二 ふたりの嘘つき①

 箪笥から着物や帯を取り出して、行李こうりの中に詰めていく。その上に化粧道具やらかんざしやらを包んだ風呂敷を置くと、栗花落つゆりはふうと溜息を吐いた。

 明日には、玉響狼舎たまゆらろうしゃながれに奪われてしまう。そんなひどい喪失感に襲われて、昨晩はよく寝付けなかった。だというのに、夜はいつもとなんら変わらず、あっけなく明けてしまったのだ。青く晴れ渡った朝を仰げば、やるせなさが募るばかりで、燦燦と降り注ぐ陽光の中、栗花落のまなじりにはひかるものが滲んだのだった。

 急ぎ引っ越しの準備に追われ、屋敷の中は荒れていた。そこここに物が散乱し、まるで物取りでも入ったかのようだ。ともすれば止まってしまいそうな手を叱咤して、せっせと荷造りをすすめていく。私物を大方まとめたところで、栗花落は鏡台の引き出しを開き、鼈甲でできた櫛を取り出した。

 母の形見である。

 人医であった母と狼士であった父は、熒惑事変けいこくじへんに派兵され、戦乱の最中に命を落とした。それで栗花落は都を離れ、祖父磊落らいらくとともに太白に帰郷したのだ。人医として太白の人々に寄り添いながら、祖父と穏やかに過ごすはずだった。

 しかし、実際はどうだ。縁切りを境に一角狼に対する世論は変わり、こうして生家を失おうとしているばかりか、己の志した医の道ですら、振るう場所を選べない。

「秋霖様は、六合を守ってくださった。国は平和なはずなのに、どうして……私はこんなに、息苦しいの」

 鼈甲の櫛を握りしめ、栗花落は天井を仰いだ。込み上げるものをこぼすまいと、きつく目蓋を閉じて耐える。

 背後から声をかけられたのは、そんな時だった。

「栗花落……野火を知らない?」

 控えめに障子を開きながら、宵越が部屋を覗き込んでいた。栗花落は慌てて袖で目元を拭ってから、努めて明るい声で返事をした。

「おはよう、宵ちゃん。野火君ならさっき出かけたわよ」

「どこに行ったの? 話したいことがあるんだけど」

 返答に困った。昨日、叔父であるはずの秋霖に「姪は死んだ」と突き放されて、宵越はあんなに悲しんでいたのだ。一晩たってもなお、泣き腫らした目元には赤みが残っている。

「……おつかいを、頼んだのよ。新しいお家に持っていくお味噌やお醤油がなくなっちゃって」

 八十瀬衆の屯所に行ったのだとは、告げられなかった。今はまだ、秋霖関連の話から遠ざけてやりたかったのだ。

 「そう」とだけ答えた宵越は、残念そうに俯いてしまった。そうして手に持っていたものを、ぎゅっと胸元で握りしめる。障子の影に佇む宵越のそばに寄ってみると、荒れた指に握りしめられていたのは、掌大の白い錦の袋だと知れた。

「あら……なあに、それ?」

 思いつめたように廊下を睨みつけていた宵越は、ようやく栗花落がそばに立っていることに気が付き、はっとしたように手に持っていた袋を背中に隠した。

「ごめん栗花落。でも、だめだ。野火じゃなきゃ……だめなんだ」

 なにか、自分が見てはいけないものだったのだろうか。ばつが悪そうに呟く宵越を安心させるように、栗花落は柔らかく微笑んで見せる。

「いいのよ。野火君が帰ってきたら、すぐに教えてあげるわ。でも……宵ちゃんはその前に、お着替えしたほうがいいわね」

 宵越の着物についた藁屑と細の毛を摘まみ取り、「ちょっと待ってね」と言って、荷造り途中の行李を振り返った。化粧道具を包んだ風呂敷をどけ、籠の一番奥へと手を入れる。おはしょりすれば宵越でも着られそうな着物が、確か奥にあったはずだ。

「ああ、これだわ。今の桜色もいいけど、宵ちゃんならきっと萌黄色も似合うわよ」

 着物を引っ張り出しながら、栗花落は背中越しに声をかける。しかし、宵越の返事は返ってこない。

「ねえ、そのお着物は洗うから、脱いでもらえるかしら? ──あら?」

 着物を抱えて振り返った栗花落は、はたと言葉を失った。障子のそばに立っていたはずの、宵越がどこにもいないのだ。慌てて障子を開け放ち、廊下をぐるりと見渡しても、彼女の姿は影も形も見当たらない。

