四幕 鏡

一 太白学舎

「あ──てめえは、玉響狼舎たまゆらろうしゃの!」

 元太白たいはく学舎、現在は八十瀬衆やそせしゅうの屯所を訪れた野火は、開口一番そんな怒声を浴びせられた。

 相手の男の年頃は、十七、八ほどだろうか。短い髪を前髪ごとうしろに撫でつけて、あらわとなった細い眉をつり上げている。町の破落戸ごろつきよろしく、八十瀬衆の印半纏しるしばんてんをだらしなく着崩し、喧嘩腰とも取れるほど執拗に目を眇めながら、野火をじろじろと睨みつけてくる。 

「よぉ、旦那。よくも俺の前にのこのこと姿を現したもんだな。ええ?」

(……どこかで、こんながらの悪い男と会ったか?)

 やけに突っかかってくるこの青年が、野火ははじめ誰か全くわからなかった。威勢の良い顔形を眺めるうちに、次第におぼろげな記憶が蘇ってくる。

(……ああ、こいつは、あのときの)

──なぜ協力を拒むんだ! これほどの狼舎をただの塾の一室とするなんて、宝の持ち腐れじゃねえか。

 すかさずはっとしたような顔を貼り付けて、野火は深々とこうべを垂れた。

「その節は、ご無礼致しまして申し訳ありません。お怪我などはございませんでしたか?」

「おかげさまで、尻に立派な青痣をこさえちまったよ!」

 野火が玉響狼舎を訪ったとき、栗花落と言い争いをしていた、八十瀬衆のひとりである。それも野火が足を払って倒し、喉元に刀を突きつけた相手だ。あのときも、今も、男は声を荒らげて、その振る舞いは無作法極まりない。しかし野火の角の印を目ざとく見つけ、上官に報告しているあたりは、存外細やかな仕事をする男のようであった。

「それで、あの頑固爺に肩入れする狼士が、八十瀬にいったいなんの用だ」

「おや……ご存じない? 玉響狼舎はながれの接収に応じる運びとなったのですよ。明日には正式に引き渡しとなるはずです」

 恭しく告げた野火の言葉を、男はふんと鼻で笑い飛ばした。

「知らねえわけないだろう。秋霖しゅうりん様がわざわざ、御自ら話をつけに行かれたんだからな」

「ああ、それなら話が早い。その際に、磊落らいらく殿や栗花落つゆり殿と同じく、俺も流の一員にと、殿下直々にお誘い頂いたんですよ」

 嬉しさが滲み出たという風に破顔する野火に、男はほんの少し、細い眉を跳ね上げる。

「……するってえと、なんだい。旦那は俺らの仲間になりたくて、ここに来たと?」

「ええまあ。しかし、俺はここ数年薬売りを生業にしておりまして、薬草を求めて各地の野山を放浪していたものですから……もしよろしければ、流や八十瀬の方々の事情に不案内な俺に、諸々ご教授いただけないでしょうか」


──太白学舎は、第十五代九霄きゅうしょうの時代に端を発する。

 その頃の六合ノ國りくごうのくには、度重なる隣国との戦により、一角狼が軍に登用され始めていた。前線に立つ一角狼の負傷が続いたが、巨大な獣を受け入れ癒す仕組みが整っておらず、十分な治療もままならずに、命を落としてしまうことが多々あった。

 そんな現状に一石を投じたのが、玉響たまゆら一門である。

 建国の父となった初代九霄きゅうしょうの腹心の部下であり、姉・みぎりとともに心式を編み出した玉響は、その一角狼と通じるすべを広げるために、国を回って教えを説いた。そして時が流れ、第十五代九霄きゅうしょうの時代、心式の開祖と言うべき玉響の子孫が、当時の太白の長であったのだ。

 玉響の末裔は、太白を負傷した軍狼の療養地とし、治療を一手に引き受けると宣言した。自らが開いていた医学私塾の学徒とともに、負傷した狼士と軍狼の治療にあたり、その過程で医術に習熟した者を、前線で苦しむ重傷者のもとへと送り出した。

 こうして太白の長は国に大きな貢献したとして、祖先である男の名を冠した『玉響狼舎』を、王から賜ることになった。また優秀な医師を輩出した医学私塾は、国から資金援助を受けられることになったのである。それに伴い、私塾は『太白学舎』へと名を変えたのだが──

 しかし、そんな学舎の辿った歴史など、どうやら今となっては何の意味も持たないようだ。

「入んな。を案内しながら説明してやるよ」

 迅汰じんたと名乗った男は、何代もの医学徒たちが触れてきたであろう黒ずんだ木戸を、行儀悪く足先でがらりと開いた。二棟並びの商家を改装したという建物には、大仰な門構えなどなく、玄関口はそのまま通りに面している。『太白学舎・狼医棟』と書かれた古びた表札を横目で見ながら、野火は玄関部屋へと足を踏み入れた。

