づくものはいなくなった。青ざめた顔で遠巻きにしている男たちが、「弓だ、弓を持ってこい!」と、屯所の奥へ叫んでいる。

 踵を返し、野火も蔵へと走った。物言わぬ新を前に立ち尽くす宵越の手を引き、この騒動にも微動だにしない、しんの影に座らせる。蔵の扉に錠前がかけられていることを知ると、小さく舌打ちをして、自身も宵越の隣に滑り込んだ。

(くそ、蔵には入れないか)

 塀に囲まれた庭には装飾の類いはなく、目隠しをしてくれる庭木一本生えていない。新の巨体を盾代わりにできるうちはいい。しかし伏士が来て新が動き出してしまえば、遮るもののない庭で、ふたりはすばらしくよい的となるだろう。

「新……?」

 置物然とした異様さを確かめるように、宵越が恐る恐る、新の身体に触れていた。細い指が汚れた毛に埋もれていくのに、新はなんの反応を示さない。

「新、私だよ。なあ、……新ってば!」

 宵越は新の顔のほうに這っていくと、鼻にかかる声で、クンクンと高く甘え鳴いた。声に反応がないと知ると、心式が展開する波を感じたが、新にはやはり、響かない。

「どうしてなにも答えてくれないの。なんで? なんで私がわからないの―」

 ヒュウ、と、鋭く空を切る音。新と宵越の顔のそばを横切って、蔵の壁に黒羽の矢が突き刺さる。

「こっちへ来い!」

 取り乱す宵越の手を引き、かばうように抱き寄せた。二本、三本と矢が続いたが、しかしそれきり飛んでこない。訝しく思い耳をすましていると、遠くの縁側で揉めている男たちの怒声が聞こえた。聞き拾える言葉から推測するに、どうやら繁殖に使おうとしている新を、無闇に傷つけられないようである。

「怪我はないか」

 問えば、宵越はふるりと首を振る。野火の衿をぎゅっと掴んで、戦慄く唇をかみしめた。

「なんで。なんでなの、野火。新が、へんだよ」

「宵越、」

「へんなんだよ。全然、私のことがわからないみたいで、」

「宵越、落ち着け。新に俺たちの心式は届かない」

「なんで? だって、山ではずっと、」

「話はあとだ」

 突然、新が顔を上げた。のそりと起き上がると、縋る宵越の手を身震いして振り払い、縁側へと歩いて行ってしまう。

「新、お願い。行かないでよ……!」

 心の底から搾り出したような願いにも、新は振り返らなかった。

 隠れるものがなくなった庭で、野火たちの姿が晒される。弓を構えた男たちがずらりと縁側に並び立ち、その真ん中で秋霖と従者がこちらを見ていた。片方の従者が新のほうを向いており、なにやら手を翳している。

(あいつが伏士か)

 宵越を背に隠しながら、野火は刀を構えた。一斉に射かけられてもたまらないが、今はそれよりも新が怖い。もしあの伏士が、襲えと指示を出したなら。獲物を見定めた一角狼に、刀一本でなど勝てるはずもない。それはいぬいとともに数多の帝国兵を屠ってきた野火の、よく知るところであった。

