二 ふたりの嘘つき②

「さあ、庭は冷える。どうぞこちらへ」

 秋霖に導かれ、座敷のとなりにある六畳間に通される。温かい茶と饅頭が用意され、障子は風を遮るために閉められた。畳の上には障子を透かした、淡い光が落ちている。しかし漂う空気の感触は、ざらりとしていて不快であった。

(そう思うのは……俺だけか)

 それとも目の前に座る、秋霖らもそうなのかだろうか。秋霖は変わらず人好きのする笑みを湛えおり、ふたりの従者は覆面のせいで表情が見えない。この場でなんの含みも持たないのは、迅汰だけなのは確かであった。野火のとなりに座る緊張気味の若者だけが、場違いに浮ついた様子である。

「ようこそいらした。迅汰の案内に不足はなかっただろうか」

「とても丁寧に説明していただきましたよ。おかげさまで伏士になった暁には、なにをすればいいのかよくわかりました」

「それはいい。ご苦労だったな、迅汰」

 満足そうに頷く秋霖に、迅汰は恐縮したような、ほっとしたような顔をして、深々と頭を垂れたのだった。

 秋霖は用意された茶を啜り、がぶりと饅頭を頬張った。「忙しくてまだ朝餉も取れておらんのだ」などと笑いながら、ふたつめの饅頭を手に取っている。

(忙しい、か……。太白が軍事拡張の要とはいえ、なぜ王弟自らがこんな地方に来た)

 いくら磊落が接収を頑なに拒んだとはいえ、王弟自身が都を離れるという違和感が、頭の片隅に引っかかる。

──ながれからの使者は何度も出したが、どうしたことか梨の礫。八十瀬衆らも説得に訪れたというが、そのたびに追い返されると嘆いていたぞ。

──私が自らこの太白くんだりまで足を運んだのも、このためだ。

(本心とは、到底思えない。改革の要である従針や伏式を編み出したのは、代々王の伴侶を輩出するみぎり一門……そんな大きな後ろ盾を得ているならば、なおさら他に手の打ちようがあったはずだ。なにか、自分自身が来なければならないような、他の理由でもあったのか?)

 出された湯飲みを、手に取ったときだった。はっとよぎった考えが器の熱さと重なって、指先に火の粉が爆ぜたような気がした。

(……狼女宵越?)

 追手をかけていた姫君が、今まで山から出ようとしなかった姫君が。六年の時を経て、その姿を太白の人間に目撃された。もしも彼女が捕まって、「私は姫だ」などと、名乗りを上げてしまったならば。

(間違いなく、王位を脅かす存在になるだろうな。その可能性を、確実に潰すため──?)

 なんでもいい。手がかりが欲しい。

 散った火の粉を握りしめ、意を決して、野火は口を開いた。

「伏式とはすばらしいものですね。あんな体格の良い雄も、打ち込んでしまえば人の意のまま……なんでも、従針はみぎり一門の方が編み出したのだと、迅汰殿に伺いました」

「そうだ。それを私が授かり、縁切り以降に起こった、一角狼の乱を鎮める任にあたったのだよ」

「よく存じております。そのおかげで、俺も安心して旅を続けられるようになりましたゆえ」

 言って、野火は畳に手をついて深く頭を下げた。顔を上げる際、秋霖だけでなく後方の従者らにも微笑みかける。

「そちらのながれのお二方にも、重ねてお礼申し上げます」

 静かに控えていた従者らが、ゆっくりと首を振る。ずっと置物然としていた彼らが、ようやく人らしい動きをしたものの、その後はやはりだんまりである。

「縁切りで王位継承者を欠いたこの国は、今は苦難の時と思っておりましたが……殿下がいれば、六合の平和は守られましょう」

「なに、私は王族に連なる者として、ただ責務を果たそうとしているのみ。みぎり一門や流、八十瀬の者らが力を貸してくれるからこそ、今の安寧があるのだと思っているよ。もちろん──野火殿の式の才も、大きな力となるだろう」

