三 天地大綱
西に聳える山々の蒼い稜線を、焼けた鋼のような残照が焦がしている。たなびく雲は東の空に延びるにつれ、朱から瑠璃へと色を流し、夜の装いへと変化する。千切れたゆたう雲の合間に、白い星々が光っていた。もう間もなく、夜の
暗がりになった縁側で、
そんな磊落の隣に、野火は腰をおろした。衣に付いた藁を叩き落としていると、ようやく野火の存在に気が付いて、思い出したように冷めてしまった酒をぐいと呷る。
「宵越は?」
「泣き疲れて眠りました。今は、
「そうか」という磊落の返事を最後に、ふたりの間には長い沈黙が流れた。風に運ばれた落ち葉が地面を滑り、カサカサとつま先をかすめていく。その輪郭が夕闇に溶ける様を、野火はぼんやりと眺めていた。
「私が、死んだ? 私、ここにいるじゃないか。どうして、叔父様は……名を呼んではくれないの」
衣を引かれて振り向いた野火の胸に、宵越は縋りつく。
「私の顔、忘れちゃったのか? 母様の言いつけを守って、ずっとずっと山にいたのに ……細とずっと、待っていたのに!」
嗚咽混じりの問いを幾つも吐きながら、宵越は野火を見上げた。固く握りこまれた衣が、宵越の手の中で皺になる。
「いったい、何がどうなっているの? 私が一角狼に食い殺されたって、どういうこと? ねえ、野火──教えてよ」
こぼれる涙を拭ってやろうとして、しかし野火は手をとめた。宙で躊躇ったままの手を、どうするべきか戸惑ってしまう。
(姫君に……俺などが触れても、いいのだろうか)
刹那の逡巡を、野火は
(何を、いまさら)
姫君だろうが──宵越は、宵越なのだ。傷ついた野火を介抱し、一角狼と無邪気に戯れ、ときに獣の
とめた手を、再び宵越の頬に伸ばした。冷えた指先で触れた、宵越の濡れた頬が熱い。
「六年前……この国の姫君が七つを迎えた初夏の折、姫君はかねてより懇意にしていた『
宵越が噛みしめる唇が白んでいる。言葉が飛び出すのを堪えた代わりに、また一粒、涙をこぼす。
(……健気な子だ)
自分から名乗りを上げてしまえば、
(誰かに呼ばれるまでは、自分からほんとうの名は言わないつもりか。……母親との約束を、少しでも守ろうと必死なんだな)
だからこそ、この先の言葉を伝えることが躊躇われる。母を喪い、黄昏のような薄暗い長い年月を、孤独に費やしてきたのだ。世間に浸透しきっている事実を、何も知らない宵越に伝えてしまえば、彼女の夜は深まるばかりなのだろう。けれど。
宵越の切実な瞳が、野火に偽りを吐くことを許さない。
(ならばせめて……わずかでもいい。なにか、この子の助けになれたなら)
生に疲れ、弱っていた野火に彼女がそうしてくれたように、両手で頬を包み込んだ。願わくば──この涙が止まるようにと、そっと祈りを込めながら。
「この縁切りと呼ばれた惨劇のあと、国葬令が発布され、国中の者が喪に服した。獣に腹を食い散らかされ、棺に納められたのは残った肉片と手足と、二目と見られないほど損壊した首という、哀れな母娘を心から悼み──そして、妃と娘を同時に喪い、心を壊した王の快復を祈願した。これらの手筈を整え、それを発布したのは……王弟、秋霖だ」
掌の下の頬が、ひくりと引き攣るのが知れた。
「叔父様が、二目と見られないほど損壊した首を姫だと認めたの? ……ああ、そうか。だから私の名なんて、呼んでくれるわけないんだ。だって私は叔父様の中では、ううん、国の誰もが、もう、」
「生きてるよ」
宵越の言葉を遮り、強い口調でそう言った。
「君は生きて、こうして俺の目の前にいるじゃないか。宵越、いや──」
野火は名を呼んだ。
宵越が焦がれ続けた、ほんとうの名──この国の、姫君の名を。
「大丈夫。俺は、君がここにいるのを知っている」
宵越の瞳から、真珠のような涙の雫がこぼれた。頬を包んだ野火の手に、ちいさな手を重ね合わせる。
そうして、最後に少しだけ、宵越は笑った。
「──まったく、おぬしは肝が据わっておるわ」
酒で満たした杯を野火に寄こしながら、磊落は言った。
「よくもまあ、宵越の
「ああ……俺は、そこそこ嘘つきですから」
「食えん男だ。王弟相手にほらを吹いておいて、なにがそこそこか」
渡された杯をちびりと啜ると、ぬるい酒の香りが鼻に抜けた。液面に映りこむ柿の色は最早黒に近く、消えゆく残照のわずかな名残に、影となって揺らめいている。その歪んだ影を、野火は暗澹たる思いで見つめていた。細のそばで宵越を寝かしつけながら、ふつふつと脳裏に沸き上がった黒い思考が、杯の中で形を持って佇んでいるように見えたのだ。
「……あの場で、宵越が亡くなったはずの姫君だと豪語するのは、得策だと思えなかったんです」