「角の印があるのに、薬売りねえ。旦那はあれか? 双角隊そうかくたいに入れなかった、いわゆる角無しってやつかい」

 乱雑に草履を脱ぎ捨てながら、そう迅汰が問うてくる。角無しとは、心式を会得したにも関わらず、朋角ほうかくを得られなかった狼士を揶揄する言葉だ。「まあ、そんなところですよ」と曖昧に返しながら、奥へと進むふすまを開いた、迅汰のあとを追いかけた。

「見ての通り、この部屋は手入れ済みの武具置き場だ。何かあればすぐに飛び出していけるように、玄関近くに揃えてある」

 部屋の中には、様々な種類の武具が並べられていた。土足のまま、慌てて武具の補充をする者でもいるのだろうか。畳は黒ずみ、藺草いぐさが毛羽立ち傷んでいる。部屋を見回す野火に、迅汰は「あっちが弓矢、こっちが刀だ」などと手で示しながら、律儀に説明をしてくれた。

 部屋の説明がひと段落すると、迅汰は解せないといった風に、細い眉を顰めた。

「でも、なんだって元狼士が薬売りなんだ? 薬のことは医者先生の仕事だろう。兵学所ではそんな難しいことまで教わるのか?」

「いえ、そこまで多くは学びません。おっしゃる通り、そこは医に通じる方々の領域ですから」

「だよなあ。だったらなんで、その腕っぷしを活かして、もっと早く伏士にならなかったんだ?」

(……面倒な奴だな)

 ずらりと並んだ武具の中の、矢筒に立てられた矢に目がとまる。黒の三枚羽に、は竹。しゅらんと一本引き抜いてみれば、やじり黒鉄くろがねでできていることが知れた。

(軍の長……今やほぼ王位にある秋霖が支給しているのだから、当然か)

 野火が双角隊時代に使っていた、六合軍が支給する矢の作りと、全く同じ作りである。

 ふうと息を吐いてから、野火は苦笑を貼り付け迅汰に向き合った。

「実は……六年前の熒惑事変けいこくじへんのあと、俺は怪我のために六合軍を抜けました。そのときに、都の治療所で人医の方々にお世話になりまして。彼らの病や怪我にひたむきに立ち向かう姿に、とても感銘を受けたのですよ」

 嘘である。朋角であるいぬいがいたことは、一角狼に良い印象のない八十瀬の男に知られても、何もいいことはないだろう。

「退役後は何人かの町医者の方々に頼み込んでは、押しかけ弟子になって薬に関することを教えてもらっていたんです。それからは野山を己の住処として、薬を売りながら国を放浪しておりました」

 対して、こちらは真実だ。

 熒惑事変けいこくじへんを経て都を去ってあと──六合軍の矢を射かけられ、いくつも刀傷をつけた、若い一角狼に出会った。野火はなんとかしてやりたいという思いで拙い手当を施したが、そのときもっと自分に医の知識があればと歯がゆく思った。そうすれば、もっとましな手当てをして、早く癒してやれたのではないか、と。

 一角狼と別れてから、野火は訪れる町々で医者を見つけては教えを請うた。邪険にされることもあったが、謝礼金を渡せばそれなりの知識を授けてもらうことはできた。蓄えは十分にあった。いつか妹が嫁ぐ際に持たせてやろうと思っていた金が、手付かずのまま残っていたのだ。

 亡き妹のための金を、自分のために蓄えておく必要はなかった。一角狼を助ける旅の過程で、いずれ──死を迎えるつもりでいたのだから。

「……それで先日、たまたま弦ヶ丘での薬草取りのために太白を訪れ、兵学所時代の恩師である磊落先生のもとに身を寄せていたのです。そうしたら、幸運なことに秋霖殿下にお目にかかりまして、伏士として拾っていただく運びとなりました。やあ、実は怪我をしたとはいえ、一度軍を離れてしまったことが、少々後ろめたくはあったのです。また六合のために働ける日が来るのを、嬉しく存じますよ」

 にこりと唇できれいな弧を描きながら、野火はそう締め括る。少し冗長に喋りすぎたかと思ったが、真実を織り交ぜたもっともらしい嘘を、迅汰は何の疑いもなく信じたようであった。