「そんな……俺の力など、きっと取るに足りません」

 謙遜して見せてから、野火は一口茶を啜り、ふと思いついたという風にこう問うてみた。

「接収の件、解決してなによりです。しかし、わざわざこのような地方までいらしたのなら、明日の屋敷の明け渡しのあとは、余暇を過ごしていかれるのですか?」

 なにか他に、──太白に来た目的が、あるのではないか。

 秋霖が、ぴくりと片眉を跳ね上げた。彼の切れ長の双眸が、すうと一瞬細められて、

「いや」

 と否定し──野火の意図を見透かすように、装う笑みを深めたのである。

「野火殿は、狼女をご存じか?」

「……噂は、耳にしております」

 秋霖は立ち上がり、前庭に続く障子を開いた。冷たい風がひゅるりと吹き込み、獣のにおいを運んで来る。庭の隅には、先ほどと変わらずに蹲る新の姿があった。

「あの一角狼を捕らえたときに、八十瀬衆らが目撃したらしいのだ。なあ、迅汰よ」

「はい。薄汚れていましたが、目鼻立ちの良い、白い一角狼に跨った、髪の長い娘でした」

 間違いなく、宵越の姿である。顔がわかるほどの距離で見られていたのかと、野火は静かに歯噛みをした。

「……それはそれは。このご時世に一角狼と過ごすなど、珍しい者もいるのですね」

「珍しい、だけで済めばよかったのだが。狼女は獣そのものだ」

「どういうことでしょうか」

「先日、角狩りの下見に向かった者らが、山中で消息を絶った。捜索隊が見つけたときには、皆腹を食い破られたあとだった。だが、その中に、ひとつ不自然なところがあってな」

 手刀を首の前ですべらせて、秋霖は太い眉を顰めた。

「ひとりだけ、首をすぱんと刃物で切られたような、鋭利な傷口だったのだ。獣の牙ではこうはいかない。人が道具を使って殺した証──狼女が私の部下を殺した証だ。なんでもよい、情報があれば教えてほしいのだが」

「……恐れながら、なにも」

「そうか。もし狼女についての手がかりを見つけたら、どんな些細なことでも言ってくれ。いくら獣のふりをしたとて、人は人。……罪は、裁かれなくてはならんよ」

 獣の牙が人を食む、鈍い裂肉の音。木立の合間に散った、鮮烈な赤を思い出す。

 獣の世に生きる宵越の行動を、野火は口出しすることができなかった。しかし、秋霖はそうはいかない。

 人の世のことわりを持って、山から狼女を引きずり出し、裁く気なのである。

 返す言葉を探すうちに、隣の座敷と繋がる襖が開かれた。印半纏を着た男が、恭しくこうべを垂れている。

「失礼いたします。秋霖様、東風こち組の棟梁がお着きです」

「いらしたか。野火殿、私はこれで失礼するよ」

 呼ばれた秋霖は颯爽と立ち上がると、襖の向こうへと去っていく。しかし襖を閉める直前、ふと野火を振り返ると、にやりと笑いこう言った。

「次は、そなたの遠縁の子だというお嬢さんも連れて来るといい。八十瀬総出で、おもてなしさせていただこう」

 かあっと、体中の血が一気に沸いた。

(わざと言っているな)

 確信した。やはりあのとき、宵越のことを姫君だと認識していたのだ。姫君の保護者となった野火が、自分に疑いを持っているということも承知の上での、あの惚けようである。

(あの子が、どんな思いで姿を現したと思っているんだ。肉親ならば、きっと名を呼んでくれると……ようやく孤独な山籠もりを抜け出し、父親のもとに帰れるのだと!)

 秋霖の言葉通り、宵越を屯所に連れて来ようものならば、面の割れている狼女は、めでたく捕まり裁かれる。

 連れて来ないならば来ないでいい。宵越は永遠に『野火の遠縁の子』で、これまで通り、追手をかければ済むだけだ。

(なにがおもてなしだ、この糞野郎め!)

