二 ふたりの嘘つき①
箪笥から着物や帯を取り出して、
明日には、
急ぎ引っ越しの準備に追われ、屋敷の中は荒れていた。そこここに物が散乱し、まるで物取りでも入ったかのようだ。ともすれば止まってしまいそうな手を叱咤して、せっせと荷造りをすすめていく。私物を大方まとめたところで、栗花落は鏡台の引き出しを開き、鼈甲でできた櫛を取り出した。
母の形見である。
人医であった母と狼士であった父は、
しかし、実際はどうだ。縁切りを境に一角狼に対する世論は変わり、こうして生家を失おうとしているばかりか、己の志した医の道ですら、振るう場所を選べない。
「秋霖様は、六合を守ってくださった。国は平和なはずなのに、どうして……私はこんなに、息苦しいの」
鼈甲の櫛を握りしめ、栗花落は天井を仰いだ。込み上げるものをこぼすまいと、きつく目蓋を閉じて耐える。
背後から声をかけられたのは、そんな時だった。
「栗花落……野火を知らない?」
控えめに障子を開きながら、宵越が部屋を覗き込んでいた。栗花落は慌てて袖で目元を拭ってから、努めて明るい声で返事をした。
「おはよう、宵ちゃん。野火君ならさっき出かけたわよ」
「どこに行ったの? 話したいことがあるんだけど」
返答に困った。昨日、叔父であるはずの秋霖に「姪は死んだ」と突き放されて、宵越はあんなに悲しんでいたのだ。一晩たってもなお、泣き腫らした目元には赤みが残っている。
「……おつかいを、頼んだのよ。新しいお家に持っていくお味噌やお醤油がなくなっちゃって」
八十瀬衆の屯所に行ったのだとは、告げられなかった。今はまだ、秋霖関連の話から遠ざけてやりたかったのだ。
「そう」とだけ答えた宵越は、残念そうに俯いてしまった。そうして手に持っていたものを、ぎゅっと胸元で握りしめる。障子の影に佇む宵越のそばに寄ってみると、荒れた指に握りしめられていたのは、掌大の白い錦の袋だと知れた。
「あら……なあに、それ?」
思いつめたように廊下を睨みつけていた宵越は、ようやく栗花落がそばに立っていることに気が付き、はっとしたように手に持っていた袋を背中に隠した。
「ごめん栗花落。でも、だめだ。野火じゃなきゃ……だめなんだ」
なにか、自分が見てはいけないものだったのだろうか。ばつが悪そうに呟く宵越を安心させるように、栗花落は柔らかく微笑んで見せる。
「いいのよ。野火君が帰ってきたら、すぐに教えてあげるわ。でも……宵ちゃんはその前に、お着替えしたほうがいいわね」
宵越の着物についた藁屑と細の毛を摘まみ取り、「ちょっと待ってね」と言って、荷造り途中の行李を振り返った。化粧道具を包んだ風呂敷をどけ、籠の一番奥へと手を入れる。おはしょりすれば宵越でも着られそうな着物が、確か奥にあったはずだ。
「ああ、これだわ。今の桜色もいいけど、宵ちゃんならきっと萌黄色も似合うわよ」
着物を引っ張り出しながら、栗花落は背中越しに声をかける。しかし、宵越の返事は返ってこない。
「ねえ、そのお着物は洗うから、脱いでもらえるかしら? ──あら?」
着物を抱えて振り返った栗花落は、はたと言葉を失った。障子のそばに立っていたはずの、宵越がどこにもいないのだ。慌てて障子を開け放ち、廊下をぐるりと見渡しても、彼女の姿は影も形も見当たらない。
「……宵ちゃん?」
着物を抱える手に、いやな汗がじわりと滲む。
静まり返った廊下には、宵越の着物から落ちた藁屑と細の毛が、ぱらぱらと散らばるのみであった。
*
「従針を打ち込むコツはよ、
帯に吊っていた鎚を手に取り、
「弱けりゃ刺さらねえし、強けりゃ角が折れちまう。
迅汰の説明に相槌を打ちながら、野火は新の角を確かめた。ややくすんだ白乳色の角の根元に、五寸釘に似た楔が刺さっている。楔はうまく角の中心を貫いており、僅かなひび割れがあるのみだ。
(従針で自我を奪うだけでなく、折狼になれば殺すのか。……なんと、勝手な)
そっと、新の頬を撫でる。新は僅かに瞬きするのみで、なんの感情も示さない。それは最早、いきものではなかった。迅汰が手に持つ鎚と同じ──ただの、もの。人の道具と化していた。
「そうやって俺たち打子が従針を打ち込んだら、旦那たち伏士の出番さ。これを見ろ」
迅汰は懐から新しい従針を取り出すと、野火に手渡した。鈍色の表面に、朱墨で楔を模したまじないが刻まれている。
「かの
廊下の軋む音がして、ふたりは座敷のほうを振り返った。現れたのは、目元しか見えない覆面に、裾に流水紋様が描かれた、羽織をまとった男たち。そのいでたちは、つい昨日目にしたばかりであった。
「