「旦那は、あの熒惑事変けいこくじへんを生き延びたのか。大変だったんだなあ」

 うそぶく野火を労わって、迅汰は野火の肩に手を添えた。ぽんと軽く叩いてから、にかりと明るく笑って見せる。

「でも、熒惑事変を生き延びた男が加わってくれるのは心強いぜ!」

「負傷しての遁走ですが」

「なんだよ、まぜっかえすなよ。心式が使えるってだけでも、俺たちにとっちゃすげえことなんだからよ!」

 すっかり気を許した迅汰は、「これからよろしく頼むぜ兄弟!」などと言いながら、野火の背を力強くばしりと叩く。衝撃に咳き込む野火を相手に、意気揚々と屯所の案内を再開した。

「右手の襖の奥も同じく武具置き場で、左手の襖の向こうには二階へ上がる階段だ。泊り番に当たったら、二階で寝れるようになってるんだ。それから──」

 迅汰の説明を受けながら、野火は屯所の奥へと進んでいった。狭い中庭の渡り廊下を抜け、書類や本等が集められた書斎を通り、地形図が襖に幾つも貼られた、会議所と化した居間へと足を踏み入れる。さらにその奥の襖の向こうは、太白学舎の名残だろうか、様々な薬や医療具が乱雑に積まれた、治療場のような座敷があった。隅にはいくつかの布団が敷かれ、怪我の具合を人医に診てもらっている者もいる。そのうちのひとりが顔を上げ、「なんだあ迅汰、誰だそいつ」と訝し気に問いかけてきた。

「ああ、こいつは──」

 ふと、答えようとした迅汰の顔が歪み、鼻をひくつかせた。何事かと思ったが、野火の鼻もすぐになにかの異臭を捉える。

(このにおいは、……便臭か?)

「臭え! あいつめ、くそしてやがるな」

 迅汰が悪態をつきながら、正面の襖を力任せにすぱんと開く。途端、襖に遮られていた悪臭が、むわりと野火たちを取り巻いた。

 「おおい、誰か、桶と柄杓を持ってこい!」と声を上げながら、迅汰は座敷の前庭に飛び降りた。

 陽の光が差す前庭は、本来植えられているはずの庭木や飛石の類いは、すべて撤去されている。むき出しの土の地面が広がっており、庭の隅にある蔵の前に、なにやら小山のような灰褐色の影が蹲っていた。小山からは、一本のつるぎのような角が生えている。

(──一角狼!)

 沓脱石(くつぬぎいし)に置いてあった誰かの草履をつっかけると、野火も続いて庭におりた。悪態を吐きながら排泄物を処理する迅汰を通り越し、薄汚れた一角狼へと歩み寄る。灰褐色の毛並みはぼそぼそとして艶はなく、硝子玉のような瞳に生気はない。訝しく思い目の前でひらりと手を振ってみるも、一角狼は屍かの如く、なんの反応も示さなかった。

 野火の目が、一角狼の角のある一点で止まる。

 それを見つけた途端、己の腹の底から、ぞろりと不快なものが込み上げた。

「無駄だよ。食うか寝るか、巨大な糞するか以外は動かねえ。なにかさせたきゃ、伏式で指令を出すしかない」

 排泄物の詰まった桶を庭の隅に追いやってから、迅汰が野火のそばに戻ってくる。そうして得意げに「これを見ろ」にやりとしながら、角の根元に打ち込まれた、あるものを指し示した。

(これは、)

 わずかにひび割れた角の根元に、鈍色の小さな楔の頭が飛び出している。

 八十瀬衆を嫌厭していたため、実際目にするのは初めてだった。けれどもそれが何なのかと、問いかけるまでもなく理解する。

(……従針じゅうしんだ)

「俺が打ち込んで捕らえたんだ。秋霖様がな、良い体格の雄だから繁殖に使うってんで、玉響狼舎の接収が済むまでここで預かってるんだ」

 「そうなんですか」と、返す声が嘔気に震えそうだった。

「いやあ、大変だったんだぜ? 首尾よく角狩りを終えて、さあ町まで帰ろうかってところで、こいつの群れが追いかけてくるもんだから、みんな慌てちまってよお。でも、群れが町まで雪崩れ込んできそうなところを、なぜか例の狼女がとめて事なきを──」

「なんだって?」

 思わず、野火は口を挟んだ。強い口調に驚いた迅汰が、きょとんとしながら肩を竦めた。

「なんだい旦那、狼女の噂を知らねえのか?」

「……いえ。あの例の角狩りでの一角狼なのかと、少し驚いてしまって」

 迅汰の視線から逃げ、一角狼を振り返る。

(では、こいつは、)

──ささめのつがいだったしんが捕まってしまって……

 宵越の悲しげな声が、野火の脳裏に蘇る。

 ぎりと、強く歯噛みせずにはいられなかた。

(新──細の、つがいか!)

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