 姫君の生など認めない。秋霖は、そう言外に示したのだ。

 久しく忘れていた怒りの感情が、津波のように押し寄せる。秋霖を殴ってしまいたいような衝動を、糸のように細くなった理性が、どうにか抑え込んでいた。

 ひとつ、ふたつと、静かに深く呼吸する。

 考えるべきは己の憂さを晴らすことではない。宵越を守り、名を取り戻す方法である。

「すみません、東風こち組とは何ですか?」

 感情の流れを変えたくて、とりあえず迅汰に言を振る。残った饅頭をつまみ食いしていた迅汰は、口をもごもごさせながら、「ああ、大工だよ」と答えた。

「明日、玉響狼舎の引き渡しがあるだろ。そのあとすぐに狼舎の拡張と繁殖場の着工だから、その打ち合わせさ」

「……そうですか」

 鎮めるはずの怒りを煽られてしまい、その先の言葉が続かない。今口を開けば、汚い言葉が飛び出してしまいそうだった。

 迅汰は野火の秘めた思いには露ほども気づかず、清々しい面持ちで庭を見やる。その視線の先を追えば、蹲る新の姿があった。

「なあ、楽しみだよな」

「楽しみ?」

「だってよ、秋霖様の改革が進めば、もっともっと野生の一角狼が減るってことだろ。いいじゃねえか。そうすりゃあ、この国は平和になる。……一角狼に村を食い荒らされて、途方に暮れるやつもいなくなるだろ」

 これまで威勢の良かった迅汰の言葉が、若干尻すぼみになったのが気にかかった。新をぼんやりと眺める彼の背が、どことなく寂しげに丸められている。

「……迅汰殿は、もしや」

 問えば、迅汰はくしゃりと苦笑した。

「俺がいた村は、一角狼にぶっ壊された。身内は俺以外、みんなやつらの腹の中に収まっちまったよ。縁切りのすぐあとくらいかな」

「……申し訳ない。嫌なことを思い出させてしまったようで」

「そんな湿っぽい顔するんじゃねえや。八十瀬衆にはさ、俺みたいなやつが結構いるんだ。せっかく生き残ったのに途方に暮れて、悪さばっかりしていたどうしようもない野郎どもがな。でも秋霖様が……俺らみたいなはぐれ者にも、歩ける道があるんだって教えてくれたんだ」

 野火に向かい、迅汰は手を差し出した。

「秋霖様のもとで、皆が安心できる明日を作ろうぜ。なあ、兄弟」

 力強い言葉につられ、手を握り返しはしたものの、胸の奥がつきりと痛んだ。

 迅汰は、秋霖を心の底から信頼している。その純真さが直視するには眩しすぎ、罪悪感に苛まれた。八十瀬衆に与する気など、野火は端から持ち合わせていないのだから。

「……なんだ? 入り口のほうが騒がしいな」

 ざわついた気配を感じ、迅汰は座敷に続く襖を開いた。すると遮られていた騒がしさが一気に流れ込んできて、なにやら不穏な言葉が飛び交っているのが耳に届く。

「暴れるな!」

「おとなしくしやがれ──っ痛──噛むんじゃねえ!」

「あ! 逃げたぞ、追え!」

 幾つも伸びる男らの腕を潜り抜け、誰かが転がるように駆けて来る。その小さな影を追いかけて、男たちが群がっていた。誰かが影の腕を掴む。影はその手に噛みつき、再び男を振り切り走る。

 あの着崩れた桜色の着物は。乱れた髪に刺された、あの銀の簪は。あれは。

(──宵越!)

 なぜ、と喉から出かかった刹那、宵越と目が合った。彼女の琥珀の瞳が見開かれ、泣きそうな唇が歪み、そして。

「野火!」

 縋るように名を叫び、宵越は野火の胸に飛び込んだ。受け止め、すかさず背後に回してかばう。

 「誰だてめえは!」「どきやがれ!」などと罵声を浴びながら、野火は必死でどうすればこの場を乗り切れるかを考えた。男たちの剣幕に押されてじりじりと後退するうちに、縁側へと押し出される。これ以上さがれば、宵越を庭へと落としてしまいそうだった。

「お──、」

 野火の思考は、呆然と隣に立つ迅汰の震える声で、なにも意味をなさなくなった。

(そうだ、こいつは、宵越の顔を──)

 迅汰が瞠目し、宵越を真っ直ぐ指差して。

「狼女だ!」

 そんな、悲鳴にも似た叫びをあげたのである。

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