覆面の男らの後ろから現れた人物を見ると、迅汰は野火への説明もそこそこに、縁側へと駆け寄った。沓脱石の前でひざを折ると、恭しく頭を垂れる。
「おう、迅汰。一角狼の世話は滞りないか」
「はい! でけえ
「そうか、それは大層難儀なことだな」
豪快な笑い声を上げながら、その男は縁側に腰かける。迅汰に面を上げさせると、「明日までの辛抱だ」と、労いの言葉をかけていた。朗々とした彼の声は、離れたところに立つ野火の耳にもよく届く。迅汰と何か言葉を交わしたあと、つと視線を上げて野火を見た。
「これはこれは。ようこそいらした。──野火殿」
黒曜石のような瞳に、意志の強そうな太い眉。
王弟秋霖、その人である。
*
「ねえ、ここに狼士が来なかった? 前髪が長い、藍染の衣を着た男なんだけど」
「いやあ……来なかったと思うよ」
「ほんとうに? 醤油とか味噌とか、おつかいに来たでしょう?」
「なんだよ、来てねえって言ってるだろう。客じゃねえならとっとと失せな!」
はじめて足を踏み入れた太白の路地に迷いながら、やっとの思いで辿り着いた商店に、野火の姿は見当たらなかった。店主のぞんざいな口調に肩を落としながら往来へ出ると、宵越は途方に暮れてしまった。
「このお店じゃないのかな……」
ちらりと振り返れば、「しっしっ」と追い払う手かのように、店先の
目まぐるしく行き来する人の波に、胸の奥が不安にざわついた。いま自分の隣には、
──約束よ。
「母様……私ね、やっと見つけてもらったんだ」
あの日。母が天へと召されたあの日。消えかかる吐息の合間に交わした、最期の約束を思い出す。
──あなたのほんとうの名を呼んで、細が信頼を示す者が現れるまで、決して山を下りてはいけないよ。どんなに辛くとも、細とともに隠れておいで。
「細がね、信頼を示したひとがいたんだ。そのひとが、私の名前を呼んでくれたんだよ……!」
ひとりの恐怖に震えそうな足を叱咤するように、宵越は天上の母へと語りかける。
──あなたを見つけ出してくれたひとに、これを……これを、渡しなさい。
帯に挟んだ、錦の袋に手を添える。昨日は叔父に存在を拒絶されたことがひどく悲しく、何も言わずにただ抱きとめてくれる胸に甘えて、心を整理することに必死だった。泣き疲れてまどろみながら、目が覚めたら話をしようと、そう心に決めて意識を手放したのだ。
しかし、昼日中の眩さにようやく目を覚ましたときには、野火の姿は狼舎になかった。
「野火……! どこに行っちゃったんだよ」
長屋の脇を走り抜け、旅籠を横切り、茶屋の
もう、一瞬たりとも待ちたくなかった。
「──っ、痛えな!」
酒屋の角を曲がったところで、宵越は通行人にぶつかってしまった。硬い体躯に弾き飛ばされ、どっかと尻もちをついてしまう。強かに打った臀部をさすりながら顔を上げると、宵越は息を飲んだ。
「角を飛び出すな、危ねえだろうが!」
悪態を吐くふたりの男は、揃いの印半纏をまとっている。そこに描かれているのは、沢の流れと楔を模した、白い染め抜きの丸紋だ。
孤独な山籠もりに寄り添ってくれた、
「ああ? なんだあ、謝りもしねえで生意気な目しやがって」
「ちくしょう、汚え餓鬼だな。俺の袢纏が──、」
無精髭を生やした男が、不意に言葉をとめる。宵越がぶつかった拍子に袢纏に付いたものを摘まみ上げ、しげしげと眺めては首をひねった。
「藁屑に……こりゃあ、動物の毛か? なんか、見たような毛だな」
「犬の毛……いや、もっと大型の獣の毛だな」
「なあ、この餓鬼の顔、どこかで……いやでも、そんなまさか」
──新が角狩りにあったとき、君はどうやら八十瀬衆に姿を見られた。……さっきの男たちが太白に戻らないとなれば、なおのこと『一角狼の群れと狼女』に追手をかけるだろう。
山に深く踏み込んできた八十瀬衆らを、宵越は細親子とともに襲い、命を奪った。そのとき言われた野火の言葉が、警鐘のように脳裏に蘇る。
ここにいてはいけない。咄嗟に逃げ出そうとしたが、しかし急に首元が締まり、走り出すことができなかった。伸びてきた男の手に、襟首を掴まれてしまったのだ。
「確かめてみりゃあいい。打子が一番近くで見てる」
「あの角狩りの打子は、確か……」
「あの若造は、目がいい。あいつならわかるはずだ」
興奮に赤く血走った目が、ぎょろりと宵越を見据えてくる。それが恐ろしくて、逃げ出したくてたまらないのに──しかしいくら身を捩ってみても、男の拘束を解くことはかなわなかった。
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