 そのとき、張り詰めた空気を震わせるような、高らかな遠吠えが響いた。新ではない。振り返ると、宵越が口元に手を翳し、空に向かって吠えていた。

 やがて伸びやかな吠え声はふつりと途切れ、水を打ったように静まり返る。誰もが緊張した面持ちで新を見たが、新は変わらず縁側近くで、無感動に佇んでいた。

 静寂は、秋霖しゅうりんの笑い声で破られた。

「どうやら狼女の声にも、一角狼は無反応だとみえる。見たか皆の者。これが従針と伏式のなせるわざよ」

 男たちが歓声を上げる。ややあって、秋霖は手をあげてそれを制した。

「さて──野火殿。これはいったいどういうことか」

 不思議でならない、という風の秋霖の声色が、いやに演技じみていた。

「その娘は、昨日玉響狼舎で会ったそなたの遠縁の子だな。しかし……その娘を、狼女だと訴える者がいるのだよ」

 秋霖の後ろから迅汰が顔を出した。火を噴きそうなほど激しい怒りを込めて、自分を殴りつけた野火を睨んでいる。

「間違いねえです、秋霖様。俺は見たんだ。あの娘は……あいつが、狼女だ!」

 迅汰が叫ぶと、周囲の男たちから口々に怒声が飛んだ。「殺せ!」「仲間の仇だ!」と、構えた弓を引き絞る。そのうちのひとりが先走り、弦を鳴らして矢を放った。

 飛んできた矢を刀で叩き切る。真っ二つに折れた矢が地面に転がったとき、秋霖が「やめよ!」と激昂する男たちを制した。

「私刑は許さぬ。狼女は裁くべきところで裁くのだ。さあ野火殿、その娘をこちらへ引き渡しなさい」

 秋霖が手を差し出す。野火はただ、刀を構え直した。

「素直に引き渡せば、そなたの罪は不問としよう。伏士となって国に仕えることを、この件の償いとすればよい。そなたの式の才は、潰えさせるには忍びない」

 甘い言葉に、野火はかぶりを振った。

「できない」

「なぜだ? 狼女に肩入れして、そなたになんの利があろう」

「利などない」

「きれいごとを。仏にでもなったつもりか。利の為に動くのが人の道理。今私がこの手を振り下ろせば、数多の矢がそなたの身体を貫き、獣の牙が四肢を噛み砕こう。それでも、そなたは狼女をかばうと言えるのか?」

(……きれいごと、か。確かにそうかもな)

 狼女を差し出せば命は助かり、この大立ち回りも無罪放免。才を買われて仕事を得て、不足のない日々を送れるのだろう。

(でも、)

 ちらりと、背後の宵越を振り返る。自分の衣をぎゅっと握る、小さな手がびくりと震えた。

(俺が、仏なわけないだろうが)

 たったひとりの妹すら、守れなかった。持て余した怒りを磊落らいらくにぶつけて心を塞ぎ、六年という長い夜を、昏い足元ばかり見つめて漂ってきた。

 だから。

「お前の言う道理など、知らん」

 どれほど愚かだろうとも、もう構いやしないのだ。

「俺はただ、この子が大事だ。お前には渡せない」

「……もう少し、賢い男かと期待したが」

 秋霖は失望したような、長い息を吐いた。新に手を翳している従者に目配せしたのち、手をすっと振り下ろす。

「捕らえよ。抵抗するなら、死なない程度には痛めつけてもかまわん」

 新が立ち上がった。耳を伏せ、牙をむき、しわがれた唸り声を上げ始める。逆立った背中の毛が、新の巨躯をさらに大きく見せていた。

 盛んに野次を飛ばす男らに守られた、従者の位置を確認する。あの伏士さえいなくなれば、新は動きを止める。そのためには武装した男たちの中に飛び込んでいかなくてはいけないが、その顛末を思うと肝が冷えた。

(死なない程度には、か。殺す気がないのは好都合だ)

 柄を握る手が、じわりと汗ばむ。それと気取られないように、衣を握っていた宵越の手をそっとはずした。

「俺はあの伏士をしとめる。すまないがそれまで、なんとか新から逃げてくれ」

 言って、野火は駆けだそうとした。しかし足を踏み出す寸前に、くん、と衣が引かれてしまう。

「待って」

「宵越、話している暇は」

「だいじょうぶ」

「なにが」

「だいじょうぶだから」

 宵越は野火の腰に腕を回して、先に行かすまいと足を踏ん張った。新が姿勢を低くして、野火たちににじり寄ってくる。今にも飛びかかってきそうなのに、小さな手は頑として、野火の腰を離さない。

 一歩、二歩と、新が近付いてくる。額に浮いた汗が、つうと蟀谷こめかみをすべり落ちた。

「──秋霖様! 秋霖様、大変です」

 屯所の奥から、誰かが叫んだ。

 ばたばたと転がるように駆けてきた男が、息も絶え絶えに秋霖の足元に跪く。

「ま──町、町に、……!」

「落ち着け、なにごとだ」

「町に、……い、一角狼が!」

 臨戦態勢だった新が、つと空気のにおいを嗅ぐように鼻を上げた。塀の向こうが、にわかに騒がしさを増している。悲鳴だ。悲鳴の波が、こちらに向かって徐々に押し寄せているのだ。

 宵越の腕が離れる。そのとき、野火の上に影が落ちた。

(そうか。あの遠吠えは──)

「ほら、」

 宵越に促されて、野火は振り向いた。視線の先、塀の上。蒼天を背負い、真白い一角狼が、庭を見下ろしている。

「来た」

 庭に、ささめの咆哮が轟いた。

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