「……宵ちゃん?」

 着物を抱える手に、いやな汗がじわりと滲む。

 静まり返った廊下には、宵越の着物から落ちた藁屑と細の毛が、ぱらぱらと散らばるのみであった。


     *


「従針を打ち込むコツはよ、つちを扱う力加減なんだ」

 帯に吊っていた鎚を手に取り、迅汰じんたしんの角を貫く従針の頭を、こつりと叩いて見せた。

「弱けりゃ刺さらねえし、強けりゃ角が折れちまう。折狼せつろうにしちまったら、従針を打ち込む場所がなくなって、残念ながら討伐対象だ。だから俺たち打子にとって、打ち損じは最も不名誉なことなんだ」

 迅汰の説明に相槌を打ちながら、野火は新の角を確かめた。ややくすんだ白乳色の角の根元に、五寸釘に似た楔が刺さっている。楔はうまく角の中心を貫いており、僅かなひび割れがあるのみだ。

(従針で自我を奪うだけでなく、折狼になれば殺すのか。……なんと、勝手な)

 そっと、新の頬を撫でる。新は僅かに瞬きするのみで、なんの感情も示さない。それは最早、いきものではなかった。迅汰が手に持つ鎚と同じ──ただの、もの。人の道具と化していた。

「そうやって俺たち打子が従針を打ち込んだら、旦那たち伏士の出番さ。これを見ろ」

 迅汰は懐から新しい従針を取り出すと、野火に手渡した。鈍色の表面に、朱墨で楔を模したまじないが刻まれている。

「かのみぎり一門が編み出したっていう、ふせのまじないだ。これを媒介に、伏士は一角狼に指令を出すんだ」

 みぎり一門──初代九霄きゅうしょうの時代、心式を広めるために国を回った弟・玉響たまゆらとは反対に、国の中枢で王を支えることを選んだ、みぎりという狼士を祖先とする系譜。その役目は今日までも受け継がれており、一門の中で特に優れた狼士から、王の伴侶を召し上げるという習わしを持つ、六合きっての名家である。

 廊下の軋む音がして、ふたりは座敷のほうを振り返った。現れたのは、目元しか見えない覆面に、裾に流水紋様が描かれた、羽織をまとった男たち。そのいでたちは、つい昨日目にしたばかりであった。

ながれの方々だ。秋霖様のご来訪に合わせて、また従針を持って来て──あ!」

 覆面の男らの後ろから現れた人物を見ると、迅汰は野火への説明もそこそこに、縁側へと駆け寄った。沓脱石の前でひざを折ると、恭しく頭を垂れる。

「おう、迅汰。一角狼の世話は滞りないか」

「はい! でけえくそはしやがりますが、特に変わったことはございやせん」

「そうか、それは大層難儀なことだな」

 豪快な笑い声を上げながら、その男は縁側に腰かける。迅汰に面を上げさせると、「明日までの辛抱だ」と、労いの言葉をかけていた。朗々とした彼の声は、離れたところに立つ野火の耳にもよく届く。迅汰と何か言葉を交わしたあと、つと視線を上げて野火を見た。

「これはこれは。ようこそいらした。──野火殿」

 黒曜石のような瞳に、意志の強そうな太い眉。

 王弟秋霖、その人である。


     *


「ねえ、ここに狼士が来なかった? 前髪が長い、藍染の衣を着た男なんだけど」

「いやあ……来なかったと思うよ」

「ほんとうに? 醤油とか味噌とか、おつかいに来たでしょう?」

「なんだよ、来てねえって言ってるだろう。客じゃねえならとっとと失せな!」

 はじめて足を踏み入れた太白の路地に迷いながら、やっとの思いで辿り着いた商店に、野火の姿は見当たらなかった。店主のぞんざいな口調に肩を落としながら往来へ出ると、宵越は途方に暮れてしまった。