影をはらんだ残りの酒を
「母親は姫君に宵越という偽名を与え、真の名を使うことを禁じました。これは、誰か姫君の存在を良く思わない者がいるということの証です。逆印は、おそらくはその手先でしょう」
「偽名は、害意のあるなしを選別するため……心から姫君を助けたいと思う者ならば、自然と真の名を呼ぶ。と、いうことか?」
野火の言葉に、磊落は「しかしなあ」と首をひねる。
「秋霖が姫君の名を呼ばなかったのは、害意云々ではなく、単純に自らの手で姪と思った亡骸を葬ったからであろう。死んだはずの者が生きているなどと、瞬時には飲み込めまい。懇切丁寧に姫君を保護した経緯を伝えれば、あるいは認識を改めるのではなかろうか」
「確かに、普通ならばそうかもしれません。でも、」
最後の残照が、山の稜線に落ちる。黄昏時はふつりと終わり、夜が更けようとしている。
「もしも逆印の頭目が──秋霖だとしたら? 故人となることを望んだ者の名など、呼ぶはずがない」
「……野火、お前は、」
磊落が、言ってしまうのが恐ろしいかのように、口の中で言葉を転がす。
「秋霖が、姫君の暗殺を……王位簒奪を企てたと言いたいのか?」
「事の発端は、帝国と
彼女の頬を包んだ感触が、まだ掌に残っていた。胸元の衣には、彼女の涙のあとすらも。
「秋霖のための舞台が整いすぎている。俺はそう考えると……背筋が、冷たくなる」
目の前の庭を黒く塗りつぶす夜色を見据えながら、野火は言葉を続けた。
「王の一人娘であった姫君の死は、国の誰もが知ることです。父である
「事実上、秋霖は王位と同等のことをしているが、真の王たりえない──『
「そうです。秋霖は武人としての技量も、
「『人と一角狼、均しく六合の地を分かつ。
王たるものは御霊を交わし、久遠の縁を結わうべし。
知己朋友を扶け、尊び、
磊落は記憶の底から手繰り寄せた、大綱の一部を
天地大綱とは、初代
こうした営みで成り立つ国であるがゆえ、天地大綱にはこう定められている。
六合ノ國の王は、一角狼の長である天狼と魂の絆を交わすもの──
障子越しの柔らかな陽を映した、秋霖の黒曜石のような瞳を思い出す。切れ長の瞳に添う、意志の強そうな太い眉。その上の、浅黒い肌の額には。
心式を扱う者である証の、角の印は存在しない。秋霖は他のあらゆる才に愛されたが、心式だけは不得手であったのだ。
王位に就いた兄
「軍狼の離反や野良の反乱が起き始めていたあの頃、縁切りのような事故が起きても、誰もがただの悲劇として捉えました。そうして王位が空となった中、秋霖は
握った拳を、額の角の印にあてる。霧のような違和感が、頭の片隅をざわつかせる。
「そんなきれいに整った舞台に、自分が弾き出した姫君の……正当な王位継承者の再来など──」
「許すはずがない、ということか」と、磊落が結論を引き取った。
「……なにも、確証などありませんが。すべては、俺の邪推にすぎないのかもしれません」
ふと廊下についた手が、置いてあった杯を弾いてしまった。ごとりと足元の地面に落ちたそれを拾い上げ、土をはらう。邪魔なものを振り落とすという仕草が、今ばかりは不快であった。
ふっと、磊落が隣で笑う声がした。喉の奥に押し込めたような、くつくつと笑うその声は、なにやら自嘲の色がある。
「では儂は、そんな簒奪者の組織に組み込まれるというのか。孫と……栗花落と、一緒に!」
暗闇の中で曖昧になった磊落の影が、大きく腕を振りかぶる。少し遠くで、がしゃんと何かが割れる音がした。燗酒の徳利を、苛立ち紛れに投げた音であった。
「もういまさら逃げたところで、儂は栗花落を道連れに罪人になるだろう。儂がもっと早くに屋敷を手放しておれば、こんなことには……自分の意地に孫を巻き込むなど、なんと愚かなことを……!」
短い白髪を掻き毟り、磊落は背を折った。秋霖が突きつけた薄い書状一枚が、磊落の老いた背に重く圧し掛かっている。
土をはらった杯を、野火はまた廊下に置いた。こつりと硬い音に、磊落の呻きがとまる。
「先生……俺、太白学舎に──八十瀬衆の屯所に、明日行ってみようと思います」
野火の言葉に、磊落は驚いてがばりと頭を上げた。
「どうせ三日後には、俺も
なにも、わからないかもしれない。無駄な足掻きなのかもしれない。
(しかし、ここで何もしなければ……あの子はきっと、永遠にほんとうの名を名乗れない)
この両の掌で包んだ、柔らかな頬。流れた涙と微笑の感触を、野火は静かに握りしめた。
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