「このお店じゃないのかな……」

 ちらりと振り返れば、「しっしっ」と追い払う手かのように、店先の暖簾のれんが風に揺れている。仕方がないと気持ちを切り替え、宵越は他の商店を探そうと走り出した。

 目まぐるしく行き来する人の波に、胸の奥が不安にざわついた。いま自分の隣には、ささめも、野火も、信頼できる者は誰もいない。知らない顔ばかりの雑踏の中に、たったひとりきり。それでも、宵越は町へ飛び出さずにはいられなかったのだ。

──約束よ。

「母様……私ね、やっと見つけてもらったんだ」

 あの日。母が天へと召されたあの日。消えかかる吐息の合間に交わした、最期の約束を思い出す。

──あなたのほんとうの名を呼んで、細が信頼を示す者が現れるまで、決して山を下りてはいけないよ。どんなに辛くとも、細とともに隠れておいで。

「細がね、信頼を示したひとがいたんだ。そのひとが、私の名前を呼んでくれたんだよ……!」

 ひとりの恐怖に震えそうな足を叱咤するように、宵越は天上の母へと語りかける。

──あなたを見つけ出してくれたひとに、これを……これを、渡しなさい。

 帯に挟んだ、錦の袋に手を添える。昨日は叔父に存在を拒絶されたことがひどく悲しく、何も言わずにただ抱きとめてくれる胸に甘えて、心を整理することに必死だった。泣き疲れてまどろみながら、目が覚めたら話をしようと、そう心に決めて意識を手放したのだ。

 しかし、昼日中の眩さにようやく目を覚ましたときには、野火の姿は狼舎になかった。

「野火……! どこに行っちゃったんだよ」

 長屋の脇を走り抜け、旅籠を横切り、茶屋ののぼりを追い越して。息が切れ、脇腹が鈍く痛んだけれど、宵越は走り続けた。立ち止まって息を整えるのも、痛みが過ぎ去るのを待つこともできない。六年も待ったのだ。

 もう、一瞬たりとも待ちたくなかった。

「──っ、痛えな!」

 酒屋の角を曲がったところで、宵越は通行人にぶつかってしまった。硬い体躯に弾き飛ばされ、どっかと尻もちをついてしまう。強かに打った臀部をさすりながら顔を上げると、宵越は息を飲んだ。

「角を飛び出すな、危ねえだろうが!」

 悪態を吐くふたりの男は、揃いの印半纏をまとっている。そこに描かれているのは、沢の流れと楔を模した、白い染め抜きの丸紋だ。

 八十瀬衆やそせしゅうの証である。

 孤独な山籠もりに寄り添ってくれた、しんを奪ったやつらの仲間。にわかに沸き立つ怒りの波に、宵越は土くれをざりと握りしめる。無意識のうちに、男らを睨み上げてしまっていた。

「ああ? なんだあ、謝りもしねえで生意気な目しやがって」

「ちくしょう、汚え餓鬼だな。俺の袢纏が──、」

 無精髭を生やした男が、不意に言葉をとめる。宵越がぶつかった拍子に袢纏に付いたものを摘まみ上げ、しげしげと眺めては首をひねった。

「藁屑に……こりゃあ、動物の毛か? なんか、見たような毛だな」

「犬の毛……いや、もっと大型の獣の毛だな」

「なあ、この餓鬼の顔、どこかで……いやでも、そんなまさか」

──新が角狩りにあったとき、君はどうやら八十瀬衆に姿を見られた。……さっきの男たちが太白に戻らないとなれば、なおのこと『一角狼の群れと狼女』に追手をかけるだろう。

 山に深く踏み込んできた八十瀬衆らを、宵越は細親子とともに襲い、命を奪った。そのとき言われた野火の言葉が、警鐘のように脳裏に蘇る。

 ここにいてはいけない。咄嗟に逃げ出そうとしたが、しかし急に首元が締まり、走り出すことができなかった。伸びてきた男の手に、襟首を掴まれてしまったのだ。

「確かめてみりゃあいい。打子が一番近くで見てる」

「あの角狩りの打子は、確か……」

「あの若造は、目がいい。あいつならわかるはずだ」

 興奮に赤く血走った目が、ぎょろりと宵越を見据えてくる。それが恐ろしくて、逃げ出したくてたまらないのに──しかしいくら身を捩ってみても、男の拘束を解くことはかなわなかった。

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